紅竜は隻眼に闇を宿す
隻眼となった紅竜は怒り狂っている。断続的に吠えながら追ってくるのがその証拠だ。これなら振り向くことなく距離を保つことができる。
カールはほくそ笑むと、加速して味方の射程圏内から離脱するまでの秒読みを開始した。
「十、九……」
次の数字を口にする寸前、悪寒が背筋を這い上る。
咄嗟に左へと旋回。
強烈な衝撃に声一つ出せない。
さながら落雷を浴びたかのような。無論、カールにそんな経験はない。
彼は落ち着いて自身のダメージをチェックしてみた。この衝撃は全身ではなく、右腕だけに加えられたものだ。
どうやら怪我はしていないようだが、右の肩から指先までがじんじんと痺れている。ふと、視界の端を白銀の欠片が掠めた。それでようやく右側の籠手が破砕されたことを知った。
今回の攻撃はファイヤーブレスによるものではない。
「七、六……」
錐揉み状に回転しつつ、敵の尻尾を避ける。
紅竜の尻尾がさっきまでと比べて倍ほどにまで伸びているのだ。それを理解し、奥歯を噛み締めた。
「三…………っ!」
避け損ない、鋭い尻尾の先端が腹を掠める。
赤い飛沫が宙に舞い、激痛がぶり返した。
どうやら死に際のコルマが、カールの傷口に魔術的な処置を施してくれていたらしい。ただしグライド族にはエルフ族のような治癒能力がないので、あくまで一時的な処置だ。
その傷口が開いてしまった。
激痛に悶える中、脂汗が目に染みて視界不良に陥る。
胸元のタイゲイラが脈を打つように点滅し出した。そのリズムはとても早く、まるでそれ自体がカールの心臓だとでもいうかのように。
「く……、二、一、」
苦しみながらも錐揉み回転を続け、止めていたカウントダウンを再開する。
「〇!」
カールの背を目掛け、尻尾が襲いかかる。
だが、それは虚しく空を裂き、限界まで伸び切って止まる。青い光と赤い飛沫を置き土産に、カールは一瞬早く爆発的に加速したのだ。
放物線を描いて王城へと飛び去ってゆく。自らを物と見做してぶん投げる。そんな乱暴な飛び方だ。激痛と失血により、もはやカールには魔力を複雑に制御する余裕がないのだ。
「悪いな、みんな。この化け物を追い払ってから助けに行くからな」
上空に視線を向けて謝罪するカールの耳に、頼もしい声が届く。
「投石機部隊、撃て!」
「全軍、撃ち方始め!」
初弾を撃ち終えたギムレイが腕を広げる。もはや自発的に飛ぶのでなく、ほぼ落ちるだけの状態となったカールを抱きとめるために。
一方、加速したカールを追いかけようとしたワイバーンは、思わぬ妨害に足止めを食らった。王城から繰り出される矢や大砲の全てが、自分を目掛けて雨あられと降り注いだのだ。
獲物を捉えることができず、かと言って石と矢で覆い尽くされた上空に突進する気にもならず。紅竜は仕方なく、その場に留まった。
矢も大砲も致命傷とはならないが、一切傷つかずに済むわけではない。だが、左目から視力を奪った憎い相手は正面にいる。このまま地面すれすれを這うようにして逃げるなど、全く考えてはいなかった。
「——————……!」
今にもファイヤーブレスを吐き出さんと大きく広げたその口から、音にならない苦鳴が漏れた。
投石機から打ち出された石が、ものの見事に喉へと飛び込んだのである。
滅茶苦茶に羽ばたく翼は暴風を生む。大砲と矢による集中砲火の洗礼がいよいよ密度を濃くする中、衝撃波とも呼ぶべき苛烈な風で応戦する。
紅竜の守りは堅い。鱗には矢が刺さらず、一見無防備な腹でさえ大砲の弾を跳ね返す。
しかしもちろん、ダメージがないわけではない。重い砲弾を首に食らい、炎と共に吐き出そうとしていた石を飲み込んでしまう。翼の付け根に矢が突き刺さり、羽ばたく速度が鈍ってゆく。
それでもなお空中に留まり、禍々しい気を放つ。伝説のドラゴン族が姿を消した今、食物連鎖の頂点に君臨するのはワイバーンであるはずなのだ。
『戻れ、ワイバーン。お前は予想をはるかに上回る大怪我を負ってしまった。今日の仕事はこれで終わりだ』
紅竜の耳に何者かの声が届く。魔法によるものではあるが、声の主が魔族だとは限らない。というのも、竜の耳のすぐそばにマジックアイテムが固定されていて、それを介して声が聞こえているのだ。
その声には咆哮をもって応える決まりになっていた。だが紅竜は黙殺する。
捕食者としての驕りを被食者に嘲弄された。強者としての誇りを弱者に破壊された。今、竜の怒りは不自然な枷を引き千切る勢いにまで高まっている。
紅竜をとりまく空間が揺らめく。身体全体が淡く発光し、周囲の空気が煮え滾る。
『おい、言うことを聞かないかっ。お前の仕事はこの先も山のようにあるんだぞ。もうくたばるつもりかっ。まだ早すぎる』
はたと動きを止める。
早すぎる。それはつまり、時期が来たなら死んでしまっても構わないという意味ではないか。いや、それ以前に。
——我に命令するのは何者だ。それも、使い捨ての駒のように。
素早く周囲を見回す。百年ぶりに叩き起こされたあの日、自分を起こした相手によって意識にかけられた靄のような枷。それが今、晴れてゆく。
ワイバーンは獣ではない。人間の言葉を使わないが、思考能力がある。
自由になった喉から、百年ぶりに混じり気のない自らの意思で咆哮を轟かせる。
左目を失った屈辱。食うべき相手に食われかねない恐怖。それら全てを吐き出すように。
『なぜ吠えた』
命令を与えたら、了解の合図として吠える。それ以外はできる限り沈黙。それが、声の主とワイバーンとの間で交わされていた『契約』の一部だ。しかし、声の主は与り知らぬことながら、とうに破棄されている。
『お前の主人は俺だ。とっとと戻ってこい』
他者に屈辱を与えるのも、恐怖を与えるのも自分という存在でなければならない。そして自分以外の存在というものは——。
『早く戻らないか。命令を聞くんだ』
あらゆる意味で自分の餌食でなければならない。
そんな卑小な存在ごときが、小賢しくも催眠術ごときでこの自分を操ろうなどと。
万死に値する。
「さて、どうするかねワイバーン。目下の敵は左目を奪った男か、君に弓を引く王城の連中だと思うのだが。それより先に、君に呪いをかけて操ろうとした男を食ってしまうかね。いずれにしても、力を貸そうじゃないか」
その声は白タキシードの紳士のものだ。あろうことか、彼は紅竜の背に座っている。
だが、彼は今、誰からも——ワイバーンからも——認識されることなくその場に存在している。
実は、ワイバーンを起こしたのも、その意識に枷を嵌めたのも彼だ。そして今、ワイバーンの怒りを利用して呪縛を上書きしようとしている。
「無能な主人、ピエロを食い殺せ。新たに仕えるべき主人を与えよう。そ奴の命令に従うのだ」
攻撃の雨は紳士にも降り注いでいる。だが、ただの一発も、彼に当たることはない。
「あの青い髪の戦士は、お前にとって最高のご馳走だろう。心配するな、きちんと復讐の機会を与えてやる。まずはその身体を癒し、日を改めて挑むがいい」
そう言い残して紳士は消える。後に残されたワイバーンは、急速に高度を下げてゆく。やがて、王城に背を向けると地を這うようにして飛び去って行った。
爛々と輝く隻眼は、灼熱の溶岩さながらの色に染まっていたが、やがて漆黒の闇へとその色を変えていく。