赤く染まる脱力の淵
横たわってはいるが、床の感触がない。目を開いたカールの視界は薄暗い靄に包まれていた。
上下の感覚はある。ならば、ここは空中か。
「くっ」
どの程度気絶していたのだろう。
手足を苛む痺れの感覚。耳を澄ませば、周囲を流れる風の音が聞こえる。どうやらここは、黒い霞に覆われた閉鎖空間。謂わば、霞の檻というところか。離れた場所から見た限り、霞のひとつひとつは等身大だったはずだ。しかし今、霞の壁はカールが手を伸ばしても触れられない距離を保ち、外の世界から緩く隔絶されている。
一刻も早く脱出しなければ。痺れる身体に鞭を打ち、伸ばした手からエアスラッシュを飛ばす。
しかし、霞に触れた空気塊はスパークを弾けさせて消滅してしまった。かすかに外の景色が見えたのも束の間、あっという間に霞によって塞がれてしまう。
大きく舌打ちし、唇を噛む。
「いや、鎧だ。俺には鎧がある。ワイバーンの火炎だって突き抜けられたんだ。こんな霞ごとき」
精神を集中してみたが、鎧は光を宿さない。光の有無による鎧の性能差は不明だが、先ほどは不意を衝かれ、鎧に覆われていない脇腹を霞に触られた。それで痺れてしまい、このざまだ。このまま無策に霞を突き抜けようとしても、また痺れてしまうかもしれない。
だが、じっとしているつもりはない。流れる汗を手でぬぐい、霞を睨みつけて考え込む。
気を失う直前、頭から真っ逆さまに落ちていた。それが今、こうして宙に浮いている。ワイバーンと黒い霞の関係は不明だが、少なくとも後者には直ちにこちらを殺そうという意図はなさそうだ。
黒い霞が自然現象などではないことは明白。こうして捕らえられ、間近で観察することによって、カールは「霞そのものが意思を持つ存在ではない」と判断した。
しかし、事態を楽観視するわけにはいかない。触れるだけで痺れる霞を操る者がどこかにいて、この戦場を監視している。それがたとえ何者であれ、こちらに好意的な人物だとは考えにくい。
やや痺れがおさまってきた。やはりリスクを冒してでもここから出るべきだ。拳を握り、可能な限りの初速を得るため魔力を編み上げていると、何かが聞こえてきた。
『聞こえるか、カール。生きてたら返事しろっ』
先ほど堕ちて行った仲間の声だ。
「なんとかな」
『良かった』
ふと気になり、カールは質問の言葉を声に出した。
「そう言えばお前、俺の声が聞こえるのか」
『今さら何言ってる。さっきだってお前、俺に声を届けていたじゃないか』
その言葉にはっとして、見開いた目を上空に向ける。霞越しでは何も見えない。声を張り上げてみた。
「九班、十班。聞こえるか、状況を知らせろっ」
『おお、カール。生きてたか。そんな大声出さなくても聞こえるぞ。というか、お前、声を飛ばせるようになったんだな』
声に含まれる余裕の響きから、どうやら全員健在だとあたりをつける。しかし、続く言葉の調子は一転して苦い色を帯びた。
『それで、今の状況だがな』
耳を傾けるカールの表情は緊張にこわばっている。
ワイバーンは再び静止してしまったらしい。しかし忌まわしいことに、仲間の半数に及ぶ十五人が、カールと同じように霞に取り込まれて動けないというのだ。
助けようにも、迂闊に霞に触れたら痺れてしまう。エアスラッシュはもとより、エアシールドも霞を突破するには力不足とのことだった。
『現在、ワイバーンはじっとしている。だが、どうも嫌な感じだ。こちらへの関心を失ったのではなく、何者かの命令に従って渋々待機しているかのような。それに、この隙に霞を操る未知の敵に襲われでもしたら——』
捕らえられた仲間たちの命が危ない。そして、それを見捨てられる仲間たちではない。事実上、グライド族全員が上空に釘付けにされているのと同義だ。
「くそ、くそっ。俺が不甲斐ないばかりに……っ」
カールは我知らず、唇の端を噛み切った。
『————っ、しまった』
また一人、霞に捕らえられたらしい。いや、一人ではない。
『すまん、ろくに喋っていられない。くっ、この! 霞が、動き回って……。俺たち全員を閉じ込める、つもりかっ』
その報告の間に、無事な仲間は一桁にまで減ってしまったようだ。カールは目を閉じた。そのまま深呼吸を始める。
「我らが守り神よ。我が血肉をなす風よ。我は所望する」
開いた瞳が燐光を発する。
「——同胞を護り抜く旋風を」
言い終えると同時、カールの胸元に強烈な光が生じた。
光はすぐにおさまったが、異変はそれで終わりではなかった。刹那の間さえ置かず、爆音が轟くと共に強風が渦を巻く。
霞を吹き散らした後も、強風の渦はその場で吹き荒れ続ける。
強風の中心にあって、カールの前髪はそよ風に撫でられる程度の穏やかな揺れ方だ。その姿、風を従えた精霊王さながらの貫禄。
光る瞳を上空の仲間たちに向けたところで、霹靂のごとき咆哮が響き渡った。
ワイバーンの巨体が悠然と移動する。カールと仲間たちとの間に割って入った格好だ。その背に隠れた仲間たちはというと、全員が霞に捕らえられてしまったようだ。
『上の連中は俺に任せろ』
いや、もう一人残っていた。さきほど堕ちた仲間だ。彼は急速に上昇して行く。
「よせ!」
制止は遅きに失した。
ワイバーンの嘴が光ったと見るや、拳大の火球がランダムな軌道を描いて飛んでいく。その数、約三十。いずれも上昇中の仲間を追って行く。
「間に合えぇ」
移動を開始したカールの進路を阻むかのように、紅竜も移動した。
「どけ——、ぐあっ」
身にまとう強風の力を過信していた。一直線に飛んでいくカールは、正面から向かってくる敵の尻尾を避けようともしなかったのだ。
風が勢いを失っていく。
限界まで見開いた目で、自分の腹部を見下ろす。身体の中心を突き刺す尻尾の先端は、背中へと突き抜けていた。
「ごふっ」
開いた口からは意味のある言葉の代わりに咳が漏れ、液体が零れた。
赤い。他人事のような感想しか浮かばない。急速に倦怠感が全身に広がっていく。
コルマの時と同様に、振り回された尻尾から抜け落ちると、彼の身体はそのままの勢いで堕ちて行く。
『カー……ル。お前まで、やられちまう……なん』
再び薄れて行く視界の隅に、黒焦げとなった仲間の身体が堕ちて行くのが見えた。そちらへ伸ばしかけた手が、力なく垂れる。守れなかった。
——俺は風使いにはなれなかった。土台無理な話だったんだ。身勝手に生きてきたヘタレが、突然誰かを守るだなんて。
ローラの顔が脳裏に浮かぶ。祖父母の死を伝えて以来、彼女の笑顔を見ていない。
「ま……だ」
閉じきる前に瞼が止まった。身体全体が淡い青の光をまとう。
マミナの姿が脳裏に浮かぶ。小さな身体でありながら、大空を自在に飛び回る少女だ。サーカスのテント小屋のような狭い場所など似合わない。
「迎え……に」
重い瞼をこじ開ける。青い光の粒子が渦を巻き、カールの周囲に漂い始める。落下速度が緩くなった。
パーミラの顔が脳裏に浮かぶ。おっとりとした優しい雰囲気でありながら、自分の考えを曲げようとしない芯の強さを感じさせる少女だ。衝突するくらいに近い距離で、彼女のことをもっと知りたい。
このまま永遠の別れだなんて——。
「冗談じゃ……ない。ぐふ……っ」
瞳が強く輝いたものの、口の端から赤い雫が飛び散った。やがて、ゆっくりと目を閉じて——。
再び、元の速さで落下していく。それを止められる仲間は、もうこの場に一人もいない。
カールの胸元で、二度、三度と青い光が瞬く。しかしそれっきり、力尽きたかのように光が途絶えてしまった。




