戦闘空域に忍び寄る暗雲
撤退。
カールがその号令をかけるより早く、仲間の声が届いた。
『カール、俺だ』
コルマに続いて落ちて行った仲間だ。
『十班のエアシールドのおかげで、俺は軽傷で済んだ。コルマは確保した、全速で王城へ連れて行く。まだ息がある、今なら間に合うっ』
そうか、と返すカールの声に力はない。
『作戦は始まったばかりだ、しけた声出してんじゃねえよ』
言葉の内容はともかく、気遣わしげに声をかけてくる。
『お前の作戦は有効だ。自信を持て』
「とてもじゃないが自信なんか持てない」
そう呟くカールに対し、相手は声に笑みを含んで告げた。
『自分の未熟な指揮のせいで仲間が傷つくのを見るのは耐えられない、か。お前の考えそうなことだぜ。だがな』
声の調子が真剣さを帯びる。
『ワイバーンと言っても神じゃねえ、付け入る隙はある。何より、ここは俺たちの空だ。それを乱されて、みんな頭にきてる。コルマの暴走も、その気持ちがあればこそ』
別の仲間の声が割り込んだ。
『一撃離脱戦法を続けるぞ、カール。俺たちのことは気にするな。みんな、お前に命を預けている』
一班の二人が無言でカールの肩を叩く。
「重すぎんだよ、莫迦野郎ども。こんなはぐれものに大事なもの預けやがって」
そんなカールの呟きも、律儀に仲間たちへと伝達されてしまった。
『しょうがねえだろ、指揮官殿が莫迦なんだからよ』
苦笑の形に歪めた口許を真一文字に引き結ぶと、ワイバーンを睨みつける。
その視線を受け止めて空中に悠然と静止し、低く唸るワイバーン。
——今度近づいたらぶち殺す。
一度脳内変換してしまうと、そのように言っているとしか思えない。敵意に満ちた唸り声である。
カールは上空で待機するグライド族の仲間たちを視界に収めると、王城へと目を向けた。敵の目的地は初めから王城だったようだ。
現状、それをグライド族が足止めしている格好となっている。ここで撤退しようものなら、兵士の手薄な場所から王城に攻め入られるかもしれない。
弓兵はともかく、大砲を移動するには時間がかかる。人間の攻撃力の要たる大砲を欠いた状態での対戦を強いられた場合、おそらく人間側に勝ち目はあるまい。
ここでカールたちが引いたら、いや、たとえ引かなくても誘導に失敗したら、サーマツ城が壊滅的な惨禍に見舞われることはほぼ確実となる。
「くそ。身に染み付いたヘタレ根性はそう簡単に抜けるもんじゃねえな。撤退なんて考えもしないで飛び立ったはずなのに」
——俺は今、何のためにここにいるのか。
自問に対する回答は、改めて考えるまでもない。
二言三言、言葉を交わしただけのローラの祖父母を思い浮かべる。そしてローラのことも。
『すごく優しい娘よ。身内だけじゃなく、他の兵隊さんにも祈りを捧げてた』
パーミラの言葉を思い出し、カールは握った拳を掌に打ち付けた。ローラのような不幸を、これ以上拡大させるわけにはいかない。
「お前たちはそれぞれ九班と十班に入れ。サブリーダーとして指示を続けるんだ」
「それで、お前は何をするつもりなんだ」
その問いに対し、カールは口の端を吊り上げて不敵な表情を見せると、短く告げた。
「ケツまくる」
それを聞いた一班の二人は一瞬固まった。彼の言葉を額面通りに受け取ったからではなく、その意図を正確に理解したからである。
作戦第二段階への移行。自らが囮となり、ワイバーンを誘導すると言っているのだ。
若きリーダーを真正面から見据えると、仲間たちは口々に言う。
「まだ早いんじゃないか」
「ワイバーンには何のダメージも与えてないぞ」
これに対し、カールは首を横に振った。
「コルマじゃないが、今の戦法を続けた場合、たとえ全滅しなくても日が暮れる。待ちぼうけを食わされる人間の兵士たちも、緊張の糸が切れてしまう」
仲間たちは一つ溜息を吐くと、互いに顔を見合わせ頷き合う。次にカールへと向き直った時、その顔には冗談めかした笑みが浮かんでいた。
「普段は女から誘われる側のお前が、今回はとびっきりの相手を誘おうってんだ」
「ワイバーンの性別なんかわからねえが、奴は多分オスだぜ。いつものように手玉に取れるとは限らない。うまくかわせよ」
それぞれそう言ってカールの肩を叩くと、仲間たちが待機する上空へと去って行った。
「なんだよ、手玉に取るって。そもそも女から誘われた経験なんてそんなにないぜ。……片手で数えられる程度しか」
ここから先は、仲間たちからカールへと声を届けることはできても、彼の声を仲間たちに中継する者がいない。撤退なき戦いに突入するのだ。
今、敵の視線はカールへと真っ直ぐに向けられている。上空で待機中の、他のグライド族には見向きもしない。
歯を食いしばり、その視線を受け止める。
「なんで気に入られたのか知らねえが」
歯を剥き出し、口の端を吊り上げて見せる。仲間にそうして見せたときよりも、少しでも獰猛な表情に見えるように。しかし、顎を伝う汗が一雫、滴り落ちて陽光を反射した。
「来いよ。鬼さんこちら、ってな」
一つ深呼吸。敵は動かない。
「来ないのか。なら、先にこっちから行くぜ」
霹靂のごとき咆哮が轟く。
それを合図に、ワイバーンめがけて突進して行く。まるで、体当たりでもするかのような勢いで。
* * * * *
白銀の光が一直線にワイバーンへと向かっていく。その様子は、王城で待ち構える兵士たちからはっきりと見ることができた。
ギムレイも今まさに空を見上げている。大型投石機の操作部を離れ、城壁から身を乗り出す。
「カール! 無茶しないでっ」
彼が叫ぶよりわずかに早く、すぐ真後ろから高い声がした。
ぎょっとして振り向くと、緑の髪の少女が空を見上げて立ち尽くしている。
「パーミラ、ここは危険だ。持ち場の救護所に戻って。……そういえば、グライド族の怪我人、どうなった」
「血は止めたわ。まだ意識は戻らない。看病はローラに任せてる。それより、カールが」
早口でまくしたてる彼女の背後で、小さな風が巻き起こった。怪我をしたコルマをここまで連れてきたグライド族の青年だ。ギムレイたちの頭上から話しかけてきた。
「任せろ、加勢しに戻る。だからパーミラ、あんたはコルマのことを頼む」
それだけ言い残すと、戦闘空域へと翔け上がって行った。
全員の視線が再びワイバーンへと向かった、ちょうどその時。
ファイヤーブレス。吐きながら首を振ったらしく、扇状の炎がカールの逃げ場を奪うかのようにして襲いかかる。
悲鳴が上がる。ギムレイは声の主たるパーミラへと素早く駆け寄り、その背を撫ででやった。
「落ち着け。空はカールの庭だ。そう簡単にやられはしない」
腕に縋り付く少女に優しく声をかけてはいるものの、ギムレイ自身も自分に言い聞かせるような言い方になっている。ここのところ余裕がなく、語尾を伸ばすいつもの話し方が影を潜めているのだ。
炎のカーテンを割り、白銀の光がワイバーンの正面を横切る。不規則に曲がる光を追って、ワイバーンの巨体が動き始めた。
グライド族による攻撃以来ずっと静止していたワイバーンが、ようやく動き出したのだ。そして、その進路は確実に王城へと向かっている。
「さあ、パーミラ。もう持ち場に戻って」
「う、うん……」
彼女は何度も振り返りつつ、救護所へと戻っていく。それを見送ると、ギムレイは自らの胸を叩いて気合を入れた。
戦場の目という目がワイバーンとカールに集中している。今この時、誰一人として気付いてはいない。
大空の一角に、不自然な黒雲が発生していることに。
不気味に蠢き、大きく広がろうとしていることに。