青く輝く風使いの片鱗
ギムレイの声が聞こえる。
「朝……じゃないよな」
目を開いてみれば、夕暮れ時だ。いつのまにやら昼寝でもしていたのだろうか。
カールは身じろぎした。軽い違和感を覚える。頭部や胸部を包む、衣服よりも硬い感触があるのだ。ようやく目が覚めてきた。
「ああ、そうだった。俺はエルフの族長グリズ様から鎧をお預かりしたんだ」
幌の隙間から夕焼けに染まる空が見える。だからこそ夕暮れ時だとわかったのだ。
「ここ、どこだ。幌……、荷馬車か」
軽く記憶が混乱している。自分の格好を見下ろし、周囲を見回す。たった今まで荷馬車の中に横たわっていたようだ。
「おはよう、カール」
こちらを覗き込む、大きな翡翠の瞳。
「やあ、パーミラ」
彼はまぶしげに目を細めると、彼女が差し出す手をとって身体を起こした。
外からは、カールがよく知るグライド族の仲間の声がする。
「こっちは誰も乗ってない。そっちはどうだ」
「こっちもだ」
耳を澄ますまでもなく、そんな会話が聞こえた。探し物でもしているのだろうか。仲間たちに限って、人間の物資が目当てということは考えにくい。というより、ありえない。
仲間の声に応じたものか、落胆したような呻き声が聞こえてきた。そちらもまた、カールにとってはよく知る声だ。
「ギムレイもいるのか」
意外そうに呟いて幌から外を見る。カールが乗る荷馬車のすぐ近くにしゃがんでいるウォーガの姿があった。間違いなくギムレイだ。人間を驚かすことを嫌い、頑として人里におりようとしなかったはずなのに。
よく見ると、彼はただしゃがんでいるだけでなく——。
「なんで縛られてんの」
言ってしまってから納得する。ウォーガが自由に動ける状態で町に現れたら、武器を持つ人間が押し寄せる事態を招きかねない。
おそらくはギムレイ自身が提案したことに違いないのだが、そうまでして彼がここに来た理由がわからない。
グライド族の仲間は三人。二人は手分けして、馬車の残骸や焼け残った荷台を探し回っている。一人はギムレイの肩に手を置き、時折元気づけるように軽く叩いてやっている。
その様子を見て合点がいった。仲間たちはギムレイのために探し物をしているのだ。そして探し物はマミナに他ならない。
彼女は間違いなくこの馬車にいた。あれは夢ではなかったのだ。
「すまんギムレイ。マミナはここにいたんだ。入れ違いになった」
ようやく記憶がつながった。
だが、わずかな空白がある。馬車ごとワイバーンのファイヤーブレスに包まれたはずなのに、なぜ無事でいられたのだろう。
「そうだ、あの団員」
まだこれほど暗くなる前に、猛烈な疲労感と抗い難い眠気の中、立ち去る団員の声を聞いた。
「気のせいじゃないはずだ。たしか、次の興行先がどこだとか言っていた。くそ、どこだったか」
「無事……なんだな」
穏やかな、いつもの声。毛むくじゃらの親友はカールを見つめ、ほっとした様子で呟いた。
カールは荷馬車から飛び降りた。後に続こうとするパーミラに自然な動作で手を伸ばす。
互いに握り合う手には一切の力をこめることもなく、少女の身体は水中へ潜るかのようにゆっくりと地面に降り立った。
カールはおのれの身を包む淡い光に目を丸くした。どうやら自覚なく魔力が発動したようだ。
だが、今はそれどころではない。彼はすぐに表情を消すと、ギムレイの正面で片膝をつく。
「責めないのか」
マミナの姿を見たというのに連れ去られてしまったのだ。立場が逆なら、自分はどういう態度に出るだろうか。誰のせいでもないとわかっていても、怒鳴り散らしてしまうかもしれない。
なぜ真っ先にマミナを保護しなかったかと。それが不可能なら、なぜせっかくの手がかりをしっかり覚えておかなかったかと。
「すまん。俺が不甲斐ないばかりに」
カールの口をついて出る反省の言葉を聞いても、ギムレイは首を横に振るだけだった。
「そもそもおいらさえいなければ、マミナが捕まることはなかった」
「まだそんなことを言ってるのか」
探し物を終えたグライド族の仲間が、カールたちの周囲へと集まってきた。発言したのはその中の一人だ。
「全ては道化師のせいだ」
仲間たちから経緯を聞いたカールは、握りしめた拳を震わせた。ほぼ同時、風が音を唸らせて荷馬車の幌をはためかせる。
「騙し合い、奪い合い、そして殺し合う。人間なんて、所詮はそういう種族なのさ」
「それは違う」
カールの目に青い輝きが灯り、全身を淡い燐光が包み込んだ。オーラと化して立ち昇る光は、夕暮れの空に楕円形の紋様を形成すると一際強く輝き、やがて消えた。
「今のはもしかして、噂に聞く『風使い』の証ではないだろうか。カール、お前……。いつの間にそれほどの魔力を」
気圧された様子で呟く仲間たちの声には反応せず、彼は言葉を続けた。
「そりゃ、マミナを捕まえて売り飛ばした道化師は殴ってやりたいほど憎いよ。だがな、だからって人間全体を憎む気にはならない」
風はいよいよ強くなり、荷馬車の幌がめくれ上がる。
「ローラはな、マミナの友達だ。俺とはさっき知り合ったばかりだが、ここでワイバーンに襲われたんだ。彼女、ろくに歩けないくせに俺に言ったんだぜ。一人で逃げろ、ってな」
吹きすさぶ風は突風に近い強さとなってカールの髪を乱す。場のほぼ全員が砂塵から目を守るために、手で目を覆った。
「身内と離れて心細いはずだ。怪我をした足ではろくに歩けないだろう。そんな状況でも相手を気遣うことができるなんて……。そんなの、放っておけるか」
ふと気づくと、パーミラが彼の袖を掴んでいた。その意図をどう受け取ったか、カールの声が穏やかになる。
「すまん、なんか興奮しちまったな」
その言葉とともに、勢いを弱めた風が仲間たちを優しく撫でて吹き抜けてゆく。まるで、カールの気分と同調しているかのようだ。
「残念ながら、人間の中には殴りたい奴らもたくさんいる。でも、ローラのような人もいる。だから、俺はそう簡単に人間全体を嫌ったりなんかできない」
こちらから嫌ってしまったら、相手からも嫌われるだけ。そう力説するカールの肩を、仲間の一人が穏やかに叩いた。
「わかってるよ。さっきは少し言い過ぎた。俺たちとしても、人間全体にではなく、その道化師にムカついてるだけなんだ」
「しかしカール。はぐれものを気取ってたお前が、まさか俺たちの中で真っ先に『風使い』になっちまうとはな」
「何言ってんだ。さっきの風なら偶然だろ」
カールの言葉に顔を見合わせた仲間たちは、口許を苦笑の形に歪めて告げた。
「俺たちゃグライド族。自然現象の風か魔力による風か、見誤ったりするものか」
その発言を受けても、カールは怪訝な表情のままだ。
「俺の魔力って、ほぼ飛ぶことに特化してるはずだぜ。今だって、意識して風を起こそうだなんて思ってなかったし」
「意識するまでもなく風を起こせる。だからこそ『風使い』なんだ。お前だって知ってるだろ。これからは、無意識に風を起こさないよう制御することを覚えないとな」
グライド族としての魔力を極めた者は『風使い』となり、強烈な風を自在に操れるという。一族の一人として、カールもその話は知っている。だが、話として聞いただけだ。族長でさえ『風使い』ではないという。
別の仲間が会話を打ち切るために手を叩いて注目を集めた。
「さあ、もう暗くなる。ここにマミナはいないし、いつまたワイバーンが現れるかわからない状況だ。長居は無用だぞ」
撤収する以上はギムレイを縛っておく必要もない。カールが彼の拘束を解いていると、パーミラが手伝いながら話しかけてきた。
「あの赤毛の女の子、ローラというのね。実は、ここに来る途中でね——」
パーミラの説明を聞き終えると、カールは奥歯を噛み締めて目を伏せた。抑えた声を絞り出す。
「くそっ。その老人は十中八九、この子の身内だ。……それで、死体は」
「そのままよ。あたしたちには人間の宗教がわからないもの」
その返事を聞くと、ゆっくり立ち上がって荷馬車へと振り向いた。一瞬固まり、視線を泳がせる。
赤毛の少女が幌から顔を覗かせていた。目が合ってしまったのだ。
「いつから」
主語も述語も省略したカールの呟きを、ローラは正確に理解した。
「……全部聞いてたわ。連れてって」
カールは、先ほどパーミラにしたのと同様にしてローラを地面に下ろした。
「あなたたち、サルーサ山に帰るんでしょ。あたしは置いてってくれて構わない。もう足の痛みはほとんどないから、知り合いの家まで歩いても大したことないし」
赤毛の少女は涙は見せず、口もとを一直線に引き結んでいる。
カールは黙って首を縦に振った。
ローラは背筋を伸ばすと、身体ごと視線をまっすぐにパーミラへ向けた。
「パーミラさんだっけ。あたし、ローラです。ありがとう、おじいちゃんを看取ってくれて」
一方、パーミラは、まるで堤防が決壊したかのようだ。翡翠の瞳から雫があふれ、声を殺した嗚咽が漏れる。次の瞬間、エルフの少女はローラに抱きついた。
「さすが、カールの友達ね。……優しい人。本当にありがとう」
そう呟くローラの声もまた震えているのだった。
* * * * *
「なあ、お前らは先帰ってていいぞ。俺の代わりに王様からの伝言を長に伝えておいてくれ」
この季節である。放置した死体はあっという間に腐る。あるいは、腐る前に屍肉食いの獣や野鳥に食い荒らされてしまうだろう。
だがワイバーン騒ぎのせいで、人々は王城や教会、ギルド会館や王立学園といった施設に立て籠もってしまった。
少なくとも今夜ひと晩は、亡骸を引き取りに来る者はいないだろう。騎兵の身内は、仕事柄主人の任務が長引くことがあるのを承知している。ワイバーンへの不安の中、彼らの帰りを待ち続けているに違いない。
そこでカールたちは、王城から程近い共同墓地まで遺体を運び、亡くなった騎兵たちを一人一人丁寧に横たえていった。ローラの祖父母を含めると、遺体の数は十を超える。約半数は原形を留めない無惨な姿となっており、サーカスの荷馬車の幌を利用し、彼らにかけていったのである。
幸いというべきか、日が落ちた上に戒厳令が発令されたことで、外出している者はいない。そこでローラとパーミラをこの場に残し、ギムレイに護衛を任せたのだ。
「伝言なら一人でこと足りる。お前は『風使い』だ。俺たちはお前に従うぞ」
「よしてくれよ。俺ははぐれものだぜ」
苦笑するカールに対し、仲間たちは「お前はどうしたいんだ」と訊いてきた。
「俺が今からしようと思っていることはな、人間との共闘だ。……ローラの爺さんも婆さんも、この騎兵たちも。ほんの数分会話しただけだが、気持ちのいい人達だった。これ以上、この国でワイバーンが暴れ回るのを見過ごす気にはならない」
——マミナのことは気がかりだが、サーカスにいるのならひとまず生命の危険はないだろう。だから、彼女のことは後回しだ。
胸中でつぶやきつつも、カールは唇を噛んだ。
「人間を守る、ではなく共闘する、か。お前らしいよ、カール」
「当たり前だ。俺たちグライド族の魔力は戦闘向きじゃねえ」
辺りはすっかり暗くなったが、王城の周辺は騒然としている。戦争の準備さながら、松明や魔法の灯りが灯され、兵たちはひっきりなしに駆け回っている。
どうやら次にワイバーンが現れた時、果敢に反撃するつもりでいるようだ。
「多分王様も予想はしているだろうが、騎兵隊の全滅を知らせないと。ローラの寝床も確保しなきゃならん」
そう言ってローラへと視線を向ける。
彼女は今、ギムレイに寄りかかって眠っている。覚悟はしていたようだが、祖父母の無惨な姿をまともに見てしまったのだ。どうやら泣き疲れてしまったらしい。
彼女にかけられていた布がずり落ちた。それをかけ直してあげたのはエルフの少女だ。夜風に乱れたローラの髪を指で優しく梳いてから立ち上がり、カールの隣に来た。
「放っておけない、わよね」
「ああ、マミナにとっては家族のようなものだろうからな」
「すごく優しい娘よ。身内だけじゃなく、他の兵隊さんにも祈りを捧げてた。ただ、少し身体が弱そうだから」
きちんとしたベッドで寝かせてあげたい、とつぶやくパーミラは愁眉を曇らせた。
「俺たちの里にもベッドはあるが、あまり人間向きとは言い難いからな。協力する見返りを要求するのは柄じゃないが、ローラのこと、王様に頼んでみよう」
——絶対助けに行くからな。
カールはここにはいない少女に向けて呟く。
——待っててね。
彼の横で、まだ会ったことのないフェアリーに向けて、パーミラも心の中で呼びかけた。




