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青い髪のはぐれ風

 力強い風が少年の身体を上空へ押し上げた。仰向けの姿勢をとり、風に逆らわず上昇していく。手を広げ、時折身体を傾けては右へ左へと舵を取る。

 人間が、鳥のように空を飛んでいる。いや、人間ではない。

 暴風と呼ぶべき風の中にあって、青い髪は微かに揺れるのみ。風を纏って空を飛ぶ、髪の色以外は人間と違わぬ容姿の魔族。ここ、サルーサ山に棲む風の民、グライド族の特徴である。

 視界を灼く陽射しの中、眉根に皺が寄るほどきつく目を閉じてはいるが、口許は気持ち良さげに綻んでいる。反転し、太陽に背を向けると目を開けた。

 瞳の色は、上空を染める紺碧をそのまま宿したような深い青。視線の先はサルーサ山に向いている。

 山肌を覆うのは目に鮮やかな木々の深緑。麓の平地へと視線を下げて行く。そこには人間たちが暮らすサーマツ王国がある。

 平地は色とりどりに咲き誇る花々が溢れ、目を楽しませてくれる。気ままに空を飛ぶにはいい季節だ。

「そろそろ時間か」

 ラージアン大陸最南端に近いこの王国には、まだ機械式の時計塔が設置されていない。人々が時を知る手段は、教会の鐘と中央広場の日時計に限られる。少年の視力は、遥かな高空から日時計を捉えたのだ。

 彼は王国を目指し、急降下した。

 風の民グライド族は、生まれた場所で一生を終える。仲間たちはそれを当然のこととして疑おうともしない。だが、こうして見下ろせば大陸は広く、北のスカランジア帝国に至るまで、いくつもの人間の国がある。

 人間はマジックアイテムがなければ魔法を使えない。だが、生活改善の工夫と娯楽の追求においては、魔族よりずっと貪欲だ。大抵の魔族は基本的に変化を良しとせず、禁欲的な生活を是としている。上空から見渡せば、ラージアン大陸はこんなに広い。仲間たちは、他の土地に住む連中の生活に興味がないのだろうか。

「俺たち、飛べるのに。馬より早く他の土地に行けるのに」

 世界にはまだ見たことのないものがたくさんある。それを知らずに終わるのでは、飛べることにどんな意味があると言うのだろう。

「俺は知りたい。他の土地に住む人間たちのことを」

 彼のように好奇心旺盛なグライド族は他にいない。毎日のように儀式や日課をサボっては、他の魔族と遊んだり人間の歓楽街で遊んだりする彼は、いつしかはぐれ者となり、族長から小言さえ言われなくなってしまった。

「俺だって考えてんだ、遊んでばっかじゃないんだぜ。さて、演技だ」

 独り言を漏らしつつ、彼が降り立ったのは教会の裏手である。

「もう。カールったら遅いじゃない」

 黒に近いブラウンの髪をポンパドールに結い上げた少女が甘ったるい声をあげて駆け寄って来る。教会が定める戒律ぎりぎりの濃い化粧をしており、素顔がよくわからない。眉は細く剃り、黒いアイシャドウを施している。あまり肌に良くなさそうな白粉を塗り、真っ赤な口紅が燃えているかのように目立っている。

 人間によるマジックアイテムの研究が進み、魔法技術が体系化された現在、魔除けとしての化粧は迷信でしかない。従って、彼女は純粋にお洒落としての化粧をしているのだ。人間の流行に異を唱えるのは野暮というもの。思わず寄せそうになる眉根を、苦労して穏やかに保った。

「やあ、バレリー。今日も綺麗だね」

 白い歯に陽光を反射させ、青髪の少年カールは微笑んで見せた。

「やぁん、その顔を見たくて待ってたのよぉ。もっと早く来てくれたらそれだけ長く見ていられたのにぃ」

「俺だって早く会いたかったから、これでも急いできたんだぜ。でも、待つ時間が長ければ、会えた嬉しさもその分増すだろう」

「そうだけど……。私としては少しでも長くお話していたいわ」

 上目遣いで拗ねた声をかけながらも、あるものを彼に差し出す。

「はい、今日の写本よ。がんばって、いつもより多めに書き写したのよ」

 カールが受け取ろうとすると、素早く背に隠してしまう。

「お話できなかった分、ご褒美が欲しいわぁ」

 顎を持ち上げ、目を閉じてみせる。

「おっと。お嬢様、背伸びが過ぎますよ」

 腰に手を回し、抱き寄せて耳許に囁く。あっという間に写本を取り、身を離した。

「今日の本は……。おお、以前まえに吟遊詩人が唄ってるのを聴いたことがある。『白き竜の伝説』だね、読むのが楽しみだ」

「うん、もう」

 可愛らしく——恐らく彼女自身はそう信じている——不満を表明しつつも、白粉を通してなおはっきりと分かるほど頬を染めている。

「バレリーが立派なマダムになった時、まだその気があったら誘ってくれ。喜び勇んで馳せ参じるぜ」

「それはあたしが結婚してからしか付き合ってくれないってこと? 意地悪」

 今にも泣きそうな声で唇を突き出す。

「学のない俺との火遊びのせいで、お嬢様が道を踏み外してしまっては本末転倒だ。今のバレリーは俺の先生。バレリーがお嬢様でいられなくなったら、俺の先生がいなくなってしまう」

「わかってるわよ。じゃ、今日の教材の中にわかんないことがあったら、次の時に聞いてよね。私、もう戻らなきゃ」

 そう言うと、彼女は何度も振り返りながらも歩き去って行った。馬車で送り迎えされるほどの身分ではないものの、そこそこの名家の子女らしく歩き方そのものは上品である。

 爽やかに笑って見送りつつ、カールはそっと溜息を吐いた。

「せめて読み書きくらいはできなきゃ、他所の土地に行ってもろくに見聞できないからな……」

 しかし、ただ読み書きするだけなら彼はもう随分と不自由なくできるようになっている。

「そろそろ族長に相談しようかな。旅に出たいって」

 久々に小言を言われるか、下手したら怒鳴られるかもな——、そう考えた途端、演技の爽やかな笑みは苦笑へと変わった。


「一生旅に出てていいぞ」

「へ?」

 白髭の老人と対面し、カールは奇声を発した。髭と同じく髪も真っ白になっているが、この老人こそグライド族の長である。

「…………」

 その日の夕方、カールは早速族長に相談したのだ。それに対し、即答で返されたのが先ほどの言葉。予想の斜め下だった。

 二の句を継げずに固まっていると、族長が呆れたように告げる。

「なんじゃその返事は。旅に出たいと言ったのはお前じゃろう」

「言いましたけれども。ひょっとして追放ですか」

 今度は族長が黙り込む。

 なんてこった、と呟き天を仰ぐカールを見て、族長は豪快に笑い出した。

「冗談じゃ。これからの時代、人と交わらぬ魔族に未来はない。それに」

 笑いをおさめ、表情を引き締める。

「若者が外の世界を知るのは大切なこと。思う存分旅をして来るがよい。なに、お前はもともとはぐれ者。下手に帰る場所があると期待して浅い見聞をするよりも、気に入った土地があればそこで永住するくらいの気持ちで深く見聞をしてくるがよかろう」

 そう言って肩をぽんぽん叩く。

「ありがとうございます、長老。では明日、早速行って参ります」

「せっかちな奴め」

 族長は苦笑しつつ、思い出したようにつけ加える。

「わかってるとは思うが、お前が旅先で粗相してもグライド族としては関知しないのでそのつもりでな」

「わかってますよ」

 カールも苦笑で返した。


* * * * *


 人間と違って、魔族であるカールは食事や宿泊の面において然程心配する必要がない。人間にとっては何の栄養にもならない、それどころか毒になってしまうような野草や木の枝からでさえ、彼は栄養を摂ることができる。

 しかし旅の目的を考えると、人間が集まる宿や酒場に立ち寄らず、日々の生活に追われる農村に立ち寄ったところでろくに見聞を広げられるものではない。

 そこで非正規の手段を講じて読み書きを学ぶ傍ら、ちょっとした下働きで僅かばかり路銀を貯めた。中でも、あまり長期間ではないが公衆風呂屋での下働きが大きな稼ぎに繋がった。飛ぶ以外にも多少は魔法を使えるカールではあるが、井戸水の運搬や薪の用意、浴槽の掃除などがつらい重労働であることは人間たちと同じだ。しかし彼一人で二人分は働いたため、親方が色をつけてくれたのだ。

 ほとんど膨らみのない革袋一つを背に出発しようとした矢先、背後から声がかけられた。高くて大きな、女の子の声だ。

「あらカール。どこ行くの」

 その女の子は羽の民、フェアリー族のマミナだ。肩までの長さの深紅の髪と朱色の目をもつ一五歳の少女だが、その身長はカールが広げた掌二つ分の長さに届かないほど。彼の身長のおよそ六分の一だ。背に持つ四枚の細い羽は飛ぶときにだけ現れる。羽の色は透明だが、飛んだ軌跡に光の筋を曳く。

「あたしもついてっていい」

 語尾を上げ、首を傾げて訊いてくるが、否定されるとは微塵も考えていないことは彼女の目の輝きを見れば明らかだ。

 ところで、彼女はいつ見ても違う服を着ている。今日は薄紅色で丈の短いワンピースだ。人間の子どもが着るような服なのだが、彼女はどうやら人間の町で調達してくるらしい。もちろん金など持っていないので、マミナはその外見を利用して優しそうな人に近付いては媚を売り、タダで服を作ってもらっているのに違いない。

 見た目の可愛さであこぎなことを、などと我が身を振り返ることなく考えてしまうカールであった。

「お遣いじゃないんだ。これといったアテもない。いつ帰って来られるかわからないぜ」

「いいじゃなーい。楽しそうで」

 お気楽な返事に苦笑を返す。

「楽しいかどうか保証できないし、するつもりもない。ついて来るのは構わないが、ギムレイと相談してからにしろよ。俺は一人旅のつもりで、できるだけ人間の宿を利用するつもりだったから――」

 最後まで聞きもせずに言葉をかぶせてくる。

「もっちろんギムレイにも声を掛けるわよ。あと、あたし夏の服が欲しいから、人間のとこに行ってくるわ」

 カールの目が点になった。

「お前が今着ているのはどう見ても夏の服に見えるんだがな。全く、容姿に騙されていいように利用されてる人間が気の毒だぜ」

 マミナは腰に手を当てた姿勢のまま少年の目の前まで飛んでくると冷たい声で告げる。

「あんたにだけは言われたくないわね」

 腕組みして考え込む彼を見て盛大に溜息を吐いた。

「……。貴族のお嬢さんたちもお気の毒ね。ま、あたしには関係ないけど。それじゃ、まずギムレイと相談してくるね。そのあとは服の調達」

 飛び去るマミナの背に声をかける。

「そっか。じゃ、出発は明日のこの時間にしよう」

 その言葉を聞いた途端、マミナが半目で睨み付けてくる。

「カール……。もし一人で出発したら、あなたが帰る場所はないものと思いなさいね」

「げ」

「げって何よ。大体、ヘタレのあんたが一人旅だなんて危なっかしくてしょうがないのよ」

 頬を膨らませつつも、途中から姉にでもなったかのような小言口調へと変化した。共に親を亡くした者同士、互いの誕生日を正確に知らないが、マミナが一五歳でカールの二つ下だというのは多分間違いない。

 もっとも、彼は彼女との口論において精神的優位に立った経験などついぞない。そのため、今さら年齢のことを指摘しようとはしない。

「しかしなあ、マミナ。ギムレイ連れでは飛ぶこともできないし、人間の町にも近付きにくい。俺はやっぱり、一人で行きたいんだけど」

「あら、噂をしていれば。やっほー、ギムレイ」

「人の話を聞けよ……」

 カールは脱力し、肩を落とした。

「やあマミナ、やあカール、おはようー」

 やや間延びした、穏やかな声がかけられた。小山のような巨体が陽射しを遮り、こちらへゆっくりと近付いてくる。

 カールの身長は一八〇セードを超える。しかし、新たにこの場に現れた巨漢はさらにその一・五倍近い上背を持つ。特筆すべき特徴はそれだけではない。耳まで裂けた口から覗く鋭利な牙、カールの胴体ほどもある太い腕。着衣は腰に巻いた粗末な布のみで、全身を覆う剛毛ごしにはちきれんばかりの筋肉を覗かせている。彼こそ、ギムレイという名で呼ばれるウォーガなのである。

「何かいいことあったのかー」

 ギムレイはマミナの浮き立つ気分に感応したらしく、弾んだ声でそう訊いた。

 微弱なシンパシー能力を持つ彼は、時折、マミナの気分と特に強い繋がりを示すのだ。

「俺が一人旅をしようとしてたら、ついてくるってさ。出発は明日。お前も来るか」

 カールの気分にまで感応したギムレイが困った顔をした。それを見た少年は、あわててギムレイに詫びる。

「あー、ごめんごめん。歩いて行けばいいさ。明日、一緒にでかけよう」

「そうよ。本当にカールったらヘタレな上に心が狭いんだから。急ぐ旅でもなさそうだし、人間の宿に泊まらなきゃ路銀も節約できるでしょ。そしたら何処かの町で買い食いだってできるし、観光ついでに見聞を広げられるじゃない。あたしって頭いいー」

 今この瞬間をもって、カールが予定していた旅の主導権は、どうやらマミナが掌握してしまったようだった。

 ギムレイにわからないように溜息を吐くものの、この三人で一緒にいられることは嬉しいことでもある。一人旅じゃなくても別にいいかと思い始めたカールは、かれらとの出会いに思いを馳せた。


* * * * *


 あれは十年前。

 七歳の俺は、曲芸飛行の練習をしていて失敗し、右足に木の枝が突き刺さった状態で落下した。

 視界にウォーガの姿を認めたが、落下の時に腰をしたたかにうちつけて、下半身はほとんど動かなかった。痛みに涙を流し、恐怖で震えながら、ほとんど声も出せずに自分の短かった生涯の終わりを覚悟した時、間近で女の子が大声を出した。

「ギムレイー。この子、足に木がささってるよー」

 泣きながら首をめぐらすと、まだ幼いフェアリーの少女が俺のまわりを飛び回っていた。痛みと恐怖がほとんどを占める頭の片隅で、俺は彼女の見事な飛行技術に嫉妬していた。

 フェアリーは誕生の段階で繭を破って羽化する。赤ん坊の形態をとらず、俺たちの三歳くらいの外見で生まれ、羽化した直後に飛び始める。

 一方、俺たちグライド族は、どんなに早い奴でも六歳くらいからようやくまともな飛行訓練を始める。今から考えれば、当時すでに五年は飛んでいた彼女と飛び始めて一年未満の俺。どちらがうまく飛べるかは自明だ。

「はやくはやくー」

 その声のおかげで、嫉妬で曇っていた頭が正常に働き出した。この子、もしかしたらウォーガの凶暴さを知らないのかもしれない。俺はかすれる声を絞り出した。

「そんな低いところを飛んでちゃだめだよ。きみまでウォーガに食べられちゃうっ」

 恐怖に震える指先でウォーガを指し示した俺に対し、彼女は意外そうに答えた。

「は。何言ってるの。ギムレイはうさぎとフォブロルと……あとたまに野ねずみしか食べないのよ」

 その直後、俺は信じられない事態に直面した。

「怪我してるのはその子かー。おいら薬草持ってるぞー」

「————!」

 痛みを忘れた。それほどの衝撃だった。同時に、恐怖心はどこかにかき消えた。獰猛な外見からは想像できない間延びした声が、間違いなくウォーガの口から発せられたのだ。

 棍棒を持たず、知的な光を瞳に宿し、穏やかに歩み寄ってくるウォーガ。それで初めて、彼女が呼びかけたギムレイという名が、このウォーガのものだということに気付いた。

「おいら、怪我の治療には慣れてるぞー」

 その途端、忘れかけていた痛みが再び襲いかかった。

 魔法の中には怪我を治すヒーリング系のものが存在することを、当時すでに知っていた。自分では使えないが、治療に慣れているからには魔法で治してもらえるのでは。

 期待は依存心に変わり、その甘えが痛みを増幅させ、俺は泣き叫んだ。

 しかしウォーガは魔法など使えなかった。泣き叫ぶ俺を押さえつけて足から枝を抜き去る。その作業は迅速かつ力ずくだった。

 その後も迅速で、手際よく薬草を塗った後アルアの葉で作った包帯まで巻いてくれたのだ。

「お前、風の民だから、アルアの葉がよく効く。一時間くらいで歩けるようになるぞー」

 物知りなウォーガだ、と思った。この時点で足の痛みは半分ほどに減っており、俺は涙でぐちゃぐちゃな顔のままで礼を言った。

 後で知ったことだが、ギムレイはその精神共感シンパシー能力のせいで俺の痛みを感じ取り、自身の足にもかなりの痛みを感じつつ治療してくれたのだ。

 相手の痛みに感応しながら治療することの大変さはいかばかりか。当時すでに彼に感謝の念を抱いていた俺ではあるが、このことを知ってからは頭が上がらなくなった。

「あたしマミナ。この子ギムレイ。あんたは?」

「この子……?」

 身長が人間の成人男性を超えるウォーガの年齢など判りづらい。後で確かめたところ、俺とギムレイは同じ年齢だった。

「ま、いいか。俺はカール。手当てしてくれてありがとう。よろしくっ」

 マミナとギムレイ。それが、その風変わりなコンビと俺との出会いだった。


* * * * *


「それじゃ。俺と違って、マミナとギムレイには準備もあるだろうから……、また明日な」

 そう言い残すと、カールは再び風に乗るためにグライド族の縄張りにある谷を目指した。明日からしばらく歩きで移動だ。

「今日だけは、思う存分飛んでおきたいからな」

 見下ろす景色は、谷底の川、その両側に色とりどりに咲き乱れる花々、そして切り立つ崖。目の高さには生い茂る森の木々が纏う黄緑や深緑の葉。見上げる景色はわずかな白い雲の上に薄茶色に霞む山頂があり、その上は吸い込まれるように蒼い空。

 彼は一つ深呼吸をし、胸を反らして両腕を下後方に伸ばすと上空を仰ぎ見た。

 全身で風を感じてでもいるのか、その姿勢で目を閉じる。

「よし!」

 声とともに目を開く。紺碧の瞳が陽光に負けぬ輝きを宿した。

 真夏までにはまだ少し間があるうららかな陽射しの中、彼は南風に身を任せ、仰向けの姿勢で空を舞った。

 浮揚感。全身を包む風。

 今日の風は、方向が一か所に定まらない。

「俺の気分と同じだ」

 出発を明日にしたのは正解だったかもしれない、と呟いた。

 束の間、雲が太陽を覆う。

 しばし開放感に身を委ね、回転して背を上に向けると通常飛行に切り替える。

「忘れてた。バレリーに一言もなく立ち去るのは失礼だよな。いつもの待ち合わせ場所に書き置きを残しておくか」

 風に逆らい地上へと降りていく。

 サーマツ王国。この小さな南の王国は、他国との国交もあまりなく、民家もまばらな弱小国家である。国民の多くは農耕と放牧でのどかに暮らしている。

 小さな国だ。あっという間に国境の周囲を一周してしまった。再び上昇。

 その時だった。

 カールは眉間に皺を寄せ、訝る顔を上空に向けた。

 風が誘う。上へ上へ。いつもとは明らかに違う感覚。彼は、いつもは昇らない高度を遥かに超えて上昇を続ける。

「誰だ」

 話しかけられた。心臓が跳ね上がる。空中に静止して上下左右を見回した。

「気のせい、じゃないよな」

 耳に聞こえてきたのではない。その声は頭の中に直接響いてきた。

「…………っ!」

 圧倒的な気配。上だ。

 彼の視界に一瞬飛び込んできたものは——。

 長い体、銀色に輝く美しい鱗。白い翼もちらっと見えた。

「ドラゴン」

 バレリーの写本を思い出す。吟遊詩人による定番の演目の一つ、娯楽の類いだ。

 伝説に曰く、聖竜の声を聞きし者、大いなる力を手に入れる。聖なるいかずちで大地を割り、聖なる大水で陸地を洗い流し、聖なる氷で海を固め、聖なる炎で山を溶かし、聖なる風で森を荒野に還す。

「これは夢か。もし夢でないのなら、俺なんかに一体何の用なんだっ」

 唐突に色を失って行く世界の中、狼狽えて周囲を身回そうとするカールだったが、ままならない。どうやら世界が色褪せていくのではなく、薄れていくのは彼の意識の方で——。

 やがて、彼の世界は暗転した。

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