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ハイスクール・フェスティバル(5)

 澄空は、帰宅するとすぐに部屋にこもり、ヘッドホンをつけるとスケッチブックと鉛筆を取り出した。


 まずは小さくて形の良い輪郭から描き始める。顎から耳にかけてのラインは一際丁寧に。綺麗な鼻筋と小さく愛らしい口を描いたら、次は目だ。丸くて大きい、少し気の強そうな吊り目。だが、眉が少し垂れ気味なせいかきつい印象はあまりない。それどころか、紙の上でアニメっぽくデフォルメされて微笑んでいる彼女はかなりあざとい表情になってしまった。違う。そういう感じじゃないんだ、あの人は。


「……お兄ちゃん」


 胸の辺りまで伸びた少し癖のある髪を描きながら、澄空は気付けば歌っていた。メロディーが印象的でなんとなく覚えてしまったアメリカのヒップホップ曲だ。歌詞はうろ覚えなので分からないところは鼻歌で歌い続ける。君は向日葵《ひまわり》のよう、サビの歌詞は確かそんな感じだったはずだ。でも、彼女は向日葵というよりはむしろ太陽そのものな気がする。


「お兄ちゃん」


 鉛筆をしなやかに走らせながら、あの人のことを考える。僕とは違う世界に住んでいる人。妖精か、天使か、或いは何か僕の知らない不思議な存在である彼女は、人間と話がしてみたいと思ってこのつまらない現実世界に気まぐれに降り立ったのかもしれない。じゃなきゃ、僕なんかに気をかけてくれることなんてない。地味で暗いオタクが楽しい人物なわけがないってことを、きっと知らないんだ。


 ああ、あの時の藤原さん、本当に可愛かったな……いやいつでも可愛いんだけど……僕だけに向けてくれた、あの時見せてくれた悪戯っぽい笑顔が……。


「お兄ちゃん!」

「ウワッ!」


 ヘッドホンの向こうから聞こえてきたキンキン声に、澄空は飛び上がった。


 慌てて音楽を止めて横を見ると、いつの間にか部屋に入ってきたらしい妹の舞海《まりん》と目が合った。舞海は腰に手を当て、頬を膨らませてこちらを睨みつけている。


「ずっと呼んでたのに!」

「ごめん、ごめんって」


 澄空はスケッチブックを閉じ、ヘッドホンを外しながら必死に謝った。舞海はそれで満足したのか、ニコニコしながら澄空の腕を小さな力で引っ張った。


「ねー、一緒にシズミラ観よ!」


 シズミラとは、「メイクアップシーズン・ミラクルナイト!」というアニメの略称だ。小さな子供向けの、女の子たちが変身して戦ういわば魔法少女もの。日曜日の朝に放送されているこのアニメは舞海の最近のお気に入りだが、実は澄空がこよなく愛している作品でもある。


「分かった、ちょっと待ってて」

「じゃあ準備してるね!」


 舞海は嬉しそうに言うと、さっさと澄空の部屋を出ていった。


 嵐のように去っていった妹に、大きく溜息をつく。スケッチブックを片付けると、澄空はリビングへと向かった。テレビの前では、既に舞海が録画していたシズミラを観始めている。


 テレビの画面では、華やかな衣装に身を包んだ主人公が敵と戦っている。強くて可愛い完全無敵の主人公は、あの人によく似ていた。




 学校にいると、彼女を目で追ってしまう。


 彼女が一人でいるところは、多分見たことがない。いつもギャルっぽい人たちといるか、変わった四人組でいるかどちらかだ。変わった四人組というのは、チャラい雰囲気の光宗勝元、クールで何を考えているのかあまりよく分からない天野沙也香、ザ・文学少女といった感じの委員長の一橋椿、それから柚子の四人のことである。光宗くんはすぐ女子と仲良くなれそうだし、天野さんとは中学から一緒らしいからまだ分かるけど、一橋さんと仲が良いのは不思議だよなぁ。藤原さんからグイグイ行ったとは言ってたけど、そもそもなんでそんなことになったんだろう。


 一学期の頃はクラスの誰もが柚子と勝元は付き合っているのだと思っていたが、どうも違うらしいという噂を最近聞いた。更に二人はどうやら現在喧嘩中であるという認識がクラスで広まっている。少し前までは自分には関係のない話だと思って聞き流していたが、今となっては何よりもありがたい情報である。


 勝元も悪い人ではないということは分かるが、苦手なタイプであることには変わりないので、二人が喧嘩をしていて互いに少し距離を置いているという状況は澄空にとってかなり好都合だ。


 放課後、荷物を雑にまとめて部室へ向かおうと教室を出ると、廊下の少し先に柚子を見つけた。珍しく一人でいると思ったが、よく見れば、先程まで他のクラスの生徒と話していたのか隣の教室に向かって手を振っている。本当に人気者だなぁ。帰宅部だったと思うけど、どんな知り合いだろう? 中学が一緒だった人とかかな? 一年二組の教室に戻ってくる柚子をぼんやりと見つめながら、澄空がそんなことを考えたその瞬間。


 突如として足が変な感じになったかと思えば、背中に激痛が走った。何が起こったのかよく分からない。視線の先には天井が見える。


「うわ! 大丈夫?」


 あの人の驚いた声が聞こえてきて、澄空はようやく自分が彼女に見惚れていたせいで足を滑らせたのだということに気がついた。大慌てで体を起こす。


「いたたた……うーん、大丈夫……」

「ほんと?」


 柚子は心配そうに顔を見つめてきた。近い。可愛い。いい匂いがする。こんなところを見られて恥ずかしい!


「う、うん、ほんと!」


 澄空はそう言いながらも、目を合わせていられずに視線を逸らした。普段から人の目を見て話すこと自体苦手なのに、好きな人の目を見つめるなんて無理だ!


 澄空は周囲に散らばってしまっていた自分の荷物を急いで掻き集めた。柚子も手伝ってくれている。彼女に迷惑をかけたくない。早く退散しないと。あーもう、なんで鞄ちゃんと閉めておかなかったんだろう!


 背中がズキズキと痛む。怪我はなさそうだが、まだ痛い。最悪だ。澄空は憂鬱な気持ちで荷物を集めていたが、ふと顔を上げた。柚子が床の上でページが開いているノートを見てじっと固まっている。どうしたのかと尋ねようとして少し近づいたその時、澄空は全身から血の気が失せていくのを感じた。あれは現代文のノートで、授業中に描いてた落書きが……。


「ああああああのそれっ!」

「……ねえもしかしてこれ私?」

「うわあああああ!」


 澄空は絶叫していた。見られた。見られた。見られた! 


「ご、ご、ごめんなさい勝手に描いて! ごめんなさい!」

「ちょ、落ち着いて? てか私こそ見ちゃってごめん! ちょっと驚いたけど別に大丈夫だよー!」


 柚子が困惑したように言うと、ノートを手に取って立ち上がり、改めてじっくりと絵を眺め始めた。


「知ってたけどすごい上手いねー」

「……」


 澄空の顔は今度は茹で蛸のように赤くなっていた。恥ずかしさで死んでしまいそうだ。唇を噛みしめて、早くこの時間が終わるようにと必死に祈った。こんなの、もう好きだってバレたようなものだ……。


 しかし、柚子は絵に関係ないことは何も言ってこなかった。ちょこんと首を傾げながら、少し遠慮がちに口を開く。


「……ね、このページ貰ってもいい?」

「エッ!」


 思いがけない言葉に、澄空は変な声を上げてしまった。それから、両手と顔をぶんぶんと振って答える。


「いや、それ汚いから……あげられるようなものじゃないよ! 人にあげるならもっと丁寧に描きます!」

「えー、めっちゃいい感じだけどなー」


 柚子は残念そうに言いながらノートを見ていたが、やがて澄空に向き直り、笑顔で口を開いた。


「……でもそういう言い方するってことは、頼んだらちゃんと描いてくれるってこと?」

「え、えっ?」

「あは、冗談! 気にしないでー」

「あ、いや! 描きます! 描いていいなら!」


 天使からそんなことを言われたら、断れるわけがない。


「え、ほんと? マジ? やった。言ってみるもんだね。楽しみにしてるね!」


 柚子は嬉しそうにそう言いながらノートを返してきた。指の先が微かに触れ合う。触られた部分が熱い。溶けそうだ。


「怪我とかない? ほんと気をつけてね。じゃーねー」


 転んでしまっていたことなんてもうすっかり忘れていた。小さく手を振ってから去っていった柚子の後ろ姿をぼうっと視線だけで追いかけながら、呆然と立ち尽くす。


 なんだかよく分からないことになってきた。なんか流れで絵をあげることになっちゃったよ! とにかく完璧に描かないと……。


 恐れ多い思いでいっぱいだったが、不思議と嫌な気分ではなかった。女の子の絵を描くのは楽しいし、それが自分の一番の趣味であり特技でもある。欲しいと言ってくれたことは事実なのだから、本気で描いて、彼女に喜んでもらいたい。


 澄空は深呼吸をすると、部室を目指して歩き直した。




 沙也香と椿が待っている教室に早足で戻っていると、教室の出入口に一人の女子生徒が見えた。加賀智江里だ。柚子は思わず顔を曇らせた。彼女のことはあまり好きではない。


 智江里は勝元のことは関係なく元々自分のことが嫌いなのではないか。柚子はなんとなくそう考えていた。それほどまでに自分に対する強い憎しみを感じるのだ。言葉では上手く説明できないが、とにかく酷く嫌われているということが伝わってくる。人から嫌われることに慣れていない柚子は、直接何かしたわけでもないのに初めから自分に対する態度が悪い智江里のことがとても苦手だった。


 智江里のことはスルーして無言で教室に入ろうとする。だが、なぜか彼女に呼び止められてしまった。


「藤原さん」

「……」


 柚子は黙ったまま智江里の方を向いた。智江里はうっすらと笑みを浮かべている。なんだか不気味だ。


「私、猷秋祭を一緒に回らないか光宗くんを誘おうと思ってるんです。それでキャンプファイヤーも一緒に見れないかなって」


 だから何?


「光宗くんから聞きました。喧嘩中なんでしょ?」


 勝元、なんでこの人に教えたの? 二組の人なら何かおかしいって分かるだろうし仕方ないけど、加賀さん別のクラスじゃん。


「喧嘩してくれてありがとう。もっと頑張らなくちゃと思っていたけど、この状況なら大変じゃなさそうだから」


 はあ?


 言葉もなかった。嫌味を言い終えた智江里は何やら満足げだ。同じくらい腹の立つ言葉を返してやりたいと柚子は思ったが、いい言葉が思い浮かばなかった。


 何なのこの人? そもそも喧嘩の理由はあなたのことを好きじゃないのに中途半端な態度を取る勝元を許せなかったからで、あなたとは初めから勝負にすらなってないんと思うんですけど?


 柚子は腸が煮え繰り返るような思いだったが、どうにか堪えてできるだけ爽やかな笑顔を浮かべた。


「……どういたしまして?」


 柚子はそれだけ返すと、智江里の顔を見ずに教室に入った。沙也香と椿がギョッとした顔でこちらを見ている。柚子は背後から智江里の気配がなくなるまで待つと、とうとう我慢できずに大きな声を上げた。


「あーもうっ! あの人嫌い!」


 柚子の心の叫びを聞いた沙也香と椿が、神妙な表情で顔を見合わせる。


「……彼女、なかなかの性格してるわよね」


 椿が呟く。


「柚子に嫌われるとかあの人相当ヤバいよ」


 沙也香も呆れたようにそう言った。




 猷秋祭まであと少し。準備も大詰めだ。今は執事役、メイド役の生徒たちが、完成した衣装を試着しているところだ。サイズやデザインなどに問題はないと判断が下された今、一同は楽しげに話しながら衣装を披露し合っている。一通り確認を終えた澄空は、周りの生徒たちの様子を観察していた。


 執事の中で一番目立っているのは、背の高い長瀬孝太郎だ。ラグビー部に所属している彼はかなりがっしりしているが、無理なく執事のベストや燕尾服を着こなしている。長瀬くんもモテるんだろうなぁ。澄空はぼんやりとそう思った。


 執事役で他に目立っている人はといえば、天野沙也香だ。彼女は柚子の推薦で執事役になった。あまり乗り気ではなかったようだが、こうして見ると執事服はかなりよく似合っていた。親友として、沙也香にはこういった格好が似合うという確信が柚子にはあったのだろうか。素晴らしい勘の良さである。


 澄空本人はと言えば、身長も低く(恐らく沙也香の方が自分より大きいのではないだろうかと思う)、モッサリしている自分にはまったく似合っていない気がしていた。だが、なぜか複数の女子生徒に可愛いと言われたので、とりあえず目に毒だということはなさそうだ。「やっぱり執事に推薦して正解だった」という声が聞こえてきたような気もしたが、誰が言ったのかは分からない。


 メイド役の生徒たちはみんな可愛らしかったが、中でも一際輝いているのはやはり柚子だった。今は森璃子、半田美織と並んで椿や巴に写真を撮ってもらっている。とにかく可愛い。今まで制服姿か体操服姿しか見たことがなかったが、ロングスカートに身を包んだ彼女もまたとても魅力的だった。あんなメイドがいたら、絶対好きになってしまう。世話される余裕なんてない。


 教室には執事やメイドではない生徒たちも多数残っていて、みんなの衣装を見て盛り上がっていた。柚子にメイド服を着せるきっかけを作った張本人である勝元も教室にいる。だが、柚子の元には近づかず、男子生徒たちと話していた。やはり、喧嘩中だというのは本当のようだ。たまに柚子の方に視線を向けつつ、気にしていない素振りをしている。澄空は申し訳なく思いつつも、心の中でガッツポーズを決めていた。そんな中、孝太郎や沙也香を含めた執事の何人かが柚子の元へ向かった。


「柚子めっちゃ可愛いよ!」

「ありがとー! 沙也香もマジで超似合ってる! かっこいいよ!」


 沙也香が破顔して言う。柚子もハイテンションで答えた。沙也香は基本的にドライな印象だが、柚子と話している時は幸せそうな表情を浮かべていることが多い。


 二人の男子生徒が孝太郎の背中を押した。一歩前に出た孝太郎は、頬を赤らめながら柚子の姿を熱っぽい視線で見つめてから、ボソッと口を開いた。


「……めっちゃ可愛い」

「ふふ、ありがと……」


 柚子は少し困ったように笑いつつも答えた。それから、「コタローも似合ってるよ」と付け加える。孝太郎は一瞬かなり苦しそうな顔をしてから、いきなり大声を上げた。


「んあー! くそーっ! それだけでも嬉しい!」


 孝太郎はそう言って、両手で顔を覆うとその場に勢いよくしゃがみこんだ。


「よかったなコタロー!」

「でも抜け駆けしたのはしばらく許さねえからな!」


 友人たちがそう言って笑いながら孝太郎の肩を叩く。璃子や美織も爆笑している。柚子は少し居心地が悪そうだったが、それでも笑っていた。


 ……長瀬くんが藤原さんに告白したらしいっていうのも本当だったんだな。澄空は以前誰かから聞いた話を思い出しながらその光景を眺めていた。いかにも青春といった感じの、爽やかな光景だ。自分にはとても味わえない世界。


 それから、孝太郎はしばらく柚子や周りの生徒たちと話し、スマートフォンで写真を撮り合ってから仲の良い二人の男子生徒と共にその場を離れていった。璃子や美織も他の生徒の元へと向かう。柚子は沙也香と椿と話しながら、たまにどこかをチラチラと見ていた。何を見ているのだろうと視線の先を確認して、澄空は後悔した。


 やがて、教室にいる生徒の数はだんだん少なくなってきた。執事やメイドたちもいつの間にか制服に着替えて、帰りの準備を始めている。澄空は慌てて席に戻った。柚子が帰る前に、昨日完成した絵を渡さなくては。


「あ、あの、藤原さん」


 勇気を出して声をかける。自分から彼女に話しかけたのは初めてだ。


「ん? あ、ちょっと待ってて」


 着替えを済ませていた柚子は沙也香と椿にそう言うと、澄空の席の方にやってきた。もしかして、気を遣ってくれたのだろうか? それとも、ただ執事長からメイド長に何か連絡があると思っただけだろうか。


「どしたの?」


 柚子は屈託のない笑みを浮かべてこちらを見ている。とても可愛い。どんな姿でも彼女は可愛い。冬服でも夏服でも可愛い。どんな服を着てもきっとこの世界の誰よりも可愛い。普通の人間ではないのだから当然だ。彼女は妖精なのだから……。


「澄空くーん」

「あっ、あ、ごめん! あ、えっと」


 妄想の世界に入りかけていた澄空はハッと我に返った。文化祭の準備で話す機会が増えたことで、柚子は澄空くんと呼んでくるようになった。正直に言うと、かなり嬉しい。


「その、絵ができたので、渡したくて……」


 柚子は一瞬ポカンとしてから、「あっ!」と声を上げた。


「やったー! 楽しみ!」

「よ、喜んでもらえるといいけど……」


 澄空は照れくさくなりながらも、鞄から無地の透明なファイルを取り出した。中にはパソコンで描いたイラストを印刷した紙が入っている。


「わ! デジタルだ!」

「うん……色塗りとかするならこっちの方が得意で……」

「待ってめっちゃ綺麗。すごい!」


 柚子はファイルの上から絵を凝視している。澄空はファイルを柚子に手渡した。柚子はファイルから紙を取り出して、アニメっぽくデフォルメされた自分が描かれたイラストを食い入るように見つめた。


 背景まで凝って描いた、今までで一番の自信作だった。幻想的な光に包まれた美しい少女。イメージは、まさに「この世には存在しない美しい生き物」だ。


「すごい細かい……素敵な絵だね。こんなの貰っちゃっていいの? 本当にありがとう」

「いいえ、どういたしまして……。描くの、楽しかったから……」

「そう? よかった! 嬉しい、マジでありがと!」


 そう言って嬉しそうに笑う柚子を見て、澄空は彼女の頼みを聞いてよかったと心から思った。


「澄空くん、人の手作りって平気?」

「……えっ?」


 急に投げられた質問に、澄空は面食らった。柚子は軽快に続ける。


「同じように手間のかかってるものでお礼するのがいいかなーと思って。クッキーとかどうかな? 食べれる?」

「え……えっと……」


 人の手作りに抵抗はない。というより、食べたことがないので憧れの方が強い。何よりも、彼女の手作りクッキーを食べる機会なんてまたとない。ぜひお願いしたいところだ。


 だが、澄空の脳裏にはある考えが浮かんでいた。


 もし受け入れてもらえたら、こんなに嬉しいことはない。でも、そんなことありえるのだろうか。引かれてしまうかもしれない。それに、こんなタイミングで誘うのはズルい気がする。ああ、やっぱりやめておいた方がいいかな……。澄空は心の中で強く葛藤していた。だが、心のどこかで何かが叫び続けている。言え! 言わないと、絶対に後悔するぞ!


「……お礼って、その、リクエストしてもいいのかな……」


 澄空は恐る恐るそう切り出した。柚子は「ん?」と首を捻ってから頷いた。


「全然いいよ!」


 きっと彼女は作るお菓子のリクエストだと思っているだろう。でも、そういうことじゃないんだ……。


「あの……」


 喉がカラカラだ。苦しい。やっぱりやめたい。でも、少しでもチャンスがあるのなら、それに賭けてみたい。澄空は大きく息を吸いこんでから、意を決して口を開いた。


「ぼ、僕と……猷秋祭、ま、回ってくれませんか……!」

「……えっ?」


 柚子は鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしている。それを見て、澄空は慌てて声を上げた。


「あっ、め、迷惑だよね! や、や、やっぱり何でもない!」

「え、いやいや迷惑じゃないよ……!」


 柚子は困ったような顔でそう言いながら、一瞬、澄空の頭越しに何かを見た。その視線の先に誰がいるのかは知っている。だが、澄空は振り返りたくなかった。僕みたいな地味な男だって、たまには夢を見たいんだ……。


 柚子は迷っているようだった。小さく息を漏らし、それから澄空の顔を真っ直ぐに見つめる。


「……うん、いいよ。当日よろしくね!」

「えっ……え、ほんと?」


 信じられない思いで目を見開く。柚子はいつもと変わらない笑顔を浮かべていた。チラッと教室の壁の時計を確認してから、柚子はお茶目に笑った。


「こんな嘘言わないよー! じゃ、私そろそろ行かないとだから……また明日ね。絵、ほんとにありがとう!」

「あ、うん! また……!」


 柚子はそう言うと、沙也香と椿の元へとパタパタと戻っていった。


 奇跡だ。こんなことあるんだ。勇気を出して本当に、本当によかった……!


 澄空は鞄に顔を埋めて必死ににやけを隠しながら、猷秋祭当日に想いを馳せた。

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