百川帰海(2)
「下がって!」
あきらが絶叫した。陰陽師たちは一瞬固まってから、慌ててその場から逃げ出した。鮫の姿をした妖怪は、陸の上であるにも関わらず、その巨体を器用にくねらせ、地面を撫でるようにして移動している。柚子たち準三級陰陽師はどうすればいいか分からず互いに顔を見合わせた。
海の妖怪は、人間たちが広大で途方もない海へ抱く恐怖や畏怖の感情だけではなく、海で死んだ人たちの魂も糧にしていると言われる。陸の妖怪とはまったく異なる性質を持つ彼らは話が通じないことも多く、海そのものと同じように計り知れない恐ろしい存在なのだ。
「磯撫でよ! 下がって! 下がって! 後衛の陰陽師たち、あなたたちが攻撃を仕掛けて!」
あきらが妖怪の名を叫びながら指示を出す。磯撫でというらしいその妖怪は、その場から後退する陰陽師たちを追うように近づいてくる。
「乙参顕現急急如律令《おつさんけんげんきゅうきゅうにょりつりょう》——」
一人の陰陽師が印を組みながら術を唱え始めた。
「——如意蔓!」
すると、その陰陽師の手元から長い蔓草が飛び出してきた。蔓草は自在に動き、磯撫でに巻きついて動きを止めようとする。勝元たちの乗っていた船を浜まで連れてきた技と同じものだ。
磯撫ではもがいて抵抗している。蔓草は更に伸びて磯撫での体に何重にも巻きつこうとしていたが、磯撫では大きく口を開けると蔓草に噛みつき、思いきり引っ張った。
「ぎゃああああ!」
術をかけていた陰陽師が引っ張られ、そのまま勢いよく海面へと叩きつけられる。沈んだ陰陽師が泳いで顔を出したのも束の間、磯撫では凄まじいスピードで海の中へと戻り、その陰陽師の体に噛みついた。水面に赤い血が滲み浮かぶ。
柚子たちは絶句して立ち尽くしていた。初めて任務中に陰陽師が死ぬところを見てしまった。
だが、状況は待ってくれない。磯撫では再び浜辺へとやってきた。大きく口を開けて迫り来る磯撫でに向かって、群治郎が銃を何発か撃ちこむ。礒撫ではひっくり返り、その場で苦しそうに呻いた。
「戊壱顕現急急如律令——螺旋土砂!」
誰かが術を唱えた。砂の渦が現れ、磯撫での体を包みこんで攻撃する。
「甲壱顕現急急如律令《こういちけんげんきゅうきゅうにょりつりょう》——茨槍!」
次に術を唱えた陰陽師の手元から、槍のように鋭いいばらが飛び出し、磯撫での体を貫いた。磯撫でが悲鳴を上げる。群治郎は更に弾を撃ち続けている。
「甲参顕現急急如律令——」
また別の陰陽師が印を結ぶ。
「——陽炎稲妻水の月・雷の型!」
すると、ようやく螺旋土砂から解放された礒撫での体に、小さな稲妻が素早く何度も落ちていく。
「か、雷……?」
柚子が思わず口走る。
「雷は木行に含まれてるんだよ」
勝元が答えた。
「えっ、そうなんだ」
「木行にはあと風の術もあるよ」
「えっ? 木行めっちゃオールマイティじゃん」
柚子は目を丸くした。勝元も頷く。
「確かにいろいろできるね。他にも、一番変わった技が多いのは金行だけど、その分難しいって言われてたりとか、五行はそれぞれ特徴あるよ」
「そうなんだ」
柚子は勝元の説明を聞きながら目を瞬いた。
一気に畳みかけられ、勢いをなくした磯撫での体に、再び如意蔓が巻きついていく。今度は複数人が術を唱えて一斉に磯撫でを縛りつけている。何本もの如意蔓がぐるぐると磯撫でに巻きつき、その大きな口を塞いだ。礒撫は口を開けられなくなり、更に苦しそうにもがいた。おかげで噛みつかれることはもうなさそうだ。勝ち目が見えてきた。
そこで柚子はハッとした。絡新婦の姿がいつの間にかなくなっている。混乱に乗じて逃げていったらしい。力を合わせると言っていたではないか。本当に彼女が襲ってきたら堪ったものではないものの、その卑怯さに柚子は腸が煮え繰り返るのを感じた。
陰陽師たちの猛攻に弱り、複数人に縛りつけられた磯撫では、海の中に逃げようとしているのか、ジリジリと精一杯自分の体を引きずって波打ち際の方へと近づいている。そんな磯撫でを、如意蔓を出している陰陽師たちが必死の思いで力をこめて海に戻さないようにしている。磯撫での動きは鈍い。
「ここで仕留める!」
あきらが声を張り上げた。そして磯撫での元に走り、その体に拳を打ちこむ。刀を得物にしている陰陽師たちが急いで駆け寄り、磯撫での体にその刃を叩きつけた。弾みで如意蔓が切れ、磯撫での口が解放されてしまう。磯撫では体をぐるりと動かし、近くにいる陰陽師の体に噛みついた。
「あああアアッ」
噛みつかれた陰陽師が痛みに叫ぶ。だが磯撫でが弱っていたおかげか、その場で体が噛み切られることはなかった。あきらが歯を食いしばり、その陰陽師を担いで素早くその場を立ち去る。
乾いた音が砂浜に響く。弾の補填を終えた群治郎が再び銃を何発も撃ちこむと、とうとう磯撫では動かなくなった。
唐突かつ壮絶な戦いだった。一人の死亡者と一人の負傷者が出てしまった。何もできずに見ていることしかできなかった柚子たちは、顔面蒼白になりながらその場に佇む他なかった。
まだ簡単な任務にしか就いたことがない準三級陰陽師たちは、その過酷な現実を突きつけられた。自分たちは、こんな危険な世界に身を投じようとしているのだ。
「……妖怪たち、って言ってたよな」
涼介がポツリと呟く。一同は彼に向き直った。
「妖怪は普通、同種や眷属としか仲間意識がないって習ったはずだ。でもあの絡新婦の言ってたことを考えると、今は妖怪たちは組織になって白面金毛を蘇らせようとしてるように聞こえる……」
「そういえば、あいつの言ってた秘密って何なんだ……?」
涼介に続いて、翼もそう言って首を傾げる。
柚子は、確実に自分の元に迫りつつある絶望の足音を感じながら体を強張らせることしかできなかった。
着替えを済ませ、陰陽団の所持するバスに乗りこみ帰路を辿る。時刻はもう午後九時を回っていた。
あきらと群治郎が、バスの前方で何やら話しこんでいる。
柚子は黙って窓の外を見つめていた。隣には勝元がいるが、彼も静かだ。前には沙也香と翼、後ろには椿と涼介、更にその後ろには香織とありさが座っている。八人とも何も言わない。
妖怪にもいろいろな奴がいる。愛を持つ妖怪もいると知った。陰陽師になると決めた時は妖怪を全員殺してやると息を巻いたが、最近は人間に被害を与える妖怪たちを討伐していきたいと思うようになった。仲間たちと協力して、陰陽師としての務めを果たしていきたいと考えるようになった。
だが、本当に自分にそれができるのか。
柚子は深く溜息をつくと大きく項垂れた。だがどうしても落ち着かず、柚子は再び顔を上げて窓側にもたれかかった。
思い出しただけで視界が滲み始める。柚子は必死に涙を堪えた。
私のせいでたくさんの人が死んでいく。一人の先輩陰陽師。三本槍岳の登山客。十九年前に前世の私が殺した陰陽師たち。そして、お母さん。
それに、団長は何かを隠してるってこともバレた。きっと今後不信感を持つ陰陽師が増えていく。これから私はどうすればいいの……。
「柚ちゃん、大丈夫?」
見兼ねた勝元が小声で話しかけてくる。
「大丈夫」
柚子はそう言うと、微笑んで目を逸らした。




