第8話 初めての戦場
那古野城の朝は、いつもより慌ただしかった。
まだ夜明けの名残が残る空の下、城門の外には馬が並び、武士たちが鎧を整えている。
革と鉄のこすれる音、馬の鼻息、槍の柄が石畳に当たる乾いた音が重なり、城の空気はいつもとは違う緊張を帯びていた。
城の櫓には早くから兵が上がり、遠くの道を見張っている。
戦の朝である。
広間の前の廊下では、小姓たちが忙しなく走り回っていた。
水桶を運ぶ者、弓を抱える者、鎧櫃を押している者。誰もが落ち着かない様子で動き回っている。
その騒がしい廊下を、ひとりだけ妙に落ち着いた足取りで歩く少年がいた。
吉法師である。
まだ八つの少年だが、今日はいつもの片袖姿ではない。小さな胴丸を身に着け、腰には短い木刀が差してある。とはいえ鎧はまだ体に合わず、少しだけ大きく見えた。
その姿を見て、小姓のひとりが小声で言う。
「本当に連れていくのか……」
別の小姓が答える。
「殿のお言葉だからな」
そのとき、奥の広間の障子が開いた。
織田信秀が姿を現した。
すでに鎧を着ている。
黒漆の胴に鉄の袖、肩には大きな家紋。
体格の良い信秀が鎧を着ると、まるで岩のような威圧感があった。
腰には太刀が下がり、歩くだけで鎧の金具が小さく鳴る。
信秀は廊下に立つ吉法師を見て、少し笑った。
「準備はできたか」
吉法師は頷いた。
「できておる」
平手政秀が横で腕を組んでいる。
「まだ早すぎます、殿」
信秀は肩をすくめた。
「戦を見たいそうだ」
「八つですぞ」
「戦国の八つだ」
信秀はそう言って笑うと、吉法師の頭を軽く叩いた。
「ついて来い」
城門の外では、すでに兵が整列していた。
槍隊、弓隊、騎馬武者。鎧の黒と鉄の光が朝日に反射し、隊列は静かに揺れている。
空気には、馬の汗と油の匂いが混ざっていた。
吉法師はその光景をじっと見ていた。
城の中では何度も見たことがあるが、こうして外へ出るのは初めてである。
信秀が馬にまたがる。
「乗れ」
吉法師は家臣の助けを借りて小さな馬に乗った。鞍の高さに少し苦労したが、何とか体を落ち着ける。
平手が最後まで心配そうに見ている。
「無理はなさらぬよう」
吉法師は頷いた。
やがて軍勢は城門を出た。
那古野城の石垣が後ろへ遠ざかり、隊列は土の道を進んでいく。
朝霧の中、槍の穂先がずらりと並ぶ様子は、まるで銀色の森のようだった。
戦場はそれほど遠くなかった。
尾張の小さな国衆が反旗を翻したのだという。信秀にとっては小さな戦であり、軍勢もそれほど多くはない。
しかし吉法師にとっては――
初めての戦だった。
やがて遠くに煙が見え始めた。
村のはずれで戦が起きている。
矢の飛ぶ音、兵の叫び声、馬のいななき。混ざり合った音が風に乗って聞こえてきた。
信秀が言う。
「ここから先は近い」
軍勢は丘の上で止まった。
そこから戦場が見える。
田畑の間で兵たちが入り乱れ、槍がぶつかり合い、砂煙が上がっていた。
怒号と鉄の音が、風に乗ってこちらまで届く。
吉法師は黙ってそれを見ていた。
信秀はちらりと横を見る。
「どうだ」
普通の子供なら、ここで顔を背ける。
だが吉法師は違った。
目を細めて、じっと戦場を見ている。
まるで獣が獲物を観察するような目だった。
戦はすぐに終わった。
数で勝る信秀の軍勢が押し込み、敵は散り散りになった。逃げる者、捕まる者、倒れる者。田畑のあちこちに人が倒れている。
軍勢が進む。
戦場の匂いが風に乗ってきた。
血の匂い。
土の匂い。
焼けた藁の匂い。
吉法師の馬はゆっくりとその中を進んだ。
地面には倒れた兵がいる。
鎧のまま動かない者。槍を握ったままの者。呻き声を上げている者もいた。
信秀は吉法師を見た。
「怖いか」
吉法師は首を振る。
「いや」
そして馬を止めると、戦場を見回した。
信秀はその視線に気づく。
吉法師は死体を見ているのではなかった。
地面を見ている。
兵の動き。
倒れている場所。
槍の折れ方。
足跡。
それらを順番に見ている。
信秀は言った。
「何を見ている」
吉法師は答える。
「なぜ負けた」
信秀は少し驚いた。
吉法師は続ける。
「あの兵」
倒れている敵兵を指さす。
「逃げようとして背を見せておる」
信秀は黙る。
吉法師はさらに言う。
「最初に崩れたのはあそこだ」
指差した先には、田のあぜ道があった。
「狭い道で兵が詰まった」
信秀は目を細める。
吉法師はぽつりと言った。
「戦は面白い」
信秀は思わず笑った。
まだ八つの子供が言う言葉ではない。
だが。
この子は普通ではない。
信秀は言った。
「よく見ておけ」
吉法師は頷いた。
戦場の風が、田の草を揺らしていた。
この少年が、やがて戦国の世を大きく動かす男になることを。
まだ誰も知らない。




