表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

9/49

第8話 初めての戦場

那古野城の朝は、いつもより慌ただしかった。


まだ夜明けの名残が残る空の下、城門の外には馬が並び、武士たちが鎧を整えている。

革と鉄のこすれる音、馬の鼻息、槍の柄が石畳に当たる乾いた音が重なり、城の空気はいつもとは違う緊張を帯びていた。

城の櫓には早くから兵が上がり、遠くの道を見張っている。


戦の朝である。


広間の前の廊下では、小姓たちが忙しなく走り回っていた。

水桶を運ぶ者、弓を抱える者、鎧櫃を押している者。誰もが落ち着かない様子で動き回っている。


その騒がしい廊下を、ひとりだけ妙に落ち着いた足取りで歩く少年がいた。


吉法師である。


まだ八つの少年だが、今日はいつもの片袖姿ではない。小さな胴丸を身に着け、腰には短い木刀が差してある。とはいえ鎧はまだ体に合わず、少しだけ大きく見えた。


その姿を見て、小姓のひとりが小声で言う。


「本当に連れていくのか……」


別の小姓が答える。


「殿のお言葉だからな」


そのとき、奥の広間の障子が開いた。


織田信秀が姿を現した。


すでに鎧を着ている。

黒漆の胴に鉄の袖、肩には大きな家紋。

体格の良い信秀が鎧を着ると、まるで岩のような威圧感があった。

腰には太刀が下がり、歩くだけで鎧の金具が小さく鳴る。


信秀は廊下に立つ吉法師を見て、少し笑った。


「準備はできたか」


吉法師は頷いた。


「できておる」


平手政秀が横で腕を組んでいる。


「まだ早すぎます、殿」


信秀は肩をすくめた。


「戦を見たいそうだ」


「八つですぞ」


「戦国の八つだ」


信秀はそう言って笑うと、吉法師の頭を軽く叩いた。


「ついて来い」


城門の外では、すでに兵が整列していた。


槍隊、弓隊、騎馬武者。鎧の黒と鉄の光が朝日に反射し、隊列は静かに揺れている。

空気には、馬の汗と油の匂いが混ざっていた。


吉法師はその光景をじっと見ていた。


城の中では何度も見たことがあるが、こうして外へ出るのは初めてである。


信秀が馬にまたがる。


「乗れ」


吉法師は家臣の助けを借りて小さな馬に乗った。鞍の高さに少し苦労したが、何とか体を落ち着ける。


平手が最後まで心配そうに見ている。


「無理はなさらぬよう」


吉法師は頷いた。


やがて軍勢は城門を出た。


那古野城の石垣が後ろへ遠ざかり、隊列は土の道を進んでいく。

朝霧の中、槍の穂先がずらりと並ぶ様子は、まるで銀色の森のようだった。


戦場はそれほど遠くなかった。


尾張の小さな国衆が反旗を翻したのだという。信秀にとっては小さな戦であり、軍勢もそれほど多くはない。


しかし吉法師にとっては――


初めての戦だった。


やがて遠くに煙が見え始めた。


村のはずれで戦が起きている。


矢の飛ぶ音、兵の叫び声、馬のいななき。混ざり合った音が風に乗って聞こえてきた。


信秀が言う。


「ここから先は近い」


軍勢は丘の上で止まった。


そこから戦場が見える。


田畑の間で兵たちが入り乱れ、槍がぶつかり合い、砂煙が上がっていた。

怒号と鉄の音が、風に乗ってこちらまで届く。


吉法師は黙ってそれを見ていた。


信秀はちらりと横を見る。


「どうだ」


普通の子供なら、ここで顔を背ける。


だが吉法師は違った。


目を細めて、じっと戦場を見ている。


まるで獣が獲物を観察するような目だった。


戦はすぐに終わった。


数で勝る信秀の軍勢が押し込み、敵は散り散りになった。逃げる者、捕まる者、倒れる者。田畑のあちこちに人が倒れている。


軍勢が進む。


戦場の匂いが風に乗ってきた。


血の匂い。


土の匂い。


焼けた藁の匂い。


吉法師の馬はゆっくりとその中を進んだ。


地面には倒れた兵がいる。


鎧のまま動かない者。槍を握ったままの者。呻き声を上げている者もいた。


信秀は吉法師を見た。


「怖いか」


吉法師は首を振る。


「いや」


そして馬を止めると、戦場を見回した。


信秀はその視線に気づく。


吉法師は死体を見ているのではなかった。


地面を見ている。


兵の動き。


倒れている場所。


槍の折れ方。


足跡。


それらを順番に見ている。


信秀は言った。


「何を見ている」


吉法師は答える。


「なぜ負けた」


信秀は少し驚いた。


吉法師は続ける。


「あの兵」


倒れている敵兵を指さす。


「逃げようとして背を見せておる」


信秀は黙る。


吉法師はさらに言う。


「最初に崩れたのはあそこだ」


指差した先には、田のあぜ道があった。


「狭い道で兵が詰まった」


信秀は目を細める。


吉法師はぽつりと言った。


「戦は面白い」


信秀は思わず笑った。


まだ八つの子供が言う言葉ではない。


だが。


この子は普通ではない。


信秀は言った。


「よく見ておけ」


吉法師は頷いた。


戦場の風が、田の草を揺らしていた。


この少年が、やがて戦国の世を大きく動かす男になることを。


まだ誰も知らない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ