第71話 城へ戻る熱
「その顔で、何もなかったように戻るつもりですか」
那古野城へ戻って最初に飛んできたのは、案の定、平手政秀のその声だった。
吉法師は廊下の真ん中でぴたりと足を止める。
止めたというより、止められた、に近い。
政秀の声にはそういう力がある。怒鳴っているわけでもないのに、背筋だけは勝手に正される。
「何もなかったわけではない」
吉法師が言う。
「見れば分かります!」
政秀はほとんど即答した。
確かに見れば分かる。
袖には木屑の細かな欠片がついているし、指先には削り粉の白さが残っていた。顔にも少し疲れがある。槍の稽古帰りの時とはまた違う、何かに熱中したあとの顔だ。
小夜はその少し後ろで、心の中だけで「始まった」と呟いた。
利家は、城へ入るなりこうなる流れがまだ少し面白いらしく、口元を隠しきれていない。
「今度は何をしておられたのです」
政秀が問い詰める。
吉法師は少しだけ胸を張った。
「失敗した」
政秀が一瞬だけ黙った。
そこを利家が余計にややこしくする。
「でも面白かったぞ」
小夜がすぐ刺す。
「余計なこと言わない」
政秀の眉間の皺がさらに深くなる。
「……順に申されよ」
吉法師は簡潔に話した。
弓職人の工房へ通ったこと。
古い兵法書から連弩のような仕組みを見つけたこと。
試作を作り、藁束には通ったこと。
だが具足には通らず、戦では足りぬと分かったこと。
そこまで話し終えた時、政秀はしばらく言葉を失っていた。
あまりにもいつもの吉法師らしく、あまりにもいつもの吉法師らしからぬ話だったからだ。
「つまり……」
ようやく政秀が言う。
「失敗したのですな」
「うむ」
「だが、その顔は完全にはへこんでおられぬ」
「次が見えた」
その一言に、政秀は深く息を吐いた。
呆れている。
だが、少しだけ安堵もしていた。
若殿がただ無茶をして帰ってきたのではなく、ちゃんと失敗を失敗として持ち帰っているからだ。
「森殿は何と」
政秀が訊く。
「戦は道具だけでは勝てぬ、と」
吉法師が答える。
その答えに、政秀の表情がわずかに変わった。
可成らしい、とでも言いたげな顔だ。
「それで?」
「だが、道具を侮っても勝てぬ、とも」
政秀は小さく頷いた。
「その通りにございます」
そこで利家が少し退屈そうに言う。
「結局、若殿はまた次を考えてる」
政秀がぴくりと反応する。
「また次、とは」
小夜が先に口を挟む。
「火薬」
政秀が頭を抱えた。
「なぜそうなるのですか」
「具足を抜けなかったから」
吉法師は本気でそう答える。
「矢で足りぬなら、別の力が要る」
政秀は何か言い返しかけたが、途中でやめた。
ここで押し返しても、若殿の頭の中がもう次へ向いていることは止まらぬと分かっているのだろう。
「……せめて、次は先に相談なさい」
「今した」
「そういう意味ではありませぬ!」
そのやり取りに、利家が吹き出し、小夜がため息をつく。
「いつもこれ」
「お前はよく平気だな」
利家が小夜へ言う。
「平気じゃないわよ。慣れただけ」
政秀は、そこにさらに何か言い足したそうだったが、さすがにこの場では諦めたらしい。
「とにかく、今は部屋へ戻って手を洗いなさい」
「子供扱いするな」
「そう見えるのです!」
その返しに、吉法師は少しむっとしたが、結局は従った。
廊下を歩きながら、小夜は横目で吉法師の顔を見る。
失敗した。
ちゃんと落ち込んだ。
だが、止まってはいない。
その変化は、たぶん小夜が最も近くで見てきたものだった。
最初の頃の吉法師なら、面白がるだけでもう少し粗かったはずだ。
今は違う。
面白がりながら、壁の重さも覚えている。
それでも前へ出る。
「少し変わったわね」
小夜がぽつりと言う。
吉法師が振り向く。
「何がだ」
「前よりちゃんと失敗を持って帰ってくる」
「前は持って帰らなかったような言い方だな」
「前は、その場で次の面白いことに飛んでた」
「今も飛んでおる」
「それでも少し違う」
吉法師は、その言葉にはすぐ返さなかった。
やがて小さく鼻を鳴らす。
「おぬしはよく見ておるな」
「見張り役だもの」
その答えに、吉法師は少しだけ笑った。
その頃、別の廊下では、帰蝶が偶然そのやり取りを遠目に見ていた。
吉法師が政秀に小言を言われ、利家が横で笑い、小夜が呆れた顔でついて歩く。
それだけなら、ただ騒がしい若殿の帰城だ。
だが帰蝶の目には、それが少し違って見えた。
吉法師の歩き方が、前より少しだけ重い。
重いが、沈んでいるわけではない。
何かをちゃんと持ち帰ってきた者の歩き方だった。
「失敗したのね」
小さく、そう思う。
そして同時に、
「それでも止まっていない」
とも思った。
失敗して終わる男ではない。
むしろ失敗の方が、この男を先へ押すのかもしれない。
その視線に気づいたのか、吉法師がふとこちらを見た。
帰蝶はすぐに視線を外さず、そのまま受ける。
一瞬だけ目が合う。
吉法師の目には疲れがある。
だが、熱もある。
帰蝶は、少しだけ口元を上げた。
「懲りない男」
誰にも聞こえぬように呟く。
その言葉の半分は呆れで、半分はやはり興味だった。
一方、勘十郎もまた、兄の戻った気配に気づいていた。
ただし、こちらは廊下の陰から一瞬見ただけだ。
兄はまた何かをしてきたらしい。
また怪我でもしたのかもしれない。
そう思って少しだけ足を向けかけたが、途中で止めた。
今、声をかければ、また何か比べられる気がしたからだ。
兄に対してではない。
周りの目に対して。
その小さなためらいが、勘十郎自身にも少しだけ苦かった。
その夜。
森可成は政秀から若殿の帰城の様子を聞いた。
「へこんではおらぬか」
「へこんではおります」
政秀が言う。
「ですが、同じだけ次を見ております」
可成は小さく頷いた。
「それでよろしい」
「よろしい、で済ませるのは森殿だけです」
政秀は深く息を吐く。
「若殿は失敗しても止まらぬ。そこは良いのです。だが、次から次へと飛ぶので、こちらの胃が持ちませぬ」
可成は少しだけ口元を動かした。
「飛ぶ力があるのは、若い証でござる」
「若さだけでは困るのです」
「承知しておる」
そう言いながらも、可成の目にはわずかな評価があった。
具足に弾かれた。
壁を知った。
それでも目が死なない。
そのこと自体は、やはり吉法師の強さのひとつだった。
同じ頃、信秀の部屋の近くでは、また咳が聞こえていた。
深い。
抑えようとしても消しきれぬ咳だ。
夜の廊下を行き交う小姓たちの足音は、ここ数日でさらに静かになっている。
女中たちの顔にも、無言の緊張が宿るようになった。
吉法師が町で失敗を抱え、工房で次を考えているその裏で、城の中では別の意味で時間が進んでいた。
翌朝、帰蝶は庭へ出る途中で、ふとそう思う。
失敗しても止まらぬ男。
その男を見守る者たち。
そして、その上に静かに落ちてくる父の病。
那古野城の空気は、昨日までよりも少しだけ重かった。
吉法師はまだ、未来の戦を考えている。
だが那古野城では、それより先に“今の家”が揺れ始めていた。




