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第70話 火の話

「矢でだめなら、次は火だ」


吉法師がそう言った時、工房の中にいた三人は、揃って顔を上げた。


つい先ほどまで、空気は重かった。

具足に弾かれた矢の感触が、まだ四人の胸のどこかへ残っている。夢がまったく潰えたわけではない。だが、思いつきだけでは戦を越えられぬことも、もう嫌というほど見せつけられた。


その重さの中で、吉法師だけが、また別の方角を見始めている。


小夜が、いかにも嫌そうな顔で言った。


「……出た」


利家は、最初こそぽかんとしたが、すぐに口元を上げた。


「火って、火矢か?」


「いや」


吉法師は首を振る。


「もっと違う」


弓職人は眉間に皺を寄せた。


「違うって何だ。工房を燃やす話なら、今すぐ追い出すぞ」


「燃やすのではない」


吉法師は床に広げた兵法書の横へ、新しい紙切れを引き寄せた。そこへ炭で、雑だが勢いのある線を引く。


「矢が具足を抜けぬなら、もっと強い力が要る」


「だから弓の張りを上げるんじゃねえのか」


職人が言う。


「それだけでは木が持たぬ」


「それはそうだ」


「なら、木の力とは別のものを使う」


その言い方に、職人の顔つきが少し変わった。

小夜も目を細める。

利家だけがまだ半分分かっていない顔だ。


「別のものって何だよ」


吉法師は少しだけ口元を上げた。


「火薬だ」


今度こそ、工房が静まり返った。


利家が最初に反応する。


「かやく?」


「火を吐くやつだ」


「知ってる、それくらいは」


「だが、戦に使える」


利家は腕を組んだ。


「火矢みたいなもんか?」


「それよりもっと、押し出す力に使う」


利家はしばらく考え、それから素直に言った。


「分からん」


小夜が横からぼそりと言う。


「あなたは正直でいいわね」


「分からねえもんは分からねえ」


「それは正しい」


職人は、徳利をいじる手を止めたまま、低く言った。


「どこでそんな話を聞いた」


吉法師は少しだけ考える顔をした。


「町だ」


「雑だな」


「商人の話、荷の噂、唐土の品、南蛮渡りの道具」


そう言いながら、炭でさらに図を描き足す。

筒のようなもの。

その後ろに火。

前へ押し出される何か。


「堺へ行く商人が、鉄の筒で音と火を出す話をしておった」


小夜が腕を組んだまま言う。


「鉄砲?」


吉法師が顔を上げる。


「知っておるのか」


「名前だけ。細かいことまでは知らない」


「だが火の力で何かを飛ばすものらしい」


職人が、そこでゆっくりと息を吐いた。


「お前、今度は弓を飛び越えて別の武器へ行く気か」


「飛び越えるのではない」


吉法師は言った。


「足りぬから、次を見る」


その理屈に、小夜は思わず苦笑した。


本当に懲りない。

昨日、具足の壁に弾かれたばかりだというのに、もう次の壁を見に行く顔をしている。


「ねえ」


小夜が言う。


「少しくらい落ち込む時間ってないの?」


「落ち込んだ」


吉法師が即答する。


「十分だ」


「十分って、どれくらいよ」


「半日」


利家が吹き出した。


「短えな!」


「短すぎるわよ」


「だが半日もあれば考えるには足りる」


「考える方に使ったのね」


「当然だ」


職人が深く息を吐いた。


「本当に面倒な若殿だな」


「褒め言葉だな」


「違う」


だが、その“違う”もどこか昨日までより弱い。

嫌がってはいる。

それでも、この男がもう吉法師の発想そのものを頭から切り捨ててはいないことが、小夜にも利家にも分かった。


利家は床へ胡座をかき、紙の上の雑な図を覗き込んだ。


「つまり、火の力で矢を飛ばすのか?」


「矢とは限らぬ」


「石か?」


「分からぬ」


「分からんのかよ」


「そこはこれからだ」


利家はしばらく黙っていたが、やがて口元を上げた。


「いいな」


「何が」


小夜が訊く。


「昨日まで、矢が通るかどうかでうだうだしてたのに、今日はもう別のこと考えてる」


「うだうだって言わないでくれる?」


小夜が返す。


「私はちゃんと現実を見てただけ」


「でも今、お前も少し面白そうだぞ」


「……面白くないとは言ってない」


「ほらな」


吉法師が少しだけ笑う。


「おぬしら、すぐ分かりやすい」


「一番分かりやすいのはあなたよ」


小夜がぴしゃりと言う。


その時、工房の戸が静かに鳴った。


四人がそちらを見る。


森可成だった。


今日は槍ではなく、普段の城中での着流しに近い姿だ。だが立っただけで空気が締まるのは変わらない。可成は工房の中を見渡し、床に広がる紙と木片、そして妙な熱を帯びた三人の顔を見て、すぐに察したらしい。


「今度は何を始めた」


低い声でそう言う。


小夜が小さく呟く。


「来た」


利家は妙に楽しそうだ。


「ちょうどいいところだ」


可成の目が吉法師へ向く。


「若殿」


「何だ」


「昨日、壁に当たったばかりでしょう」


「うむ」


「ならば今日は何を壊すつもりです」


その言い方に、利家が吹き出しそうになるのを堪えた。

小夜は半分呆れ、半分感心した顔になる。

可成もすでに、吉法師のこういう流れを読み始めているのだ。


吉法師はまっすぐ答えた。


「火だ」


可成の目が、ほんのわずかに細くなる。


「ほう」


「火薬の話をしておった」


工房の中に、また静けさが落ちた。


可成はすぐには何も言わない。

だが、その沈黙がいつもの“呆れた沈黙”ではないことを、吉法師は感じた。


「聞いたことはあります」


やがて可成が言う。


「堺の商人どもが、南蛮渡りの鉄筒を扱うと」


職人が顔を上げた。


「森殿も知ってるのか」


「詳しくはありませぬ」


可成は答える。


「だが噂は耳に入る。火と音で人を殺す道具だとな」


利家が少し顔をしかめた。


「何だそれ。気味悪いな」


可成は頷いた。


「武士の手で引く弓とも、槍とも違う」


「だが、具足を抜くかもしれぬ」


吉法師が言う。


「……そういうことですか」


可成の声は低い。


昨日の敗北から、もうそこへ飛ぶか。

そう言いたげな顔だった。


だが同時に、その発想の跳び方が吉法師らしいことも、もう十分知っている。


「若殿」


可成が静かに言う。


「火は便利です。だが、便利なものほど扱いを誤れば味方も焼く」


吉法師は頷いた。


「分かっておる」


「本当に?」


小夜がすかさず言う。


「その“分かってる”が一番怪しいのよ」


「だが、次を見るしかあるまい」


吉法師の声は静かだった。


「矢だけでは足りぬと知った。なら、次に何があるかを見ねばならぬ」


その言葉に、工房の空気が少しだけ変わった。


これは、ただの思いつきではない。

具足に弾かれた現実を受けて、その先を探ろうとしている。

そこが昨日までと少し違う。


職人が低く唸る。


「火薬なんざ、うちの工房じゃどうにもならねえぞ」


「分かっておる」


「鉄も要る」


「分かっておる」


「腕のいい鍛冶も、商人のつても要る」


「それもだ」


「じゃあ何でそんな落ち着いてる」


吉法師は少しだけ笑った。


「道が見えたからだ」


利家が「おお」と妙に感心した顔をする。


小夜はその横で、ため息をつきながらもどこか口元が緩んでいた。


「ねえ」


「何だ」


「昨日の落ち込み、半日って言ったわよね」


「うむ」


「やっぱり短すぎる」


「だが、こういうところがこいつの良いところかもしれねえぞ」


利家が言う。


「良いところなのか悪いところなのか、まだ決めかねてるのよ」


「俺は面白えから好きだ」


「単純」


「褒め言葉だな」


「何で皆そこだけ真似するのよ」


その軽口を聞きながら、可成はしばらく吉法師を見ていた。


槍の稽古で教えている時と同じ目だ。

ただし今は、相手の足ではなく、頭の動きを見ている。


「若殿」


「何だ」


「焦るな」


その一言に、吉法師は目を細めた。


「焦ってはおらぬ」


「昨日、具足を見てすぐ次へ飛んだ」


「次へ向かうのは当然だ」


「それはよい」


可成は頷いた。


「だが、次を見る時も昨日の壁を忘れるな」


その言葉に、吉法師は少しだけ黙った。


忘れてはいない。

具足に弾かれた音は、今もちゃんと胸に残っている。

だからこそ“火”へ飛んだのだ。


「……忘れぬ」


やがてそう答える。


可成は、そこでようやく小さく頷いた。


「ならばよろしい」


職人が徳利を持ち上げた。


「で、結局どうする」


吉法師は床の図を見下ろした。


火薬。

鉄の筒。

商人。

鍛冶。

まだ何もない。

だが、昨日の敗北の先に、確かに別の道が伸び始めている気がした。


「まずは噂を集める」


吉法師が言う。


小夜が即座に反応する。


「商人筋ね」


「うむ」


利家は腕を鳴らす。


「必要なら堺まで行くか?」


「さすがに飛びすぎよ」


小夜が返す。


「でも、話くらいなら拾えるかもしれない」


職人が鼻を鳴らす。


「また工房が面倒なことになるな」


吉法師はその言葉に、はっきり笑った。


「面倒な方がよい」


「知ってる」


今度は小夜、利家、職人の三人がほぼ同時に返した。


工房の空気は、昨日までの敗北の重みをまだ残している。

だがその重みの上に、また新しい熱が少しずつ生まれ始めていた。


矢では足りぬ。

なら、次は火。


無茶だ。

遠い。

面倒だ。


それでも吉法師の目は、もう次の時代の匂いを追い始めていた。

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