第69話 敗北の重み
工房の中は、妙に静かだった。
いつもなら、利家が何か言って、小夜が刺し、吉法師が面白がって、その合間に弓職人が舌打ちする。だいたいそういう騒がしさがある。だが今は違った。昨日、具足に弾かれた矢の音が、まだ四人の耳の奥へ残っているようだった。
木屑の匂いは変わらない。
酒の匂いも、相変わらず少しある。
工房そのものは昨日までと同じなのに、空気だけが重い。
吉法師は、兵法書を開いたまま黙っていた。
開いてはいる。
だが読んではいない。
視線は紙の上に落ちているのに、頭の中には昨日の具足しかないのだろう。真正面では弾かれ、継ぎ目を狙っても刺さりきらず、地面に落ちた矢。その一つ一つが、妙にはっきり残っている。
弓職人は工房の端で、昨日の試作二号を解いていた。
木組みを外し、弦を緩め、部材をひとつずつ確かめている。動きは乱暴ではない。だが、静かすぎた。
利家は、そのどちらにも声をかけられずにいた。
こういう空気が苦手なのだろう。腕を組み、何度か口を開きかけては閉じる。殴り合いなら得意だ。重い荷を運ぶのも得意だ。だが、失敗のあとに残る沈黙へ何を投げればいいかは、よく分からないらしい。
小夜は戸口のそばに立ち、三人を順番に見ていた。
誰も壊れてはいない。
だが、昨日までの勢いだけでは前へ進めぬところへ来てしまった。そういう顔をしている。
「……お腹すいた」
最初に口を開いたのは、利家だった。
あまりにも利家らしい一言で、小夜は呆れた顔を向ける。
「それを今言うの?」
「こういう時こそ何か食わねえと、余計重くなるだろ」
「理屈は分かるけど、言い方ってものがあるのよ」
「じゃあお前がうまく言えよ」
「嫌よ、面倒だもの」
そのやり取りだけが、少しだけいつもの調子だった。
だが吉法師は笑わない。
職人も振り向かない。
利家は困ったように頭を掻いた。
「……おい、若殿」
吉法師は少し遅れて顔を上げた。
「何だ」
「そんな顔すんなよ」
「どんな顔だ」
「負けた犬みてえな顔」
小夜がすぐに口を挟む。
「慰める気ある?」
「あるって」
「全然そう聞こえないわよ」
利家は少しむっとする。
「俺ぁこういうの苦手なんだよ」
「知ってる」
「なら黙って見てろ」
「見てるわよ」
吉法師は、その言い合いをしばらく聞いていた。
それから小さく息を吐く。
「負けたのは事実だ」
工房が、また静かになる。
吉法師は兵法書を閉じた。
「使えると思った」
その言葉は、思っていたよりずっと重かった。
藁束に刺さった時は、たしかに胸が熱くなった。
このまま行けば、何か変わるかもしれぬと思った。
だが現実は違った。
具足は、藁ではなかった。
戦は、工房の熱だけでは越えられなかった。
弓職人が、そこでようやく手を止めた。
「俺もだ」
低く言う。
吉法師がそちらを見る。
職人は壊れたわけではない部材をひとつ持ち上げた。
「正直、二号が動いた時は……ちょっと、いや、かなりその気になった」
利家が少しだけ笑う。
「顔に出てたぞ」
「うるせえ」
職人はすぐ返したが、いつもの張りは薄い。
「いけるかもしれねえって思った。藁に刺さって、連続で飛んで、形になってきて……そしたら、戦でも通るんじゃねえかって」
小夜は黙って聞いていた。
職人がそう認めるのは、少し珍しかった。
いつもなら、嬉しくても先に文句を言う男だ。
その男が今、先に悔しさを口にしている。
「でも違った」
吉法師が言う。
「違った」
職人も頷く。
「作るのと、戦で通るのは違う」
その一言が、工房の真ん中へずしりと置かれた。
利家は腕を組んだまま、少しだけ顔をしかめる。
「そこまで違うもんかね」
職人が利家を見る。
「お前、木剣で打ち合うのと、本物の戦じゃ同じか?」
利家は一瞬で黙った。
「違うな」
「そういうことだ」
職人は部材を机に戻す。
「形にするのは一つ。だが、戦で通すには、その先が要る」
吉法師は膝の上で指を組んだ。
「矢か」
「矢もだ」
「弦も」
「そうだ」
「張りも」
「そうだ」
「全部足りぬ」
職人は少しだけ笑った。
「そういうことだ」
その笑いは明るくない。
だが、完全に沈んでもいない。
小夜が口を開く。
「でも、何が足りないかは分かった」
三人がそちらを見る。
「それって、何もできなかったよりはずっとましでしょ」
利家がすぐに頷く。
「それだ」
「あなたは簡単に乗るわね」
「だってそうだろ。何も分かんなかったなら終わりだけど、今は“駄目な理由”が見えてる」
吉法師は、その言葉には少しだけ反応した。
何もできなかったわけではない。
飛んだ。
当たった。
だが、足りなかった。
その差は大きい。
大きいが、ゼロではない。
「……そうだな」
ぽつりと言う。
だが、その声にはまだ熱が戻っていない。
工房の隅には、試作二号の部材が並んでいる。
昨日までは希望の形に見えたものが、今は“まだ足りぬ証”に見えてしまう。その見え方の変化が、吉法師には少し堪えていた。
そこへ、戸口の向こうで足音が止まった。
小夜が先に気づく。
視線を向ける。
工房の空気も、少しだけそちらへ引かれた。
森可成だった。
大きく戸を開けるでもなく、そこに立っているだけで空気が締まる。吉法師はすぐに顔を上げた。利家も姿勢を直す。職人は無言で徳利を脇へ寄せた。
可成は、工房の中をひと目で見渡した。
兵法書。
外された木組み。
重い沈黙。
それだけで、今どんな空気かは分かったのだろう。
「若殿」
「何だ」
「落ち込んでおられるか」
吉法師は少しだけ眉をひそめた。
「……少しはな」
可成は頷いた。
「それでよろしい」
利家が少し目を丸くする。
小夜も、可成がまずそこを肯定したことへ少し驚いたようだった。
可成は工房へ入り、試作二号の部材をひとつ手に取った。
「夢を見たなら、壁に当たった時は重くて当然です」
吉法師は黙って聞いている。
「だが、壁が見えたのなら、それはただの敗北ではありませぬ」
職人が小さく鼻を鳴らした。
「そううまく言われてもな」
可成はその職人を見た。
「うまくではなく、本当のことです」
そして吉法師へ向き直る。
「戦は道具だけでは勝てぬ」
その言葉に、昨日の具足の前でも言われた声が重なる。
「だが道具を侮れば、それもまた勝てぬ」
可成は部材を置いた。
「若殿がやっておることは、無駄ではありませぬ。無駄ではないが、これだけで戦を変えようと思うなら甘い」
その一言は厳しい。
だが今の吉法師には、妙にすんなり入った。
「……うむ」
「道具は一つ」
可成が続ける。
「兵は一つ。地形は一つ。士気も一つ。戦はそれら全部を束ねて勝つものです」
利家が低く呟く。
「全部か」
「全部です」
可成は言い切った。
「一つだけで何とかしようとすれば、たいてい途中で折れる」
その言葉に、吉法師は膝の上の手を少しだけ握った。
折れた。
たしかに昨日、夢は少し折れた。
だが、全部が終わったわけではない。
可成はそこで、それ以上説教めいたことは言わなかった。
ただ最後に、吉法師へ向けて一言だけ落とす。
「壁の重みを知ったなら、次はその越え方を考えなされ」
それだけで、工房の空気が少し動いた。
吉法師はしばらく黙っていたが、やがて顔を上げる。
まだ明るくはない。
だが、完全に沈んでもいない。
「……越え方、か」
利家がすぐに言う。
「考えるなら付き合うぞ」
小夜も肩をすくめる。
「私も、見張ってるついでなら」
職人は最後まで少し嫌そうな顔をしていたが、それでも言った。
「……壊れたところは、直す」
それが、この男なりの続行宣言なのだろう。
吉法師は、そこでようやく少しだけ笑った。
大きくではない。
だが、昨日の具足の前で消えた熱が、ほんの少しだけ戻ってきた顔だった。
敗北は重い。
思いつきだけでは戦にならぬ。
それも確かだ。
だが、重さを知ったからこそ、次の道が見え始めることもある。
工房の中には、まだ失敗の匂いが残っていた。
けれどその残り香の下で、四人の目は少しずつまた前へ向き始めていた。




