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第68話 具足の壁

「じゃあ、次は具足だな」


利家が嬉しそうにそう言った瞬間、弓職人は本気で嫌そうな顔をした。


「お前、昨日からそれしか言ってねえな」


「だって次はそれだろ」


「順番ってもんがある」


「でも若殿も同じこと考えてる顔してるぞ」


三人の視線が揃って吉法師へ向く。


吉法師は、試作二号を手にしたまま、藁束へ刺さった矢をじっと見ていた。

二本とも飛んだ。

連続して飛んだ。

それ自体は間違いなく前進だ。


だが、戦で使えるかどうかは別だ。


「……具足だな」


吉法師が言うと、小夜は即座に額へ手を当てた。


「ほらね」


職人が深く息を吐く。


「やると思ったよ」


「やるのか?」


利家はむしろ乗り気だ。


「やる」


吉法師は迷わなかった。


「藁には刺さる。だが藁は敵ではない」


小夜が腕を組む。


「だからって、いきなり具足は飛びすぎなのよ」


「飛びすぎてはおらぬ」


「十分飛んでるわよ」


だが吉法師の目は、もう次へ向いていた。


この数日で何度もそうだった。

失敗すれば、次に何を試すかを考える。

少し形になれば、どこまで通じるかを見たがる。

それが吉法師だと、もう三人とも分かっている。


問題は、誰に具足を用意させるかだった。


「森殿に頼むか」


吉法師がぽつりと言うと、小夜がすぐ顔をしかめた。


「嫌な予感しかしないどころじゃないわ」


利家は笑う。


「でも一番早いだろ」


「早いけど、話が面倒になる」


「面倒なのはいつもだ」


「それを当然みたいに言わないで」


結局、その日の夕刻には森可成のもとへ話が行っていた。


可成は、試作二号を見た時も、まず顔を動かさなかった。

工房の裏手へ立てかけられたそれを手に取り、木組みを見て、矢の溝を見て、少しだけしならせる。酒臭い弓職人がやや不機嫌そうに腕を組み、利家が妙に得意げな顔で横に立ち、小夜が少し距離を取って様子を見る。


そして最後に、吉法師がまっすぐ言った。


「具足を撃たせろ」


その一言に対しても、可成はすぐには返事をしなかった。


ただ、試作二号をもう一度見た。

それから吉法師を見る。


「本気にございますか」


「うむ」


「遊びではなく」


「遊びなら森可成のところへは持って来ぬ」


その返しに、可成の口元がほんの少しだけ動いた。


「そうですな」


やがて、可成は短く頷いた。


「よろしい」


小夜がすぐ横でぼそっと言う。


「よろしいのね……」


「面白くなってきた」


利家は遠慮なく笑った。


職人だけは、まだ少し苦い顔をしている。


「面白いで終わってくれりゃいいがな」


可成が、近くにいた若侍へ命じた。


「古い当世具足を一領、持て」


「はっ」


若侍はすぐ走る。


その動きに迷いがない。

森可成がこういう時、最初から遊びではなく“試し”として扱うことを、周りの者たちも分かっていた。


日が少し傾き始めた頃、稽古場の端へ具足が運ばれてきた。


木に掛けられたそれは、実際に人が着るよりも無言で、だからこそ妙に重く見える。胸の板、袖、胴、脇の守り。傷や擦れも残っている。新しいものではない。だが、それでも戦で命を守るための道具だと一目で分かった。


吉法師はそれを見て、表情を少し引き締めた。


藁束とは違う。

さっきまでの高揚が、少しだけ冷える。


可成がその様子を見て、低く言う。


「これが、矢の通る相手かどうかを見たいのでしょう」


「そうだ」


吉法師は答えた。


「なら、ようく見なされ」


その言い方に、小夜は少しだけ目を細めた。


森可成もまた、これはただの“試し撃ち”ではないと思っている。

若殿の夢がどこまで現実へ食い込めるのか、その最初の壁だと分かっているのだ。


職人が、試作二号を整えながら言う。


「昨日までの藁とは違うぞ」


「分かっておる」


「分かってる顔してるな」


「何だそれは」


「今、お前も少し緊張してる」


吉法師はそこで少しだけ口を閉じた。


図星だったからだ。


利家が横から覗き込む。


「通ればすげえな」


「通らなければ」


小夜が言う。


「ちゃんと落ち込みなさいよ」


「何で先にそうなる」


「こういう時のあなた、失敗しても面白いって言うから」


「それは面白ければ言う」


「だから怖いのよ」


可成が手を上げた。


「静かに」


その一言で場が締まる。


吉法師は試作二号を構えた。

矢を載せる。

今回は一本だけだ。

連射を見るのではない。

まずは通るかどうか、それだけを見る。


弦を引く。


木が鳴る。

張りはある。

昨日の藁束にはちゃんと届いた。

だが今、目の前にあるのは藁ではなく具足だ。


「行くぞ」


放つ。


ぱしっ――!


矢は飛んだ。


狙いは悪くない。

胸のあたり。

具足へまっすぐ向かう。


当たる。


がつっ、と鈍い音がした。


その瞬間、場の空気が止まった。


矢は、刺さっていなかった。


確かに当たった。

だが具足の表面で弾かれ、少しだけ角度をずらされ、そのまま下へ落ちる。地面へ転がる音が、妙に小さく響いた。


誰もすぐには声を出さなかった。


利家の笑みが消える。

小夜も口を閉ざす。

職人は顎を引き、可成は無言のまま具足を見ていた。


吉法師だけが、しばらくその場に立ち尽くしていた。


「……浅いな」


やがて、そう口にする。


弓職人が低く答える。


「浅いどころじゃねえ」


吉法師は具足へ近づいた。


傷はついている。

小さい。

だが、それだけだ。


「もう一度」


すぐにそう言った時、可成の目がわずかに動いた。


「まだやるか」


「角度を変える」


吉法師はきっぱり言う。


「真正面が駄目なら、継ぎ目だ」


小夜が小さく息を吐く。


「そう来ると思った」


利家がまた少しだけ熱を取り戻す。


「やれやれ!」


職人は顔をしかめたままだったが、止めはしない。


「今度は脇だ」


吉法師が言う。


可成が頷く。


「よろしい。だが、そこも実戦で都合よく止まってはおらぬと知れ」


「分かっておる」


二射目。


今度は脇の下に近い、板の継ぎ目を狙う。

たしかにそこは正面より弱い。

藁束相手なら、こういう狙い方をする必要もなかった。


放つ。


矢は飛ぶ。

一射目より良い。

狙いも深い。


だが――


こんっ、と軽めの音を立て、今度は弾かれずに少しだけ引っかかったあと、やはりするりと落ちた。


刺さりきらない。


「……くそ」


吉法師が小さく呟く。


職人は、そこでようやく言った。


「戦では使えん」


その声は重かった。


利家も黙る。

小夜は具足と地面に落ちた矢を交互に見ていた。


吉法師はまだ諦めた顔ではない。

だが、笑ってもいなかった。


「力が足りぬのか」


職人が答える。


「力も、矢も、全部足りねえ」


「だが当たってはいる」


「当たるだけじゃ人は止まらねえ」


その一言が、静かに刺さった。


可成がようやく口を開く。


「若殿」


吉法師は顔を上げる。


「戦は、藁を相手にするものではありませぬ」


「……うむ」


「具足を着た人間が、動き、怒り、殺す気で向かってくる」


可成の声は低く、だが一つ一つが重い。


「道具が通じるかどうかは、そこを越えてからです」


吉法師は具足を見たまま、しばらく動かなかった。


昨日までは、頭の中で“変わるかもしれぬ戦”が広がっていた。

だが今、その夢へ初めてはっきりした壁が立った。


藁には刺さる。

連続して撃てる。

それでも、戦にはまだ足りない。


「面白く、ないな」


ぽつりと吉法師が言う。


小夜が少しだけ顔を上げた。


それはたぶん、今までで初めてに近い言い方だった。

失敗してもすぐ「面白い」と言ってきた吉法師が、今はそう言わなかった。


職人が折れたわけではないが、重く息を吐く。


「悔しいか」


「うむ」


「俺もだ」


そのやり取りは短かった。

だが、その短さの中に同じ悔しさがあった。


利家が、気まずそうに頭を掻く。


「まあ……藁より強かったってだけだな」


小夜がじろりと見る。


「慰め下手」


「分かってるよ」


利家は少しだけむっとしたあと、すぐに付け足した。


「でも、何もできねえよりはましだろ」


吉法師はその言葉には答えなかった。


まだ答えが出ない顔だった。


可成はそんな吉法師を見て、もう一度だけ低く言った。


「夢を見るのはよい」


吉法師が顔を上げる。


「だが、壁の重さを知らねば夢は戦になりませぬ」


その言葉は、まっすぐだった。


吉法師はしばらく黙っていた。

やがて、地面に落ちた矢を自分で拾い上げる。


先端は潰れていない。

だが、具足を抜ける力もない。


「……まだだな」


最後にそう言った声は、昨日までより少し低かった。


試作二号は、確かに前進だった。

だが、戦を変えるにはまだ遠い。


その現実が、夕方の稽古場に重く残っていた。

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