第64話 作ってみろ
「嫌だ」
弓職人は、吉法師の言葉を聞いた瞬間にそう言った。
間髪も何もない。
考える前に口から出たというより、考えるまでもなかったのだろう。
「これを作れ」
そう言われて、
「嫌だ」
で返す。
実に分かりやすい。
利家が横で吹き出した。
「早えな」
「早い方が話は済む」
職人は徳利を取り上げ、もう一口飲んだ。
「書物の空想を尾張で再現できるか。そんなもん、やってみる前から面倒だ」
吉法師は少しも引かない。
「面倒でもやれ」
「だから何で俺が」
「おぬしが弓職人だからだ」
「それだけで足りるか」
「足りる」
「足りねえよ」
小夜は工房の柱へもたれながら、小さくため息をついた。
「また始まった」
だが、止めに入る気配はない。
もう分かっているのだ。吉法師がこういう顔をした時は、少々の言葉では止まらない。そして、この弓職人もまた、真正面から否定しながら、心のどこかではもう図を見直している。
利家は利家で、すでに面白がっている。
「やろうぜ、おっさん」
「おっさん言うな」
「じゃあ酔っ払い」
「もっと嫌だ」
「でもちょっと興味あるだろ」
職人が睨む。
「ねえよ」
「嘘つけ」
利家はけろっと言った。
「さっきから図ばっか見てるじゃねえか」
職人は返事をしなかった。
返事をしないこと自体が、だいたい答えだった。
吉法師は冊子をもう一度開き、床へ広げた。
紙は古い。
図も曖昧だ。
寸法もない。
説明もところどころ欠けている。
だが吉法師の目は、そういう欠けを前にするとむしろ冴える。
「ここだ」
指で図を叩く。
「弦を引く。ここへ矢を重ねる。放てば次が落ちる」
職人が顔をしかめた。
「理屈は分かる」
「なら作れる」
「そう簡単に言うな」
「簡単だから言うておるのではない。作れそうだから言うておる」
その言い方が、いかにも吉法師だった。
職人は膝を立て、図と吉法師を見比べる。
「仮にだ」
「うむ」
「仮に木で組むとしても、弦をどう引く。腕で引くのか、仕掛けで引くのか」
「両方試せ」
「試すのは簡単だ。形にするのが面倒なんだ」
「なら形にしろ」
「だから何でそう話が早えんだよ」
小夜が口を挟む。
「この人、思いつくとすぐ先まで行くから」
「知ってる」
利家も頷く。
「昨日も今日も見た」
「昨日今日で理解するのね、そこは」
「分かりやすいからな」
吉法師は三人のやり取りを無視して、工房の中を見回した。
「木はある」
「あるな」
「弦もある」
「ある」
「削る道具もある」
「ある」
「では始められる」
職人がとうとう頭を抱えた。
「お前、本当に武家か」
「たぶんそうだ」
「そこだけは曖昧なんだよなあ……」
だが、吉法師の理屈は雑でありながら、妙に核心を突いていた。必要なものが目の前にある以上、まずはやってみればいい。その乱暴さは職人にとって腹立たしくもあり、少し羨ましくもあった。
職人は、深々と息を吐いた。
「……一回だけだ」
利家がすぐに笑う。
「乗ったな」
「乗ってねえ。お前らを黙らせるためだ」
「同じだろ」
「違う」
「でもやるんでしょ」
小夜までそう言う。
職人は徳利を置いた。
「うるせえ。やるならやるで、口より手を動かせ」
その一言で、空気が変わった。
吉法師の顔がはっきり明るくなる。
利家は面白そうに腕まくりする。
小夜は「ほらやっぱり」と思いながらも、その場を離れない。
そして職人の方は、嫌そうな顔のまま、もう半分以上本気の顔になっていた。
「まず何をする」
吉法師が訊く。
「大きさを決める」
職人が答える。
「それも決めずに作れるか」
「図にはない」
「だから決めるんだよ」
職人は床に木片を置き、炭でざっと線を引いた。
「普通の弓より短くするか、長くするか」
「短い方が扱いやすい」
吉法師が即答する。
「力は落ちるぞ」
「連射が利くなら補えるかもしれぬ」
「かもしれぬ、か」
「今はそれでよい」
職人は少しだけ唸った。
「……悪くねえ」
利家が横から口を出す。
「で、俺は何すりゃいい」
吉法師がすぐに言う。
「木を運べ」
「それだけか」
「重いものはおぬしだ」
利家は笑った。
「いいねえ。分かりやすい」
「あと、そこの板もだ」
「おう」
利家はもう動いている。
こういう時、本当に早い。考えるより先に体が動く。吉法師が「持て」と言えば持つし、「運べ」と言えば運ぶ。しかも、重いことを頼まれるのが嫌いではない。
小夜は腕を組んだまま訊いた。
「私は?」
吉法師は振り向く。
「周りを見ろ」
「周り?」
「この工房に人が出入りすれば面倒だ。おぬしはそういうのを見るのがうまい」
小夜は少しだけ眉を上げた。
使われている。
しかも自然に。
だが、言い方が悪くなかったので怒る気にもなれない。
「……見張り役の使い方、分かってきたわね」
「当然だ」
「当然じゃないのよ」
そう言いながらも、小夜は工房の戸口へ移った。外の通りの気配、足音、視線。そういうものを拾う位置だ。
職人は吉法師を見た。
「お前は」
「図を見る」
「それだけか」
「それと考える」
「一番面倒な役だな」
「一番面白い役でもある」
その答えに、職人はもう言い返すのを諦めたらしい。
作業が始まった。
まずは木材選びだった。
職人が何本かの木を並べる。曲がり、しなり、重さ。吉法師は触りながら、それぞれの違いをすぐに口に出す。軽い、硬い、割れそう、これは歪む、と。正確かどうかはともかく、見て考える速度がやたら速い。
「こいつは駄目だ」
職人が一本を除ける。
「何故」
「木目が暴れてる」
「これは」
「重すぎる」
「これは」
「今度は柔らかすぎる」
利家が木材を抱えたまま笑う。
「ずっとそれやってられるな、お前ら」
「やってられる」
吉法師が即答する。
「俺は飽きる」
「おぬしは木を見るより振るう方だろう」
「当たり前だ」
職人は、そんなやり取りを聞きながら削り始めた。
しゃ、しゃ、と刃が木を走る。
削り屑が落ちる。
形が少しずつ見えてくる。
吉法師はその手元をじっと見ていた。
ただ完成を待つのではない。
どこをどう落としたか、どこを残したかを見ている。
「見すぎだ」
職人が言う。
「手元が気になる」
「そんなに見ても、急に削れるようにはならねえ」
「だが、どう考えて削るかは分かる」
職人が一瞬だけ手を止めた。
「……本当に変な若殿だな」
「よく言われる」
「知ってる」
今度は小夜が戸口から言った。
工房の中に、小さな笑いが落ちる。
やがて、簡単な枠組みができた。
普通の弓よりずっとごつい。
だが、弩と呼ぶにはまだ足りない。
木を組み、弦を張り、矢をどう重ねるかを考える段階だ。
吉法師は図と見比べる。
「ここへ、もう一段いる」
「何でだ」
職人が訊く。
「矢が落ちるだけでは早すぎる。止めが要る」
職人は組みかけた木組みを見直した。
「……そうか」
利家が口を挟む。
「何がそうなんだ」
「今のままだと、全部一度に落ちる」
小夜が言う。
利家が顔をしかめる。
「分かりづれえ」
「あなたは分からなくていいの。持って」
「ひでえな」
そう言いながら利家はちゃんと持つ。
夕方が近づくにつれて、工房の中の熱が変わっていった。
最初は吉法師の思いつきだった。
だが今は違う。
職人も本気で木を見ている。
小夜も外の気配を見ながら中のやり取りを聞いている。
利家も完全に乗っている。
「できるか」
吉法師が言う。
職人は手を止めずに答える。
「知らねえ」
「だが作っておる」
「作ってみなきゃ分からねえ」
それは、半ば降参で、半ば本気の言葉だった。
そして、日がだいぶ傾いた頃。
ようやく、最初の形ができた。
大きくはない。
粗い。
図にあるものと同じかどうかも怪しい。
だが、明らかに「普通の弓ではない」何かだ。
利家が目を丸くする。
「おお……」
小夜も少し身を乗り出した。
「それっぽい」
吉法師は、できあがった木組みを前にして、はっきり笑った。
「よし」
職人は肩を回しながら吐き捨てるように言う。
「まだだ。形になっただけだ」
「だが、できた」
「試すまではできたうちに入らねえ」
「では試す」
「そう急ぐな」
そう言いながらも、職人の顔にも少しだけ熱があった。
試作一号。
粗く、不格好で、まだ何ができるかも分からない。
だがたしかに、古い兵法書の図から生まれた最初の形が、今、尾張の小さな工房の中にあった。




