第63話 古びた兵法書
「……読めるの?」
小夜が半ば呆れたように言った。
吉法師は古びた冊子を膝の上へ広げたまま、顔も上げずに答える。
「少しはな」
「少しで読める顔じゃないけど」
「読めるところだけ読む」
「それ、だいたい全部読む人の言い方よ」
利家は二人のやり取りを聞きながら、工房の柱へ背を預けて腕を組んでいた。弓職人は徳利を片手に、面倒そうな顔でその様子を見ている。
吉法師が見つけたその冊子は、思っていた以上に古かった。
紙は茶色く、端はほつれ、ところどころ虫に食われている。綴じ糸もゆるみ、少し力を入れればばらけてしまいそうだ。だが中身はただの覚え書きではないらしい。走り書きのような字、写し取ったような図、唐土めいた名や兵法の言葉が混じっている。
工房の中は静かだった。
外の城下では相変わらず人の声がしているが、この部屋だけは別の時間のようだ。木の匂い、削り屑、酒の匂い。その真ん中で、吉法師だけが古い紙の中へ頭から潜り込んでいる。
「何て書いてあるんだ」
利家がついに我慢できずに訊いた。
吉法師は指先で文字をなぞりながら答える。
「唐土の兵法だ」
「ふーん」
「ふーん、で済ませるな」
「だって読めねえし」
「読めぬなら聞け」
「偉そうだな」
「偉いからな」
小夜が横からすぐ刺す。
「はいはい、出たわね」
だが吉法師は本気で聞いていない。
目がもう、次の行へ滑っている。
「これは……」
ぽつりとその声が変わった。
小夜がすぐに分かった。
危ない。
何か見つけた時の声だ。
「何」
「待て」
「その“待て”が一番待てないのよ」
利家も、兄弟喧嘩でも見物するような顔で少し身を乗り出す。
吉法師はページを一枚、そっとめくった。
そこには簡単な図があった。弓のようでいて、普通の弓とは少し違う。木組みがあり、矢を重ねるような記しがあり、横に細かな説明が走っている。
「諸葛孔明」
吉法師が、その名を口にした。
利家が首を傾げる。
「誰だ、それ」
「唐土の軍師だ」
小夜が先に答えた。
「聞いたことはある」
「おぬしも知っておるのか」
吉法師が少しだけ驚く。
「名前くらいはね。忍びはそういう話も拾うの」
利家はますます分かっていない顔をした。
「軍師って、強いのか?」
「腕っぷしの話ではない」
吉法師が言う。
「策を立て、兵を動かす頭だ」
「じゃあ俺向きじゃねえな」
「おぬしは分かりやすく前へ出すぎる」
「悪かったな」
その言い合いの最中にも、吉法師は文献から目を離さない。
「ここに書いてある……」
職人がようやく少しだけ体を起こした。
「読めるのか、本当に」
「全部ではない」
吉法師は正直に言う。
「だが、拾える」
「何を」
吉法師はその図を指差した。
「連弩だ」
「れん……何だって?」
利家が眉をひそめる。
小夜も目を細める。
弓職人だけが、酒の匂いをまとったまま少し真面目な顔になった。
「弩か」
「知っておるのか」
吉法師が振り向く。
「名前だけだ。唐土じゃ使うって話は聞いたことがある」
職人は徳利を脇へ置いた。
「弓みてえに引くんじゃなく、仕掛けで張るやつだろ」
「それだ」
吉法師の声が少し弾む。
「だがこれは、ただの弩ではない」
小夜が嫌そうな顔をする。
「その言い方、嫌な予感しかしない」
吉法師は構わず説明を始めた。
「ここに、矢を続けて送り出せる仕組みがある」
利家が顔をしかめる。
「続けて?」
「うむ」
「何本もか?」
「そうだ」
利家が一瞬だけ黙った。
それがどれほど妙なことかは、武芸の理屈が分からなくても察せられる。弓は一本ずつつがえるものだ。矢を取り、つがえ、引き、狙い、放つ。それが当たり前のはずなのに、「続けて撃つ」という話になると、一気に兵法めいてくる。
吉法師は文字を追いながら続ける。
「ここでは、機構を用いて矢を送り、連続して射る、とある」
「機構?」
職人が低く呟く。
「木組みか」
「おそらく」
吉法師は図を指でなぞった。
「弦を引く。矢が落ちる。放つ。次が来る」
利家が目を丸くする。
「そんなことできるのか」
小夜が腕を組んだ。
「できたら厄介ね」
「厄介ではない」
吉法師が言う。
「面白い」
「ほら出た」
小夜が即座に返す。
「面白いものは面白い」
「それで済まされる周りの身にもなってほしいわ」
職人はまだ半信半疑の顔だった。
「待てよ」
そう言って吉法師の手元を覗き込む。
「それ、本当にそんなことが書いてあるのか」
「ある」
「写し間違いじゃねえのか」
「分からぬ」
「分からねえのかよ」
利家が吹き出す。
「勢いだけで話進めるなよ」
「だが、図はある」
吉法師は強い口調で言った。
「そして、理屈は通っておる」
職人が図へ目を落とす。
酒臭い男だが、工房の中ではやはり職人だった。木組みをどうすれば動くか、どこに無理がかかるか、そういう目で絵を見る。
「……ふむ」
ほんの少しだけ、声が変わった。
小夜はそこを見逃さない。
「ちょっと」
職人が顔を上げる。
「何だ」
「今、少し本気になったでしょ」
「なってねえ」
「なってる顔してる」
利家が横から笑う。
「分かりやすいなおっさん」
「お前ら、揃いも揃ってうるせえな」
だが職人の視線は、また図へ戻っていた。
「矢を重ねるのか……」
「そうだ」
「一発の力は落ちるぞ」
「それはまだ分からぬ」
「木組みは面倒だ」
「面倒な方が面白い」
「お前が言うな」
吉法師はもう完全に興奮していた。
文字を追う。
図を見る。
途中でかすれて読めぬところは、前後の文脈から勝手に繋ぐ。
唐土の兵法。諸葛孔明。連弩。
ただの古い紙の束だったものが、今は新しい道具の設計図に見え始めている。
小夜はその横顔を見て、深々とため息をついた。
「嫌な予感しかしない」
「まだ言っておるのか」
吉法師が言う。
「だって絶対、変なこと始める顔だもの」
「変なことではない」
「この流れでそれ言う?」
利家は口元を吊り上げた。
「俺はちょっと見てみてえな」
「あなたはすぐそれに乗る」
「面白そうだろ」
「面白そう、で済まない時があるのよ」
「済ませる」
「だから何でそう強いのよ」
そのやり取りの横で、職人はようやく言った。
「仮にだ」
三人が揃ってそちらを見る。
「仮にそんなもんが作れたとして、何に使う」
吉法師は迷わなかった。
「戦だ」
工房の空気が少しだけ締まる。
利家は当然という顔をしている。
小夜は「やっぱりね」と言いたげに眉を寄せた。
職人は、徳利に伸ばしかけた手を止めた。
「矢を続けて放てるなら、戦の形が変わる」
吉法師の目は真っ直ぐだった。
「今は弓を一射ごとにつがえておる。だが、もしそれがもっと速く、もっと続けて撃てるなら――」
「待て」
職人が止める。
「お前、まだ作れてもいねえものを、もう戦にまで持ってく気か」
「当たり前だ」
吉法師はきっぱり言った。
「兵法書にあるということは、兵法なのだろう」
職人は深く息を吐いた。
「面倒な若殿だとは思ってたが、想像以上だな」
「褒め言葉だな」
「違う」
「だが気に入った」
「だから違うって言ってんだろ」
利家がにやにや笑う。
「もう作る気になってんじゃねえのか」
「なってねえ」
「なってる顔だ」
「お前まで同じこと言うな」
職人は嫌そうな顔をしながらも、図から目を離さなかった。
それが答えだった。
吉法師は、そこで冊子をぴたりと閉じた。
ぱさ、と乾いた音がする。
工房の三人が、その音に引かれるように吉法師を見る。
吉法師は弓職人をまっすぐ見た。
そして、きっぱりと言った。
「これを作れ」




