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第62話 職人の意地

「狭えから、頭ぶつけんなよ」


弓職人がそう言いながら引き戸を開けると、吉法師は真っ先に中へ入った。


小夜はその背を見て、小さく肩を落とす。

利家は「ほんと遠慮ねえな」と笑いながら続いた。


工房の中は、外から見たよりずっと広かった。

広いというより、奥へ長い。だが整っているとは言い難い。木材が壁に立てかけられ、削りかけの弓木が何本も無造作に積まれ、床の隅には折れた弓や外れた弦、羽根の束、金具、削り屑が散らばっている。鼻をくすぐるのは酒の匂いだけではない。乾いた木の匂い、膠の匂い、焦がした糸の匂いが混ざっていた。


吉法師は一歩入っただけで、目の色を変えた。


「ほう……!」


その声に、弓職人がいかにも嫌そうな顔をする。


「騒ぐな」


「面白い」


「褒めてねえよ」


だが、吉法師はもう職人の方など見ていなかった。

壁に立てかけられた弓を見て、床へ転がる破片を見て、途中まで削られた木材を見て、次から次へと視線を走らせている。


「おい」


利家が近くの折れた弓をつまみ上げる。


「これ、全部失敗か」


「半分は失敗、半分は使い潰しだ」


職人は徳利を脇へ置きながら答えた。


「使い潰し?」


小夜が訊く。


「限界まで使って、どこで死ぬかを見る」


その返しに、小夜は少しだけ目を細めた。


適当に物を作っている人間の言葉ではない。


職人は工房の奥へ進み、片づけるでもなく腰を下ろした。

その姿は相変わらずだらしない。だが、自分の場所に戻った途端、空気が少し変わった。通りの真ん中に座り込んでいた酔っ払いではなく、道具の真ん中にいる職人の顔になっている。


吉法師は、削りかけの弓木を一本手に取った。


「これは何故こうなる」


「勝手に触るな」


「聞いておる」


職人はめんどくさそうに頭を掻く。


「そいつは木目が悪い。反るつもりが、途中でねじれた」


「木にも癖があるのか」


「ある」


「人と同じだな」


「木を人と一緒にするな」


「でも似ておる」


「お前、何でもすぐそう言うのな」


吉法師は聞いていない。


次は壁の隅に立てかけられた二張りの弓を見る。片方は細身で、もう片方はひどく分厚い。


「これは」


「軽い矢用」


「こっちは」


「重い矢用」


「全部違うのか」


「同じで済むなら楽なんだがな」


職人はそう言って、ようやく少しだけ立ち上がった。


一本を手に取る。

軽くしならせる。

その動きは、酒臭いのに妙に丁寧だ。


「弓ってのは、ただ曲がってりゃいいわけじゃねえ」


吉法師が顔を上げる。


「飛べばいいわけでもねえ。どの矢を、どの腕で、どの距離へ飛ばすか。そこまで考えねえと、木はすぐへそ曲げる」


その言い方に、利家が吹き出した。


「木がへそ曲げるって何だよ」


「あるんだよ」


職人は真顔で言う。


「木は黙ってる分、人より面倒だ」


小夜が横でくすっと笑った。


「ちょっと分かる」


「分かるのか」


「あなたも木に文句言ってそうだもの」


「言うさ。文句も言うし、褒めもする」


職人はさらりと言った。


そこに嘘はなかった。


吉法師は、ますます面白そうな顔になる。


「よいな」


「何がだ」


「おぬし、物にちゃんと向き合っておる」


その言葉に、職人は少しだけ黙った。


たいていの武士は、弓を武器としか見ない。

飛ぶか飛ばぬか。

当たるか当たらぬか。

折れたなら直せ。

それで終わりだ。


だが吉法師は違う。

完成した弓より、そこへ至る途中の木や失敗作にばかり目を向ける。

それが職人には少し妙で、少し気味が悪かった。


「お前、本当に武家か」


職人がまた訊く。


「たぶんそうだ」


利家がすぐ横から笑う。


「こいつ、そこだけは絶対はっきり言わねえんだ」


「言う必要が薄いからな」


小夜が呆れたように言う。


「言う必要が薄いって何よ」


「今ここで、わしが誰かより、これがどう作られるかの方が大事だ」


その返しに、職人はふっと鼻で笑った。


「……変な若殿だ」


小夜がすぐに反応する。


「若殿って言った」


「言ったな」


利家もにやにやしている。


職人は面倒そうに手を振った。


「見りゃ分かる。町人の餓鬼じゃねえ」


「なら最初から礼を取れ」


吉法師が言うと、職人はきっぱり返した。


「嫌だ」


「何故だ」


「武士は嫌いだからだ」


工房の空気が少しだけ止まる。


だが吉法師は気分を悪くした様子もなく、むしろ興味深そうに首を傾げた。


「何故」


職人は壁にもたれ、腕を組んだ。


「結果だけ欲しがる」


その一言に、利家がむっとする。


「何だと」


「弓を持ってきて、“飛ばねえ”“当たらねえ”“すぐ折れた”。言うのはそればっかりだ」


職人の声は低い。

怒鳴ってはいない。

だが、長年溜めた苦さがそのまま沈んでいた。


「どの木を選んだか、どう削ったか、どこで無理がかかったか、誰も見ねえ。使う時だけ偉そうで、壊れたら職人のせいだ」


利家が口を開きかける。

だが吉法師の方が早かった。


「それはつまらぬな」


職人が少し目を細めた。


「つまらぬ、で済む話じゃねえ」


「だがつまらぬ」


吉法師は工房を見回した。


「こんなに面白いものが並んでおるのに、飛ぶか飛ばぬかだけで済ませるのは惜しい」


その言い方に、職人はしばらく黙った。


小夜はその横顔を見ていた。

この弓職人は、武士嫌いと言いながら、心の底から憎んでいるわけではない。諦めているのだ。どうせ分かるまい、どうせ見ようともしないのだろう、と。


そこへ吉法師が、結果より途中に食いついている。

それが少しだけ、職人の想定を外したのだろう。


利家はまだ半分納得していない顔だったが、自分の弓のことを言い当てられた後では強く言い返しにくいらしい。


「でもよ」


利家が言う。


「戦で使うんだから、結果が一番大事なのは本当だろ」


「当たり前だ」


職人は即答した。


「だからこそ、作る方は途中を知らなきゃならねえんだ」


その返しには、今度は利家も黙った。


吉法師は、床に転がっていた細かな部品を拾い上げた。

弓の端につける金具か、弦を受けるための小さな部材か。壊れたのだろう、端が欠けている。


「これも失敗か」


「失敗だ」


「何故」


「小さすぎた。強く引くと割れる」


「なら大きくすればよい」


「重くなる」


「重いとどうなる」


「全体が鈍くなる」


「なるほど」


話が止まらない。


小夜がため息をついた。


「また始まった」


「面白えじゃねえか」


今度は利家が言う。


「何がどう壊れるかまで考えてんだろ、このおっさん」


「おっさん言うな」


「酔っ払い」


「お前にだけは言われたくねえ」


利家が笑う。


「言い返す元気はあるんだな」


「お前らがうるせえからだ」


そんな言い合いのあいだも、吉法師だけは黙々と工房の中を見ていた。


失敗した弓。

途中で折れた木。

巻き替えられる前の古い弦。

完成品より、そういうものの方が面白い。


「完成したものは、答えだ」


吉法師がぽつりと言う。


職人が眉をひそめる。


「何だ急に」


「だが、失敗したものは、その前の道が見える」


工房の空気が、また少しだけ変わる。


職人は吉法師を見た。

この若殿、本当に武家なのか。

いや武家なのだろうが、武家らしくないところへばかり目が向く。


「お前」


職人が低く言う。


「本当に変だな」


吉法師は笑った。


「よく言われる」


小夜と利家が、ほぼ同時に「知ってる」と顔に書いた。


その時だった。


工房の片隅、古びた棚の下に押し込まれた紙束へ、吉法師の目が止まった。


他の木材や部品と違い、それだけが少しだけ場違いだった。

巻物ではなく、綴じのゆるんだ古い冊子。

端は茶色くなり、ところどころ虫食いもある。


「それは何だ」


吉法師が屈んで手を伸ばす。


職人が「あ」と小さく声を漏らしたが、止めるには遅かった。


吉法師はその古びた文献を引き出した。

表紙は擦れて文字が薄い。

だが中には、唐土めいた図と、兵法らしい記しがある。


吉法師の目が変わる。


「……これは」


小夜が嫌な予感のする顔になる。


利家が覗き込む。


職人は頭を掻いた。


「昔、流れてきた雑書だ。兵法書だか何だか知らねえ。読める奴もいねえから、放ってある」


だが吉法師は、もうその文献しか見ていなかった。


工房の空気が、またひとつ別の面倒ごとへ傾く気配があった。

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