第61話 酔っ払い弓職人
「酒臭い」
小夜が顔をしかめたのは、角を曲がった瞬間だった。
城下の昼は明るい。
荷を担ぐ男たちが行き交い、魚屋は声を張り、団子屋の煙がゆるく流れている。そんな賑わいの中で、その一角だけ妙に人が避けていた。通りの真ん中に男がひとり、でろりと座り込んでいたからだ。
しかも、かなり堂々と。
片膝を投げ出し、手には酒の入った徳利。脇には弓が二張りと、削りかけの木材、それに道具袋が転がっている。髪はぼさぼさ、着物の襟元もだらしなく、顔つきは眠そうだ。どう見ても、昼から飲んだくれて動けなくなった男である。
利家が顔をしかめた。
「何だあれ」
「酔っ払い」
小夜が即答する。
「見れば分かる」
吉法師は目を細めた。
「ただの酔っ払いではなさそうだ」
小夜が横目で睨む。
「また始まった」
「何がだ」
「あなたの“面白そう”って顔」
利家が鼻を鳴らした。
「俺にはただの飲んだくれにしか見えねえよ」
その時だった。
道の端で若い男が、困った顔で壊れた弓を抱えているのが目に入った。弦が外れ、弓の上の方がわずかに歪んでいる。男は通りの店を何軒か見て回っていたらしいが、うまくいかなかったのか、その場で途方に暮れていた。
すると、座り込んでいた酔っ払いが、顔も上げずに言った。
「それ、右へ引きすぎたな」
若い男がぎょっとして振り向く。
「は?」
酔っ払いは徳利を口に運んだまま続けた。
「弦が悪いんじゃねえ。お前の癖だ。右手に力が入りすぎて、毎回同じところへ無理がかかってる」
男は目を瞬いた。
「な、何で分かるんだ」
「見りゃ分かる」
その言い方が妙に腹立たしいほど自然だった。
酔っ払いはようやく弓の方へ目をやった。眠そうな目つきだったのに、その一瞬だけ光が変わる。
「握りも悪い。手が汗ばんで滑ってんだろ。布巻き替えろ。あと、そこ、木が少し死にかけてる」
若い男は半信半疑の顔で弓を差し出した。
「お、おっさん……分かるのか」
「おっさん言うな」
酔っ払いは弓を受け取ると、指で弓なりを撫で、ほんの少しだけしならせた。ぐ、と木が鳴る。その音を聞いた瞬間、酔っ払いは鼻で笑った。
「ほら見ろ。こいつはまだ使える」
「本当か!?」
「ただし、お前がそのまま使えばまた壊す」
「ええ……」
「腕が悪いんだから仕方ねえ」
あまりにも遠慮のない言い方に、小夜が少しだけ口元を上げた。
「……腕はある」
利家が「はあ?」という顔で振り向く。
「今の見てもそう思う?」
「思うわよ。少なくともただの酔っ払いじゃない」
吉法師は、すでにその男しか見ていなかった。
「面白い」
利家が呆れる。
「だからお前は何でも面白がるな」
「面白いものは面白い」
男は若い客へ弓を返した。
「三日後に持ってこい。削り直してやる」
「い、今は?」
「飲んでる」
「いや、でも……」
「飲んでる」
それで押し切るあたりが、やはり変人だった。
若い男は困り切った顔をしたが、それでも弓を抱えて何度も頭を下げた。どうやらこの男が腕のある職人であることは、城下ではそこそこ知られているらしい。
吉法師が前へ出る。
「おぬし、弓職人か」
酔っ払いは徳利を傾けたまま、ちらりと見上げた。
「見りゃ分かる」
「そればかりだな」
「分かることを聞く奴が多いんだよ」
利家が腕を組む。
「生意気なおっさんだな」
「酔ってる職人に礼を求める方が間違ってる」
小夜がそこで小さく笑う。
吉法師は気にした様子もなく、その場にしゃがみ込んだ。酔っ払いのすぐ脇には、削りかけの弓木、弦巻き、羽根、細かな刃物が雑然と置かれている。雑然としているが、使い込まれ方に迷いがない。
「これは何だ」
吉法師が木材を指さす。
「イヌマキ」
「それは」
「弓にする木だ」
「これは」
「失敗したやつ」
「それは」
「お前、いちいち全部聞くのか」
「気になるからな」
酔っ払いは、そこでようやく少しだけ目を細めた。
「変な若造だな」
「よく言われる」
その返しを聞いて、小夜と利家が同時に「だろうな」と顔に書いた。
弓職人は少し体を起こし、吉法師を改めて見た。
上等な着物。
顔立ちはまだ若い。
だが、ただの物好き坊ちゃんではない。
目がうるさい。
弓そのものより、作り方や壊れ方の方へ興味が向いている目だ。
「お前、武家か」
職人が訊く。
「たぶんそうだ」
吉法師が答える。
利家が吹き出す。
「何だその答え」
小夜も呆れた。
「そこはちゃんと言いなさいよ」
「今さらだろう」
職人は鼻で笑った。
「武家は嫌いだ」
「何故だ」
「結果だけ欲しがる」
そう言って徳利を振る。
「弓を持って来て、“飛ばぬ”“当たらぬ”“折れた”って言う。だが、どう削ったか、どこが歪んだか、何が悪かったかを聞く奴はほとんどいねえ」
吉法師は少しだけ目を輝かせた。
「そこだ」
「何が」
「面白いところだ」
職人が露骨に嫌そうな顔をした。
「面倒な餓鬼だな」
「気に入ったか」
「気に入ってねえよ」
「でも少し喋った」
「酔ってるからだ」
小夜が小さく呟く。
「酔ってなくても喋る顔してるけど」
利家はまだ半信半疑らしく、男を見下ろしたままだった。
「で、こいつ本当に腕あるのか」
「あるわ」
小夜が先に答える。
「さっきの弓、一目で癖まで見抜いたじゃない」
「見抜いたかどうか、まだ分かんねえだろ」
「利家」
吉法師が言う。
「おぬし、弓は使うか」
「少しはな」
「なら見てもらえ」
利家は少し考えたあと、背の矢筒から弓を外した。戦場用というほどではないが、若武者が普段持つには悪くない作りだ。職人は受け取ると、今度は最初から少し真面目な顔になる。
「……握りが合ってねえな」
利家が眉をひそめる。
「何だと」
「手ぇでかいくせに、その巻きじゃ細い。指が余るから無駄に力が入る。お前、近いとこならまだいいが、遠く狙うと右へ流れるだろ」
利家が黙った。
図星らしい。
小夜がにやっとする。
「へえ」
「何だその顔は」
「当たってるのね」
「うるせえ」
職人はさらに弓を返しながら言う。
「弦も替え時だ。湿気食ってる」
利家はようやく本気で相手を見た。
「……おっさん、何者だ」
「酔っ払いの弓職人だ」
「そのまんまじゃねえか」
「そのまんまだ」
吉法師はもう完全に食いついていた。
「工房はどこだ」
職人が嫌そうに目を細める。
「何で教えなきゃならねえ」
「見たい」
「何を」
「弓ができるところ」
「帰れ」
「何故だ」
「面倒だからだ」
「わしは面倒ではない」
「お前みたいなのが一番面倒なんだよ」
小夜が腕を組んだ。
「それは正しい」
「おぬしはどちらの味方だ」
「正しい方」
利家は利家で、さっきの弓の指摘が効いているらしく、少しだけ興味が出てきた顔をしている。
「工房、見せろよ」
「お前まで来るのか」
「俺の弓のことも聞きてえ」
「さっきまで飲んだくれ扱いしてたくせに」
「腕あるなら別だ」
あまりにも利家らしい理屈だった。
職人は大きくため息をついた。
だが、そのため息の奥に、少しだけ諦めの気配がある。
押し切られ慣れているのか、あるいはこういう変な若いのに絡まれるのが嫌いではないのか。
「……工房は裏道の先だ」
吉法師の顔がぱっと明るくなる。
「行くぞ」
「何でお前が先に決める!」
「教えたのはおぬしだ」
「教えただけだ!」
「なら押しかける」
「最初からその気だろ!」
小夜が深く息を吐いた。
「ほんとに押しかけるのね」
「うむ」
「私は見張り役なのに……」
「なら一緒だ」
「最近それ多いわね」
利家が笑う。
「いいじゃねえか。面白そうだ」
「あなたはすぐそれに乗る」
「面白えんだから仕方ねえだろ」
吉法師はもう立ち上がっている。
小夜は呆れながらも離れない。
利家は半ば本気で自分の弓を見直したそうな顔だ。
そして弓職人は、徳利を抱えたまま「なんでこうなる」と顔に書いている。
だがもう流れは決まっていた。
変人だが腕は確か。
酒臭いが、只者ではない。
そして吉法師が食いついた以上、放ってはおかれない。
城下の人波の中で、その妙な四人組は裏道の方へ歩き始めた。
新しい面倒ごとと、新しい面白さの匂いを連れて。




