第5話 父・織田信秀
那古野城の奥――
本丸の一角にある広間は、城の他の場所とは少し空気が違っていた。
壁には槍や弓が立て掛けられ、畳の隅には鎧櫃が置かれている。
磨き上げられた鎧の黒漆が、障子越しの光を受けて鈍く光っていた。
この部屋の主は、戦の匂いをまとっている。
その男こそ――
織田信秀である。
尾張を治める戦国大名。
まだ壮年だが、体格は大きく、肩幅も広い。
腕も太く、戦場で鍛えられた身体は武士というより武将の風格を持っていた。
豪快な顔立ち。
鋭い目。
口元にはいつも、どこか余裕のある笑みが浮かんでいる。
信秀は畳にどっかりと座り、酒盃を傾けていた。
「で?」
低い声で言う。
「今日は何をやった」
広間の下座に座っているのは、平手政秀だった。
いつも冷静な平手だが、今日は少し疲れている。
「……城を抜け出しました」
信秀は盃を止めた。
「ほう」
「城下町で団子を食べておりました」
一瞬の沈黙。
そして。
信秀は声を上げて笑った。
「ははは!」
広間に豪快な笑いが響く。
「団子か!」
平手は頭を下げた。
「申し訳ございませぬ」
「いやいや」
信秀は手を振る。
「謝ることでもあるまい」
そして酒を飲みながら言う。
「まだ子供だ」
平手は慎重に言葉を選んだ。
「しかし……町人と親しく話していたそうです」
「そうか」
「殿の嫡男としては……」
信秀はふっと笑う。
「殿様らしくない、か」
平手は黙った。
それを見て、信秀は盃を畳に置いた。
「平手」
「は」
「おぬしはどう思う」
平手は少し考えた。
「……奇妙な子です」
「そうだろう」
信秀は笑う。
「わしもそう思う」
しかしその目は、どこか楽しそうだった。
平手は続ける。
「城を抜け出す、町人と話す、魚の値段で口論、団子を食べる、どれも武士の嫡男とは思えませぬ」
信秀は腕を組んだ。
「だが?」
平手は少しだけ顔を上げた。
「戦の話をするときの目」
信秀の目が細くなる。
「ほう」
「まるで武将のようです」
平手は続けた。
「戦場を見たときも、怖がりませぬでした」
信秀は思い出していた。
あの日のことを。
初めて戦場を見せた日。
普通の子供なら、泣く。
血。
死体。
戦の臭い。
だが吉法師は違った。
ただ――
見ていた。
そして言ったのだ。
「なぜあの軍は負けた」
信秀は小さく笑った。
「平手」
「は」
「わしはな」
少し間を置く。
「面白いと思っている」
平手が顔を上げる。
信秀は言った。
「武士らしい武士など、いくらでもおる」
「だが」
「変な武士は少ない」
そして笑った。
「戦国は変わり者の方が生き残る」
平手は黙った。
信秀は酒をもう一口飲む。
「それに」
ぽつりと言う。
「勘十郎は真面目すぎる」
平手はうなずいた。
信行――いや、勘十郎。
礼儀正しく、家臣の評判も良い。
だが。
信秀は笑った。
「戦国で真面目な男は、たいてい早く死ぬ」
平手は少し困った顔をした。
「それは……」
信秀は立ち上がった。
背が高く、広間が少し狭く見える。
「吉法師はどうだ」
平手は答える。
「自由すぎます」
信秀は笑う。
「それがよい」
そして言った。
「尾張のうつけ」
その言葉には、どこか誇らしさがあった。
そのときだった。
廊下の外から声が聞こえた。
「団子もう一本!」
平手が顔を覆う。
信秀は吹き出した。
「おい」
「は」
「呼んでこい」
「は?」
信秀は言った。
「団子を持ってな」
平手は目を閉じた。
「……殿」
「なんだ」
「甘やかしすぎです」
信秀は豪快に笑った。
那古野城の広間に、戦国大名の笑い声が響いていた。




