第60話 信秀の咳
夜は静かだった。
昼の那古野城は人の声で満ちているが、夜になるとそれらはひとつずつ奥へ引っ込み、残るのは風の音と、遠くで見張りの足軽が槍の石突きを鳴らす音くらいになる。信秀の部屋もまた、今は静けさの中にあった。
燭台の火が小さく揺れている。
寝所には薬湯の匂いが薄く残り、几帳の影が壁へ長く落ちていた。
「もうよい」
信秀がそう言うと、そばに控えていた小姓はすぐに膝をついた。
「ですが、殿」
「よいと言うた」
声音は低いが、弱くはない。
病の気配はたしかにある。顔色も良いとは言えない。だが声にだけは、まだ戦場で人を従わせてきた男の芯が残っていた。
小姓は頭を下げた。
「は……」
湯飲みを下げ、薬の椀を脇へ寄せる。
戸の方へ下がりながらも、少し気がかりそうに振り返る。最近の信秀は、咳が深い。昼間は隠せても、夜になると抑えきれぬ時がある。それを小姓も知っていた。
「誰も入れるな」
信秀が言う。
「今夜は一人でよい」
「承知いたしました」
小姓はそう答え、静かに障子を閉めた。
部屋に残るのは、信秀ひとり。
しばらくは何も起きなかった。
ただ火が揺れ、風が障子をかすかに鳴らす。
信秀は座したまま、ゆっくり息をついた。
手を膝へ置く。
その手はまだ大きい。
刀を振り、馬を駆り、何人もの家臣を率いてきた手だ。
だが今は、その指先にわずかな力の抜けがある。
「……まだか」
誰にともなく、そう呟く。
何がまだなのか、自分でもはっきり言葉にはしていない。
吉法師か。
勘十郎か。
尾張か。
それとも、自分の体が尽きる時か。
その考えの途中で、咳が来た。
最初は小さく、喉を払うようなものだった。
「ごほっ……」
すぐ収まるかと思われた。
だが次の瞬間、胸の奥から重いものがせり上がる。
「ごほっ、が……っ、ごほっ!」
強い。
今までより明らかに強い。
信秀は片手で口元を押さえ、もう片方の手を畳へついた。呼吸を整えようとしても、咳がさらに深くなる。肺そのものが裏返るのではないかと思うほどの重さだった。
「っ……!」
背が揺れる。
燭台の火まで一緒に震える。
障子の外で控えていた小姓は、さすがにその音を聞き逃せなかった。
「殿?」
声をかける。
返事はない。
代わりに、さらに重い咳。
「ごほっ! ごほっ……!」
小姓は青ざめた。
入るなと言われた。
だが、今の音はただ事ではない。
一瞬ためらい、それでもついに障子を細く開けた。
「失礼いたします――」
その先の光景に、小姓は凍りついた。
信秀の手が、口元を押さえたまま止まっている。
その指の隙間から、赤いものが畳へ落ちていた。
血だった。
ぽたり、ともう一滴落ちる。
小姓の喉がひゅっと鳴る。
「……殿」
声が裏返った。
信秀はゆっくり顔を上げた。
口元の血を袖でぬぐう。
その動きに慌てはなかった。
むしろ、見られたことの方を面倒だと思っているような顔だった。
「騒ぐな」
低く言う。
小姓は返事もできない。
目の前の赤に、頭が追いついていないのだ。
「聞こえなかったか」
信秀がもう一度言う。
「騒ぐな」
その言葉で、ようやく小姓ははっとしたように膝をついた。
「は、はっ……!」
声は震えていた。
信秀は立ち上がろうとはしなかった。
ただ袖の血をもう一度確かめるように見て、それから無造作に脇へ寄せる。
「平手を呼べ」
「……!」
その名を聞いた瞬間、小姓の顔色がさらに変わった。
平手政秀。
それはつまり、ただの医者や女中では済まぬということだ。
家のことを考える男を呼ぶという意味なのだから。
「今すぐ」
信秀が言う。
「よけいな口は利くな」
「はっ……!」
小姓はほとんど転がるように部屋を出た。
廊下へ出た途端、膝から力が抜けそうになる。
だが座り込んでいる暇はない。
走る。
行灯の灯りが揺れ、角を曲がるたびに足音が響く。
「平手様! 平手様!」
夜の城に、その焦った声が刺さった。
政秀が呼ばれたのは、ほどなくしてだった。
寝所から引きずり出された政秀は、最初こそ怪訝な顔をしていたが、小姓の顔色を見た瞬間に何かを悟ったらしい。問いただす声も低くなる。
「どうした」
小姓は言葉を選べなかった。
「殿が……その……」
「はっきり申せ」
「血を……」
その一言で、政秀の表情が固まった。
何を見たのか。
どれほどか。
いつからか。
聞くべきことは山ほどある。
だが今はそれを廊下で確認している時間も惜しい。
「誰が見た」
「わ、私だけにございます」
「他には」
「まだ……まだ誰も」
政秀は深く息を吸った。
「よろしい」
その声には、自分へ言い聞かせる響きもあった。
「声を抑えよ。走るな。顔を作れ」
小姓は震えながら頷く。
だが、その顔はどう見ても作れていない。
政秀はそれ以上責めなかった。責めても無駄だと分かっている。
信秀の部屋へ入ると、空気は思った以上に静かだった。
血の匂いはまだ濃くない。
だが畳の上に置かれた布の端と、信秀の袖に残る色だけで十分だった。
「……殿」
政秀が膝をつく。
信秀は、いつものようにこちらを見た。
顔色は悪い。
だが、動揺はほとんどない。
「見たか」
「はい」
「大げさな顔をするな」
政秀は一瞬だけ言葉を失った。
この男は、今この時になってもまだそう言うのか、と。
だがそれが織田信秀なのだとも、政秀は知っていた。
「医師を」
「呼べ」
信秀は短く言った。
「だが騒がせるな」
政秀は目を伏せた。
騒がせるな、で済む段階を越えつつある。
それはもう見れば分かる。
分かるが、ここで「無理です」と返せる相手でもない。
「承知いたしました」
政秀はそう答えるしかなかった。
信秀は少しだけ息を整え、それから低く言う。
「表向きには、咳が強まった程度でよい」
政秀は顔を上げた。
「殿」
「まだだ」
信秀の目が細くなる。
「今、城中を騒がせるな」
その“まだ”が何を指すのか、政秀には痛いほど分かった。
吉法師。
勘十郎。
家中の揺れ。
どれもまだ、表へ出すには早い。
信秀はそう言っているのだ。
政秀は、胸の奥がひどく冷えていくのを感じた。
「……は」
それでも、答えはそれしかない。
その夜、医師はひそかに呼ばれた。
女中たちは目を合わせる回数が増えた。
小姓たちは妙に足音を忍ばせるようになった。
奥向きでは、何も言わぬまま空気だけが張りつめた。
誰も口にはしない。
「血」とは言わない。
「重い」とも言わない。
だが、人の顔色と、薬湯の量と、夜更けの出入りだけで、分かる者には分かる。
翌朝にはもう、城の空気が少し変わっていた。
女中たちの囁きは短くなる。
家臣たちの目は、信秀の部屋の方角を避けるようでいて、気づけばそちらへ向いている。
平手政秀の歩く速度も、昨日までとは違った。
表向きには何も起きていない。
そういうことになっている。
それでも、皆が分かっている。
もう噂では済まぬ。
家督の話は、遠い先の仮の話ではない。
近い未来の現実として、ひたひたと城の中へ入り始めている。
まだ誰も口にはしない。
だが、皆が“その時”を意識し始めていた。




