第59話 兄弟
「……兄上?」
不意にそう呼ばれて、吉法師は振り向いた。
廊下の向こうから、勘十郎が歩いてくる。昼の光がまだ庭へ薄く差していて、障子の桟の影が板の上へ細く落ちていた。吉法師はちょうど稽古帰りだった。肩にはまだ鈍い痛みが残っているし、袖の下には打ち身の熱もある。だが顔つきは悪くない。むしろ少し機嫌が良さそうですらあった。
勘十郎は、近づくにつれてその様子に気づいたらしい。
「……また無茶を」
苦笑まじりにそう言う。
吉法師は鼻を鳴らした。
「無茶ではない」
「その頬で?」
勘十郎が少しだけ首を傾ける。
吉法師は反射で頬へ手をやった。確かに、まだ少し腫れが残っている。槍の稽古だけではない。町での喧嘩の名残も、完全には消えていなかった。
「槍だ」
少しだけ誇らしげに言うと、勘十郎は目を細めた。
「森殿の?」
「うむ」
「それは……」
勘十郎は笑いをこらえるような顔になった。
「痛そうですね」
「痛い」
吉法師はあっさり認めた。
その即答が可笑しかったのか、勘十郎はとうとう小さく笑った。
兄がこうして素直に言うのは珍しい。負けたとか痛いとか、思ったより隠さないところが兄らしいとも言えた。
「ですが、少し嬉しそうです」
「面白いからな」
吉法師が言う。
「森可成は、あれで容赦がない」
「それは見ていても分かります」
「だが、分かることがある」
勘十郎はそこで兄の顔を見た。
城の中では、吉法師はいつもどこか外を見ている。じっと一つのことに熱を入れているようでいて、次の瞬間には別の方へ飛ぶ。そういう危うさがある。けれど今の兄は、ちゃんと今この話の中にいるように見えた。
「槍が、ですか」
「槍だけではない」
吉法師は廊下の向こう、庭の方をちらりと見た。
「相手を見ることだ」
その一言に、勘十郎は少し黙った。
相手を見る。
兄らしい言葉でもあり、兄らしくない言葉でもあった。
昔の兄なら、強い、面白い、勝ちたい、で終わったかもしれない。だが最近は、それだけではないらしい。
「兄上は」
勘十郎が静かに言う。
「いろいろなものを、見に行かれますね」
吉法師は少しだけ眉を上げた。
「そうか」
「はい」
勘十郎は苦笑した。
「城の中にいるだけでは足りない、というお顔をされています」
その言い方に、吉法師は少しだけ笑う。
「おぬしは、わしの顔をよく見るな」
「兄上が分かりやすい時もあります」
「それは失礼な」
「本当です」
二人の間に、小さく笑いが落ちる。
まだ普通に話せる。
まだ、こうして兄弟の顔で向き合える。
そのことが、かえって少しだけ胸へ沁みるような静けさだった。
勘十郎は、そこでふと視線を落とした。
「……私は、兄上ほど外へは出られませぬ」
吉法師が目を向ける。
勘十郎は廊下の柱へ軽く手を添えたまま続ける。
「人と話すのは嫌いではありませぬ。ですが、兄上のように……その、何も構わず飛び込んでいくことはできません」
その言葉に悪意はなかった。
ただ本音だった。
吉法師もそれは分かった。
「おぬしは、おぬしだ」
「そうでしょうか」
「そうだ」
吉法師は迷わず言う。
「おぬしがわしのように動けば、余計に気味が悪い」
勘十郎が吹き出した。
「ひどい言い方です」
「本当のことだ」
「兄上にだけは言われたくありませぬ」
そう言い返す声に、わずかな安堵が混じる。
勘十郎は、兄のこういうところが好きだった。
無遠慮で、乱暴で、時に人を怒らせる。だが、少なくとも兄の言葉には裏がない。そこへ甘えたくなる時もある。
吉法師もまた、勘十郎の整いすぎた立ち居振る舞いに時々妙な違和感を覚えながら、それでも嫌いではなかった。弟は礼を知り、人に好かれ、場を丸く収める。それは自分にはないものだ。少し窮屈そうにも見えるが、あれはあれで大した才だと、吉法師は思っている。
「だが」
吉法師が少しだけ真顔になる。
「おぬしは、あまり整いすぎる」
勘十郎が目を瞬いた。
「整いすぎる、ですか」
「うむ。皆に合わせすぎる」
それは責める言い方ではなかった。
ただ、見たままを言っているだけだった。
勘十郎は少し考え、それから苦笑する。
「兄上には、そう見えるのでしょうね」
「見える」
「でも、皆に合わせねばならぬ時もあります」
「それは分かる」
「兄上には?」
「分からぬわけではない」
吉法師は言った。
「だが、わしは面倒だ」
そのあまりに吉法師らしい言い方に、勘十郎はまた笑った。
「兄上らしい」
「何だ、それは」
「褒めております」
「そうは聞こえぬ」
「では、半分だけ褒めております」
そんなやり取りを交わしながら、二人はしばらく廊下に並んで立っていた。
風が庭を渡る。
白砂の上を松の影が揺れる。
静かな時間だった。
けれど、その静けさの向こうには、もう別の気配もあった。
廊下の角の向こう。
少し離れたところに、家臣が二人、何気ないふりで立っている。
こちらを見ているわけではない。
見ているわけではないが、兄弟がこうして話していることをちゃんと意識している。
その空気がある。
勘十郎も、吉法師も、そこには気づいていた。
だが二人とも、あえてそちらを見ない。
「兄上」
勘十郎が静かに言う。
「何だ」
「……森殿の稽古、あまりご無理はなさらぬよう」
吉法師は少しだけ笑った。
「おぬしは心配性だ」
「兄上が心配をかけるのです」
「そうかもしれぬ」
「そうです」
その返しがあまりにも即座で、吉法師は声を立てて笑った。
勘十郎も少しだけ笑う。
それで会話は終わった。
終わったが、嫌な終わり方ではない。
どこにでもある兄弟のやり取りのように見える。
それが、逆に少しだけ胸へ引っかかった。
まだ壊れていない。
まだ、こうして話せる。
冗談も言える。
気遣いも返せる。
だからこそ、この先にもしそれが壊れる時が来るなら、きっと余計に痛い。
勘十郎は先に一礼して去っていった。
吉法師はその背を見送り、少しだけ鼻を鳴らした。
「本当に心配性だな」
誰にともなくそう呟く。
だがその声には、嫌な響きはなかった。
廊下の向こうでは、さっきの家臣たちがもう姿を消していた。
それでも、その視線の名残だけは薄く残っている気がする。
兄弟はまだ兄弟だ。
けれど周りは、もうただの兄弟としてだけは見ていない。
庭の風は静かだった。
その静けさが、かえって不穏を際立たせるようでもあった。




