表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

57/67

第58話 勘十郎の孤独

「……兄上のことを、どう思っておられるのです」


勘十郎がそう口にした時、部屋の中には香の匂いが静かに漂っていた。


母の部屋は、いつ来ても整いすぎている。

几帳の垂れ方、文箱の置かれ方、灯りの明るさまで、少しも乱れていない。そういう場所にいると、自分まできちんと座らねばならぬ気になる。勘十郎は背筋を伸ばしたまま、膝の上で指を重ねた。


母はすぐには答えなかった。


細い指で扇の端をなぞり、一度だけ息を整えてから、ようやく口を開く。


「どう、とは」


「家中の者どもは、兄上を見る時と私を見る時で、顔が違います」


勘十郎は、自分でも驚くほどはっきり言った。


ずっと胸に引っかかっていたことだった。

言葉にしないまま飲み込んでいたが、いったん口を開けば、思っていたよりするすると出てくる。


「兄上には……警戒するような、測るような顔をします。ですが私には、安心したような顔をする」


母は静かに勘十郎を見ていた。


「それが、嫌なのですか」


勘十郎は少しだけ黙った。


嫌、と言い切ってしまうのも違う気がした。

嬉しいわけではない。

だが、まったく何も感じないわけでもない。


「……分かりませぬ」


正直にそう言うと、母は小さく頷いた。


勘十郎は続ける。


「私は兄上を嫌っておりませぬ」


その言葉には迷いがなかった。


「兄上は、確かに変わっておられます。言葉も強く、急に城を抜け出し、周りを困らせることも多い」


そこまで言って、少しだけ口元が緩む。


「ですが……誰にも媚びませぬ。思ったことをそのまま言われる。皆が顔色を見て口をつぐむような時でも、兄上だけは平気で踏み込んでいかれる」


母は何も言わない。

ただ、息子の言葉の続きを待っている。


勘十郎は視線を少し落とした。


「時々、羨ましく思うのです」


その一言を口にした瞬間、自分でも胸の奥が少し痛んだ。


羨ましい。

そう思っていたのだと、口にして初めてはっきり分かった。


兄上は自由だ。

人にどう見られるかを気にしない。

いや、本当は見えているのかもしれないが、それでも自分を曲げない。


勘十郎には、それができない。


礼を尽くせば喜ばれる。

柔らかく返せば安心される。

場を乱さぬようにしていれば、「やはり勘十郎様は」と言われる。

それが嫌なわけではない。

だが、そのたびに兄と比べられていることも、ちゃんと分かってしまう。


「兄上が粗く見えるほど、私は整って見えるのでしょう」


勘十郎は自嘲のように笑った。


「私が礼を尽くせば尽くすほど、兄上は礼を欠く人のように言われる。私が静かにしていればいるほど、兄上は騒がしい人のように言われる」


母の指先が、扇の上で止まった。


勘十郎の声は、もうずいぶん静かになっていた。


「私は、兄上と競いたいわけではないのです」


その本音は、ひどく重かった。


兄と争いたいわけではない。

追い落としたいわけでもない。

ただ、兄が兄であり、自分が弟であるまま、普通に並んでいられればそれでいい。

本当は、それだけでよかったはずなのだ。


だが周りはそうは見ない。


兄か、弟か。

どちらが家を継ぐのか。

どちらが家中をまとめるのか。

そういう目が、もう城のあちこちにある。


母はようやく静かに口を開いた。


「勘十郎」


「はい」


「あなたは、優しすぎる」


その言葉に、勘十郎は少しだけ眉を動かした。


優しい。

それは褒め言葉のようでいて、この場では少し違う響きを持っていた。


「兄を思う気持ちは大切です」


母は続ける。


「ですが、家というものは、気持ちだけでは保てませぬ」


勘十郎は唇を結んだ。


分かっている。

それはもう何度も聞かされてきた。

武家の子として生まれた以上、情だけで動けぬ時が来ることも。


だが、分かっていることと受け入れられることは違う。


「母上は……」


勘十郎は慎重に言葉を選んだ。


「兄上より、私がふさわしいと思っておられるのですか」


母は、その問いにもすぐには答えなかった。


部屋の空気が少しだけ重くなる。


「私は」


やがて母は言う。


「私の子に、生きていてほしいだけです」


勘十郎は顔を上げた。


それはずるい言い方だ、と少しだけ思った。

正しい。

母として正しい。

だがその正しさが、今は少し苦しかった。


「そのためには」


母の声は静かだ。


「しっかりしなさい」


その一言が、勘十郎には重かった。


あまりにも、まっすぐで。

あまりにも、逃げ道がなかった。


しっかりしなさい。


つまり、立っていろということだ。

周りがどう動こうと、兄がどうであろうと、自分は崩れるなということだ。

それは母の願いであり、同時に期待でもある。


勘十郎はうつむいた。


兄を嫌いたくない。

争いたくない。

でも母は自分に立てと言う。

家中の者もまた、無言で同じことを言い始めている。


そのことが、胸のどこかをじわじわと締めつけた。


「……はい」


結局、それしか返せなかった。


母はそれを聞いて、ようやく少しだけ表情を和らげた。

だが勘十郎の胸は、少しも軽くならなかった。


部屋を辞したあと、勘十郎はそのまま廊下を歩いた。


誰にも声をかけられたくなかった。

だが、こういう時に限って、妙に人の目が気になる。女中が頭を下げる。小姓が道を譲る。皆がいつも通りにしているだけなのに、それがかえって息苦しかった。


気がつけば、庭の見える縁側まで来ていた。


腰を下ろす。

風が少し冷たい。

白砂の上に松の影が揺れ、遠くで鳥が短く鳴いた。


静かだ。

静かなのに、心の中は少しも静かではない。


兄上は今ごろ、また城の外でも見ているのだろうか。

誰かとぶつかり、誰かに呆れられ、誰かを驚かせているのかもしれない。

そういう兄が、嫌いではない。

むしろ、好きですらある。


だからこそ辛い。


自分が礼を尽くせば尽くすほど、兄はそれと比べられる。

自分が穏やかであるほど、兄の激しさが目立つ。

自分の存在そのものが、兄を追い詰めるように見える時がある。


「兄上と……」


勘十郎は、誰にも聞こえぬほど小さく呟いた。


それから、少しだけ唇を噛み、続ける。


「ただ兄弟でいたいだけなのに」


その言葉は風に溶けて、どこにも残らなかった。


だが勘十郎の胸には、形にならぬ孤独と、まだ名もつけられぬ罪悪感だけが、静かに沈んでいった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ