第58話 勘十郎の孤独
「……兄上のことを、どう思っておられるのです」
勘十郎がそう口にした時、部屋の中には香の匂いが静かに漂っていた。
母の部屋は、いつ来ても整いすぎている。
几帳の垂れ方、文箱の置かれ方、灯りの明るさまで、少しも乱れていない。そういう場所にいると、自分まできちんと座らねばならぬ気になる。勘十郎は背筋を伸ばしたまま、膝の上で指を重ねた。
母はすぐには答えなかった。
細い指で扇の端をなぞり、一度だけ息を整えてから、ようやく口を開く。
「どう、とは」
「家中の者どもは、兄上を見る時と私を見る時で、顔が違います」
勘十郎は、自分でも驚くほどはっきり言った。
ずっと胸に引っかかっていたことだった。
言葉にしないまま飲み込んでいたが、いったん口を開けば、思っていたよりするすると出てくる。
「兄上には……警戒するような、測るような顔をします。ですが私には、安心したような顔をする」
母は静かに勘十郎を見ていた。
「それが、嫌なのですか」
勘十郎は少しだけ黙った。
嫌、と言い切ってしまうのも違う気がした。
嬉しいわけではない。
だが、まったく何も感じないわけでもない。
「……分かりませぬ」
正直にそう言うと、母は小さく頷いた。
勘十郎は続ける。
「私は兄上を嫌っておりませぬ」
その言葉には迷いがなかった。
「兄上は、確かに変わっておられます。言葉も強く、急に城を抜け出し、周りを困らせることも多い」
そこまで言って、少しだけ口元が緩む。
「ですが……誰にも媚びませぬ。思ったことをそのまま言われる。皆が顔色を見て口をつぐむような時でも、兄上だけは平気で踏み込んでいかれる」
母は何も言わない。
ただ、息子の言葉の続きを待っている。
勘十郎は視線を少し落とした。
「時々、羨ましく思うのです」
その一言を口にした瞬間、自分でも胸の奥が少し痛んだ。
羨ましい。
そう思っていたのだと、口にして初めてはっきり分かった。
兄上は自由だ。
人にどう見られるかを気にしない。
いや、本当は見えているのかもしれないが、それでも自分を曲げない。
勘十郎には、それができない。
礼を尽くせば喜ばれる。
柔らかく返せば安心される。
場を乱さぬようにしていれば、「やはり勘十郎様は」と言われる。
それが嫌なわけではない。
だが、そのたびに兄と比べられていることも、ちゃんと分かってしまう。
「兄上が粗く見えるほど、私は整って見えるのでしょう」
勘十郎は自嘲のように笑った。
「私が礼を尽くせば尽くすほど、兄上は礼を欠く人のように言われる。私が静かにしていればいるほど、兄上は騒がしい人のように言われる」
母の指先が、扇の上で止まった。
勘十郎の声は、もうずいぶん静かになっていた。
「私は、兄上と競いたいわけではないのです」
その本音は、ひどく重かった。
兄と争いたいわけではない。
追い落としたいわけでもない。
ただ、兄が兄であり、自分が弟であるまま、普通に並んでいられればそれでいい。
本当は、それだけでよかったはずなのだ。
だが周りはそうは見ない。
兄か、弟か。
どちらが家を継ぐのか。
どちらが家中をまとめるのか。
そういう目が、もう城のあちこちにある。
母はようやく静かに口を開いた。
「勘十郎」
「はい」
「あなたは、優しすぎる」
その言葉に、勘十郎は少しだけ眉を動かした。
優しい。
それは褒め言葉のようでいて、この場では少し違う響きを持っていた。
「兄を思う気持ちは大切です」
母は続ける。
「ですが、家というものは、気持ちだけでは保てませぬ」
勘十郎は唇を結んだ。
分かっている。
それはもう何度も聞かされてきた。
武家の子として生まれた以上、情だけで動けぬ時が来ることも。
だが、分かっていることと受け入れられることは違う。
「母上は……」
勘十郎は慎重に言葉を選んだ。
「兄上より、私がふさわしいと思っておられるのですか」
母は、その問いにもすぐには答えなかった。
部屋の空気が少しだけ重くなる。
「私は」
やがて母は言う。
「私の子に、生きていてほしいだけです」
勘十郎は顔を上げた。
それはずるい言い方だ、と少しだけ思った。
正しい。
母として正しい。
だがその正しさが、今は少し苦しかった。
「そのためには」
母の声は静かだ。
「しっかりしなさい」
その一言が、勘十郎には重かった。
あまりにも、まっすぐで。
あまりにも、逃げ道がなかった。
しっかりしなさい。
つまり、立っていろということだ。
周りがどう動こうと、兄がどうであろうと、自分は崩れるなということだ。
それは母の願いであり、同時に期待でもある。
勘十郎はうつむいた。
兄を嫌いたくない。
争いたくない。
でも母は自分に立てと言う。
家中の者もまた、無言で同じことを言い始めている。
そのことが、胸のどこかをじわじわと締めつけた。
「……はい」
結局、それしか返せなかった。
母はそれを聞いて、ようやく少しだけ表情を和らげた。
だが勘十郎の胸は、少しも軽くならなかった。
部屋を辞したあと、勘十郎はそのまま廊下を歩いた。
誰にも声をかけられたくなかった。
だが、こういう時に限って、妙に人の目が気になる。女中が頭を下げる。小姓が道を譲る。皆がいつも通りにしているだけなのに、それがかえって息苦しかった。
気がつけば、庭の見える縁側まで来ていた。
腰を下ろす。
風が少し冷たい。
白砂の上に松の影が揺れ、遠くで鳥が短く鳴いた。
静かだ。
静かなのに、心の中は少しも静かではない。
兄上は今ごろ、また城の外でも見ているのだろうか。
誰かとぶつかり、誰かに呆れられ、誰かを驚かせているのかもしれない。
そういう兄が、嫌いではない。
むしろ、好きですらある。
だからこそ辛い。
自分が礼を尽くせば尽くすほど、兄はそれと比べられる。
自分が穏やかであるほど、兄の激しさが目立つ。
自分の存在そのものが、兄を追い詰めるように見える時がある。
「兄上と……」
勘十郎は、誰にも聞こえぬほど小さく呟いた。
それから、少しだけ唇を噛み、続ける。
「ただ兄弟でいたいだけなのに」
その言葉は風に溶けて、どこにも残らなかった。
だが勘十郎の胸には、形にならぬ孤独と、まだ名もつけられぬ罪悪感だけが、静かに沈んでいった。




