第52話 殴り合い
「何だ、この餓鬼」
若武者の声は低かった。
さっきまで魚屋の親父へ怒鳴っていた時とは違う。大声で威圧するのではなく、真正面から相手を測るような声だ。店先の空気がぴんと張る。魚屋の親父も、周りで様子を窺っていた町人たちも、揃って息を止めた。
だが吉法師は、そんなことに構わず言った。
「聞こえなかったか。魚ごときで大騒ぎするなと言った」
小夜が後ろで両目を閉じた。
もう駄目だ。
これは止まらない。
今の吉法師の顔も、目の前の若武者の顔も、どちらも「引く」という字がない。
案の定、若武者のこめかみがぴくりと動いた。
「魚ごとき、だと?」
「そうだ」
「食うもんだぞ」
「なら買わねばよい」
「筋の通らねえ売り方されたら、黙ってられるか」
吉法師は少しも怯まない。
「武士なら店先で吠えるな」
その一言で、若武者の顔つきが変わった。
怒った。
本当に怒ったのだと、周りの誰にでも分かった。
「てめえに武士を語られる筋合いはねえ!」
若武者が一気に踏み込む。
速い。
吉法師も反応したが、さすがにその一歩は読めなかった。胸ぐらを掴まれ、勢いのまま半歩引かされる。魚屋の店先で木桶が倒れ、何尾か魚が土の上へ滑り落ちた。
「ちょ、ちょっと!」
小夜が本気で飛び出した。
「やめなさい!」
だが間に合わない。
吉法師の方も、掴まれたままで黙ってはいなかった。相手の腕を払おうとする。払えない。ならばと肩ごとぶつかり、逆に体を寄せる。若武者は少し驚いた顔をした。普通の小僧なら、ここで怯むと思ったのだろう。
「離せ!」
「離すか!」
「この野郎!」
次の瞬間には、もう拳が飛んでいた。
若武者の拳は重い。
まっすぐ来る。
町人相手の喧嘩とは違う。躊躇も、半端な遠慮もない。ただ若い獣が真正面からぶつかってくるような力だ。
吉法師はとっさに顔をずらした。拳は頬を掠め、熱い痛みだけを残す。だがそのまま腹へ膝が入る。
「ぐっ……!」
息が詰まる。
前の町人相手の喧嘩で叩きのめされた時の記憶が一瞬よぎる。
強い。
だが今回は、それだけでは終わらなかった。
吉法師も本気だった。
腹の痛みに歯を食いしばり、そのまま相手の着物の前を掴む。引くのではない。思い切り前へ出る。額が若武者の顎に当たり、相手が少しだけ仰け反る。その隙に、今度は吉法師の拳が飛んだ。
正面からではない。
横から、少し乱暴に。
「っ!」
若武者の口の端が切れた。
周りがどっとどよめく。
魚屋の親父が「やめろって!」と叫び、町人たちは半歩引きながらも目を逸らせない。店先の騒ぎは、もう魚の文句ではなくなっていた。若い武士と変な小僧の、本気の殴り合いだ。
「吉法師!」
小夜が本気で声を張る。
だが二人とも聞いていない。
若武者は口の端を親指で拭い、そこについた血を見た。
それから、初めて少しだけ笑った。
「やるじゃねえか」
「そなたもな」
吉法師も息を荒げながら返す。
そしてまた同時に踏み込んだ。
今度は完全に、喧嘩だった。
理屈も何もない。
相手が前へ出れば自分も前へ出る。避けるよりぶつかる。押されれば押し返す。若い獣同士の、妙な気迫だけのぶつかり合い。
吉法師は確かに押されていた。
相手の方が場数も上だ。
腕力も、背丈も、踏み込みの重さも違う。
一つ一つの拳に迷いがない。町で何度も殴り合ってきたのだろう、と分かる強さだった。
それでも吉法師は逃げない。
頬を打たれれば打ち返す。
肩を押し込まれれば噛みつくように押し返す。
体格で不利なら足を絡める。
武芸の稽古で身についたものと、町の喧嘩で覚えた悔しさとが、妙な形で混ざっていた。
若武者は殴り合いながら思う。
こいつ、ただの坊ちゃんじゃねえ。
見た目はきれいだ。
着物もいい。
口の利き方も妙に偉そうだ。
だが、痛みを知る前の甘い坊ちゃんの顔ではない。殴られても引かず、転んでもまた前へ来る。意地だけなら自分と同じか、それ以上かもしれない。
吉法師の方も、殴りながら思っていた。
こいつ、強いな。
ただ乱暴なのではない。
怒る理由が真っ直ぐだ。
売り手の筋が通らぬと思えば本気で怒る。殴り合いになっても、いやらしい小細工がない。力で来る。気持ちで来る。そういう馬鹿正直さが、少しだけ気に入った。
「この……!」
若武者の拳が肩へ入る。
「っ!」
吉法師も負けじと体当たりを返す。
小夜はもう半ば呆れ顔だった。
「何なのよ、本当に……」
だが、ただ呆れているだけではないことに自分でも気づいていた。
吉法師は今までにも喧嘩をした。
町人にも負けた。
可成には毎日叩きのめされている。
それでも今のこれは少し違う。
楽しそうなのだ。
苦しそうではある。
鼻の頭には汗、頬には赤み、息は上がっている。
それでも吉法師の目は死んでいない。むしろ生き生きしている。真正面からぶつかってくる相手を前にして、妙に嬉しそうですらあった。
「ほんと、馬鹿……」
小夜が呟いた時だった。
「おやめなされ!」
通りの向こうから、ようやく複数の足音が近づいてきた。
町役人だ。
それに混じって、城へ出入りしているらしい侍もいる。魚屋の親父がとうとう大声で助けを呼んだのだろう。
「散れ散れ!」
「何をやっておるか!」
大人が何人も駆け込んでくると、さすがにそのまま続けるわけにもいかない。若武者が舌打ちし、吉法師も忌々しそうに息を吐く。だが、その一瞬の緩みで、双方まとめて肩を掴まれた。
「離れろ!」
「放せ!」
二人とも同時に叫ぶ。
だが大人が本気で引き剥がせば、どうしても体格差がある。若武者も吉法師も、最後まで睨み合ったまま無理やり引き離された。
「何をしておる、前田!」
その中の一人の侍が、若武者へ向かって怒鳴った。
前田。
吉法師は、その名を頭の中で転がした。
若武者は、なおも肩で息をしながら忌々しそうに言う。
「こいつが絡んできたんだよ!」
「魚屋で喚いておったのはそっちだろうが!」
吉法師も負けずに言い返す。
「まだ言うか、この餓鬼!」
「そなたもな!」
もう一度殴りかかろうとしたところを、今度は小夜に本気で頭を叩かれた。
「いい加減にしなさい!」
ぺしん、と小気味よい音がした。
一瞬、場が静まる。
吉法師は頭を押さえた。
「何をする」
「それはこっちの台詞よ!」
小夜の顔が本気で怒っていたので、さすがの吉法師もそこで少しだけ黙った。
その隙に、若武者の方も押さえられる。
それでもまだ目はぎらついていた。
だがそのぎらつきの中に、さっきまでとは違う色が少し混じっている。怒りだけではない。面白いものを見つけた時の目だ。
やがて若武者は、ぐいと腕を振りほどき、自分で立ち直った。
口の端の血を拭い、吉法師を睨む。
「覚えたぞ」
吉法師も鼻の下を袖で拭った。
血がついていた。鼻血だ。
だが、負けた気はしなかった。勝ってもいないが。
若武者が、胸を張るように言う。
「前田利家だ。忘れんな、変な餓鬼」
その名乗り方が、妙に気持ちよかった。
吉法師は鼻血を拭ったまま、にやりと笑う。
「忘れぬ」
利家はもう一度、ぎらりと目を向けた。
「今度はちゃんと決着つけるぞ」
「望むところだ」
そのやり取りに、周りの大人たちは揃って頭を抱えたような顔になる。小夜などは本気でため息をついていた。
だが吉法師は、袖の血を気にもせず利家の背を見ていた。
面白い奴だ。
本当に面白い。
そして利家の方もまた、去りながら思っていた。
あの餓鬼、妙に面白え。
こうして最悪のようでいて、妙に気持ちのよい出会いが終わった。
友好的とはとても言えない。
だが拳でぶつかり合ったからこそ、二人とも相手の中にある真っ直ぐさだけは、ちゃんと見てしまっていた。




