第51話 荒くれ武士
「また面倒ごとね」
小夜がそう言った時には、吉法師はもう足を止めていた。
城下の通りは昼の熱気をまだ少し残している。魚を焼く匂い、味噌の匂い、土と汗の匂いが混じり、人の声も多い。だがその流れの一角だけ、不自然に空いていた。人が避けているのだとすぐ分かる。通りの先、魚屋の店先で怒鳴り声が響いている。
「ふざけるなと言っておるだろうが!」
声が大きい。
ただ大きいだけではない。腹の底から真っ直ぐ飛んでくるような声だった。怒鳴るために怒鳴っているのではなく、本気で腹が立っている声だ。
魚屋の前では、ひとりの若い武士が店主へ食ってかかっていた。
背が高い。
肩幅も広い。
年は吉法師より少し上か、せいぜい数えるほどしか違わぬはずなのに、そこに立つだけで妙に場が狭く見える。着ているものは派手すぎないが、着崩し方に遠慮がない。腰には刀。腕まくりした前腕には無駄のない筋が見えている。
顔立ちは荒い。
だが、目は腐っていなかった。
怒っている。
ひどく怒っている。
だが、ただ暴れて気を晴らしたい顔ではない。
吉法師は少し目を細めた。
「面白いな」
小夜が横で嫌そうな顔をする。
「あなた、その顔やめて」
「何だ」
「“面白いものを見つけた”って顔」
「面白いものを見つけたのだ」
「私は嫌な予感しかしない」
そんな二人の会話など届くはずもなく、魚屋の前では怒鳴り声が続いていた。
「こんなもん、武士に食わせる気か!」
若武者が魚を一尾掴み上げる。
たしかに、ぴかぴかと新しい魚ではなかった。朝に揚がったものならもっと目が澄んでいる。これは少し時間が経っているのだろう。だが腐っているとまで言うほどではない。魚屋の親父も、必死の顔で弁明していた。
「腐っちゃいねえよ! 朝から並べてる魚だ、少し弱るのは当たり前だろうが!」
「これを当たり前と言うのか!」
「うちはそういう値で出してるんだよ!」
若武者はぐいと店先へ身を乗り出した。
「値の話ではない!」
その一喝に、周りの町人たちがびくりと肩を震わせた。
怖がっている。
だが、誰も完全には背を向けていない。
それはこの若武者がただの悪党ではないと、皆どこかで分かっているからかもしれなかった。
「また始まった……」
通りの端で女が小さく呟く。
「誰だ」
吉法師がそちらへ聞くと、女は一瞬ためらってから答えた。
「若侍さ。前田の……なんとかって奴だよ」
名前までは定かでないらしい。だが近ごろ城下で何度か揉めているらしく、見物人たちの顔には「困ったが見覚えはある」という気配があった。
その時、店の奥から若い衆が二人飛び出してきた。
「やめろって!」
「店の前で騒ぐな!」
二人で若武者の腕を掴もうとする。
だが若武者は振り向きもせず、片腕を振るっただけで、二人まとめて弾き飛ばした。
「邪魔だ!」
若い衆の一人が尻餅をつき、もう一人は魚籠へ背中からぶつかって盛大な音を立てた。
「うわ……」
小夜が小さく引く。
「あれ、強いわよ」
「うむ」
吉法師はむしろ感心したように頷いた。
若武者はまだ魚を握ったまま、魚屋の親父を睨んでいる。
「武士だろうと何だろうと、食うものに手を抜くな! 金を取るならなおさらだ!」
その言い方に、吉法師の目がまた少し細くなった。
ただ怒鳴っているのではない。
筋を通そうとしている。
やり方が荒っぽすぎるだけで。
小夜もそこには気づいたらしい。少しだけ眉をひそめながら言う。
「……悪人って感じじゃないのよね」
「うむ」
「でも関わらない方がいい」
「何故だ」
「何故だ、じゃないでしょ。ああいうのは、筋が通ってるって本人が思ってる分、余計に厄介なの」
吉法師は少し笑った。
「なるほど」
「分かったなら離れなさい」
「分かった」
「ほんとに?」
「うむ」
そう言いながら、吉法師は一歩前へ出た。
小夜が目を閉じた。
「分かってない!」
案の定である。
吉法師は人垣を抜け、魚屋の店先へ近づいた。魚屋の親父が一瞬「誰だこいつは」という顔をする。若武者の方も、ようやく新しく割り込んできた小柄な少年に気づいた。
吉法師はその若武者を上から下まで見た。
背が高い。
肩が広い。
声が大きい。
荒っぽい。
だが、怒り方に変な濁りがない。
「面白い奴だな」
思わずそのまま口に出した。
若武者の眉がぴくりと動く。
「何だお前」
「魚ごときで大騒ぎするな」
その一言で、周囲の空気がぴたりと止まった。
魚屋の親父が「お、おい」と慌てた顔になる。
町人たちは一斉に「今それ言うのか」という目になる。
小夜は後ろで額を押さえた。
だが吉法師は構わない。
「腐っておるなら買わねばよい。そこまで怒鳴ることか」
若武者は、ゆっくり吉法師へ振り向いた。
真正面から見れば、さらに威圧感がある。背丈の差もあって、ほとんど見下ろされる形だ。だが吉法師は少しも引かない。
若武者の目が細くなる。
「……何だ、この餓鬼」
その声は低かった。
さっきまでの怒鳴り声とは違う。
怒りが一点へ集まった時の声だ。
吉法師は口の端を少しだけ上げた。
小夜はその顔を見て、本気で嫌な予感しかしなかった。
面倒なものと面倒なものが、今、真正面からぶつかろうとしている。




