第4話 弟・勘十郎
那古野城の朝は、静かな光に包まれていた。
春の柔らかな日差しが城の瓦を照らし、庭の松の葉には朝露が残っている。
中庭の白砂はまだ踏み荒らされておらず、ひんやりとした空気が廊下を抜けていく。
武士の城の朝は早い。
小姓たちは静かに廊下を歩き、兵は庭の隅で槍の稽古をしている。
遠くからは、城下町の商人の声が微かに聞こえていた。
しかし――
「団子はもう無いのか!」
その静かな空気を破る声が響いた。
廊下の真ん中で腕を組んでいる少年。
織田吉法師である。
片袖を外した小袖。
腰には木刀。
髪もどこか乱れている。
どう見ても大名の嫡男らしい姿ではない。
その隣で、平手政秀が深くため息をついた。
「吉法師様……」
「なんだ」
「城の中で団子を探すのはやめてください」
吉法師は不満そうな顔をする。
「では城下へ行く」
「だめです!」
平手の声が廊下に響いた。
近くにいた小姓たちは、必死に笑いをこらえている。
そのときだった。
奥の廊下から、静かな足音が近づいてきた。
ことり、ことりと、落ち着いた足取り。
やがて一人の少年が姿を現した。
年は吉法師より一つか二つ下。
着物はきちんと整えられ、帯も乱れていない。
背筋は真っ直ぐで、歩き方も落ち着いている。
少年は廊下の端で丁寧に頭を下げた。
「兄上」
吉法師が振り向く。
「おお、勘十郎か」
弟――勘十郎である。
後の織田信行。
織田信秀の次男であり、吉法師の弟。
勘十郎は静かに礼をした。
「おはようございます」
その所作は実に整っている。
平手が思わず頷いた。
「勘十郎様は今日も早いですな」
勘十郎は穏やかに答えた。
「武士は朝が大事と教わりました」
その言葉に、平手は満足そうな顔をする。
「立派でございます」
一方、吉法師は首を傾げていた。
「朝は眠い」
勘十郎は少し困った顔をする。
「兄上……」
吉法師は言う。
「眠いときは寝るのがよい」
平手が額を押さえた。
「吉法師様!」
勘十郎は苦笑する。
「兄上らしいお考えですね」
平手は思わず言った。
「勘十郎様を見習ってください」
勘十郎は慌てて手を振る。
「いえ、兄上には兄上の良さがあります」
その言葉に、平手は少し驚いた顔をした。
吉法師は勘十郎をじっと見た。
「おぬしは真面目だな」
「そうでしょうか」
「面白くない」
勘十郎は笑った。
「兄上ほどではありません」
そのとき、廊下の端で家臣たちが小声で話していた。
「勘十郎様は立派だ」
「礼儀正しい」
「将来が楽しみだ」
その声は小さいが、確かに聞こえる。
勘十郎はそれに気づいたのか、少しだけ視線を落とした。
一方、吉法師は庭を見ていた。
松の枝が風に揺れている。
砂利の庭に朝日が差し、白く光っていた。
吉法師はぽつりと言う。
「勘十郎」
「はい」
「戦は好きか」
勘十郎は少し考えた。
「武士として、避けられぬものと思います」
「好きか?」
「……好きではありません」
吉法師は笑った。
「わしは好きだ」
平手が眉をひそめる。
「吉法師様……」
吉法師は続けた。
「戦は面白い」
勘十郎は驚いた。
「面白い、ですか」
「うむ」
吉法師は木刀をくるりと回す。
「どうすれば勝てるか考えるのが面白い」
勘十郎は黙った。
兄の目は、楽しそうだった。
どこか恐ろしいほどに。
平手が咳払いをする。
「勘十郎様」
「はい」
「和尚様の説法が始まります」
勘十郎はすぐに頭を下げた。
「参ります」
平手は吉法師を見る。
「吉法師様も」
吉法師は言った。
「団子は?」
平手は叫んだ。
「団子ではありません!」
勘十郎は思わず笑った。
吉法師は言う。
「勘十郎」
「はい」
「説法より団子の方がよいぞ」
勘十郎は真面目な顔で答えた。
「兄上」
「なんだ」
「それは兄上だけです」
廊下の小姓たちはついに吹き出した。
那古野城の朝。
二人の兄弟は、まるで正反対だった。
自由で奇妙な兄。
礼儀正しく穏やかな弟。
そして家臣たちは思っていた。
――もし織田家を継ぐなら。
勘十郎様の方がふさわしいのではないか。
まだ誰も知らない。
この奇妙な兄が。
やがて戦国の世を変える男になることを。




