第50話 理解者
「また来たか」
森可成は、木槍を肩に担いだままそう言った。
吉法師は鼻を鳴らした。
「来るに決まっておる」
「昨日あれだけ叩かれて、まだ懲りぬのか」
「懲りたら来ぬ」
その返しに、可成はほんの少しだけ口元を動かした。笑ったのかどうか分からぬ程度の変化だったが、吉法師にはそれで十分だった。
稽古場の朝はまだ冷たい。
土の匂い、木槍の乾いた手触り、若侍たちの固い空気。ここ数日ですっかり慣れたはずなのに、可成の前へ立つと、やはり背筋の奥が少しだけ熱くなる。
強い相手がいる。
届かぬ相手がいる。
それだけで、吉法師にはここへ来る理由として十分だった。
「構えよ」
可成が言う。
吉法師は木槍を持ち上げた。
昨日までより、少しだけ自然に手へ馴染む。重さは変わらぬ。だが、ただ振り回される道具ではなくなり始めている。
「参る」
可成が踏み込む。
速い。
だが、前ほど見失わない。
肩、腰、足。小夜に教わった視線の読み方と、可成に叩き込まれた足運び。その両方を頭のどこかで繋ぎながら、吉法師は一歩ずつ受ける。
木と木がぶつかる。
土が鳴る。
若侍たちが息を止める。
可成の槍は今日も容赦がない。だが昨日までのように、一方的に崩されるばかりでもなかった。弾かれても、すぐ構え直す。足を払われても、倒れきる前に踏みとどまる。ほんの少し。ほんの少しずつだが、確かに前へ進んでいる。
「そこだ」
可成の声が飛ぶ。
吉法師は反射で踏み替える。
その動きは半分成功し、半分遅れた。
石突が肩へ入る。
「っ……!」
たまらずよろける。
だが、倒れはしない。
可成が槍を引いた。
「今日はここまで」
「まだだ」
「顔を見よ」
吉法師はむっとしたまま答える。
「何だ」
「息が上がっておる」
「それくらいでやめるか」
「やめぬから危うい」
可成はいつもの調子で言ったが、その声には少しだけ柔らかさがあった。
吉法師は不満そうに槍を下ろした。
本当はまだやりたい。だが足の重さも、肩の熱も、自分で無視できぬほどにはなっている。
若侍たちが少し離れたところでざわつき始めた。
今日の若殿は、昨日よりずっと粘った。そういう空気だ。
小夜は木陰に座ったまま、その様子を見ている。
そして平手政秀は、今日は珍しくすぐに怒鳴ってこなかった。少し離れた場所で腕を組み、難しい顔のまま黙っている。
吉法師は木槍を可成へ返しながら言った。
「まだ足りぬ」
「毎日そう申されますな」
「毎日足りぬ」
可成は木槍を受け取り、武具掛けへ戻した。
その背中を見ながら、吉法師はぽつりと言う。
「おぬしは、わしを笑わぬな」
可成の手が、一瞬だけ止まった。
若侍たちのざわめきも、ほんの少し静まる。
吉法師は続けた。
「家中の者どもは、わしが変わっておると思っておる。うつけだ、危うい、家中を乱す、そういう顔をする」
「……」
「だが、おぬしは笑わぬ」
可成はしばらく黙っていた。
それから木槍を置き、ゆっくり振り返る。
「若殿」
「何だ」
「笑うには、若殿は少し厄介すぎる」
その答えに、稽古場の何人かが思わず息を漏らした。
小夜は横で、ちょっと面白そうに目を細めている。
吉法師は眉をひそめた。
「厄介か」
「はい」
可成は淡々と答えた。
「思ったことをそのまま口にする。怖れぬ。引かぬ。負けてもまた来る。見えぬものを見たがる」
そこまで言って、ほんの少しだけ目を細めた。
「そのような若殿は、正直申して面倒にございます」
小夜が吹き出しそうになるのを堪えた。
政秀は腕を組んだまま、小さく頷いている。そこだけは完全に同意らしい。
吉法師は、少しだけ口元を上げた。
「だが、嫌いではない顔だな」
「……よく見ておられる」
「見ておるからな」
可成は、そこでようやくほんのわずかに笑った。
本当にわずかだったが、今までで一番はっきり分かる笑みだった。
「殿の夢」
その言葉に、吉法師の顔つきが変わる。
夢。
それが何を指すのか、すぐに分かったからだ。
尾張一国に収まらぬ話。
この国を一つにするだの、城の外を見ろだの、家中の者たちが聞けば眉をひそめるような話。
吉法師は何度も口にし、そのたびに呆れられ、怒られ、危うがられてきた。
可成はまっすぐに言った。
「わしは嫌いではない」
その一言が、吉法師の胸へまっすぐ入った。
しばらく、何も言えなかった。
小夜も、珍しく冗談を挟まなかった。
政秀も黙っている。
若侍たちでさえ、その空気を壊さぬように息を潜めていた。
可成は続ける。
「叶うかどうかは知りませぬ」
吉法師は黙って聞いている。
「世の者どもが笑うのも、無理はない。尾張一国もまだ揺れておる。家の中も静かではない。そういう時に大きな夢を語れば、夢想家と呼ばれましょう」
「うむ」
ようやく吉法師が小さく返す。
可成は頷いた。
「だが」
声が少し低くなる。
「大きなものを見ておる者が一人もおらねば、皆、足元の争いだけで終わります」
その言葉に、政秀の目がわずかに動いた。
可成は、さらに続ける。
「若殿は危うい」
吉法師は否定しない。
「普通ではない」
それも否定しない。
「だが、だからこそ見えるものもあるのでしょう」
吉法師は、ゆっくりと息を吐いた。
言われたことの一つ一つが、重かった。
ただ褒められているのではない。
危うさも、厄介さも、面倒さも、全部込みで見た上で、それでも嫌いではないと言っている。
「……おぬし」
吉法師がようやく口を開く。
「はい」
「変な男だな」
可成の眉が少し上がる。
「それは若殿に言われとうござらぬ」
その返しに、稽古場の空気が少しだけ和らいだ。
小夜はとうとう声を殺して笑う。
政秀も、ほんのわずかに口元を緩めたように見えた。
だが吉法師は笑ったあと、すぐに真顔へ戻った。
「皆、嫌がる」
ぽつりと言う。
「何がでございます」
「わしの見るものを、だ」
可成は少し考え、それから答えた。
「嫌がるのではなく、怖れるのでしょう」
「怖れる」
「はい。大きすぎる夢は、今立っておる場所が小さく見える。人は、それを怖れます」
その言葉に、吉法師は黙った。
たしかにそうかもしれぬ。
家中の者たちは、夢が嫌いなのではない。
夢のせいで、今自分たちが積み上げているものが揺らぐのを怖れているのだ。
「だが、若殿」
可成が言う。
「怖れられることと、間違っておることは別です」
吉法師は、ゆっくり顔を上げた。
可成の目はまっすぐだった。
槍を構える時と同じ目だ。
迷いがない。
「殿の夢、わしは嫌いではない」
もう一度、可成はそう言った。
今度のその言葉は、先ほどよりさらに深く胸へ沈んだ。
吉法師は、それにすぐ言葉を返せなかった。
照れでもなく、気取っているわけでもない。
ただ、本当に初めてだったのだ。
家中で、町で、百姓の前で、どこへ行っても、吉法師の言うことはたいてい「変わっている」で終わった。笑われるか、呆れられるか、怒られるか。そのどれかだった。
だが今、森可成は違う。
危ういとも言う。
面倒だとも言う。
普通ではないとも言う。
それでもなお、「嫌いではない」と言った。
それはたぶん、今までで一番、理解に近い言葉だった。
「……そうか」
ようやく吉法師は、それだけを言った。
短い返事だった。
だが、軽くはなかった。
小夜はその横顔を見て、少しだけ目を細めた。
分かりやすく喜ぶわけでもない。
大声を出すでもない。
けれど今、吉法師の胸の中に何かがちゃんと届いたことは分かった。
「じゃあ」
小夜がわざと軽い声を出す。
「森殿は、初めての変な理解者ってことね」
可成が小夜を見る。
「変な、は余計ですな」
「でも合ってるでしょう」
「半分ほど」
「半分も認めるんだ」
そのやり取りに、吉法師は少しだけ笑った。
政秀が小さく咳払いをする。
「森殿がそう仰るなら、わたくしとしても少しは安心したいところですが」
「安心してはなりませぬ、平手殿」
可成が即答した。
「若殿は、これからもっと面倒になります」
稽古場に小さな笑いが漏れる。
政秀は天を仰いだ。
「やはりそうなりますか……」
「当然だ」
今度は吉法師が言う。
「面倒でなければ、つまらぬ」
小夜がすぐに返す。
「はいはい。そういうところよ」
そのやり取りを聞きながら、稽古場の空気は、今までとは少し違うものへ変わっていた。
若殿は変わっている。
危うい。
普通ではない。
だが、その吉法師の隣に立って、真正面からそれを受け止める者が、ようやく一人できた。
森可成。
槍の鬼であり、厳しい師であり、そして初めて若殿の夢を「嫌いではない」と言った男。
吉法師はその男を見ながら、心の中で小さく思った。
――面白い。
そして同時に、少しだけ、心強かった。




