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第49話 可成の評価

「……この若殿は普通ではない」


その言葉を、森可成が口にしたのは、稽古が終わったあとのことだった。


吉法師はすでに引き上げている。

とはいえ、素直に帰ったわけではない。最後の最後まで「あと一度」と食い下がり、平手政秀に本気で怒鳴られ、ようやく木槍を手放したのだ。帰り際も、肩で息をしながら可成の足運びについて何か言いかけていたが、政秀に襟を掴まれて連れていかれた。


その背を見送りながら、若侍たちはどこか呆れ、どこか感心した顔をしていた。


稽古場には、まだ土の匂いと汗の熱が残っている。

踏み荒らされた地面には、何度も倒れた跡がはっきりついていた。可成は槍を布で拭い、いつものように静かに武具掛けへ戻していたが、その横顔を見ていた若侍の一人が、我慢できなくなったように口を開いた。


「森殿」


「何だ」


「本気でお教えになるおつもりですか」


可成は振り返らない。


「そのつもりで始めた」


若侍は少しためらってから続ける。


「ですが……若殿は、まだ子供にございます」


その場にいた何人かが、内心で同じことを思っていた。


たしかに吉法師は食らいつく。

負けず嫌いで、叩かれても引かず、見えたものはすぐ吸い込む。

だが同時に、あまりに無遠慮で、あまりに勝手で、あまりに若い。


強くなるかもしれぬ。

だが、本当に任せてよいのか。

そういう迷いが、若侍たちの胸にはまだあった。


可成は槍を置き終え、そこでようやく振り返った。


「子供、か」


低い声だった。


「では問うが、おぬしたちは若殿を子供と思うて槍を受けられるか」


若侍たちは答えに詰まった。


可成は続ける。


「最初は、ただ勝ちたがるだけの槍であった」


誰も口を挟まない。


「だが今は違う。教えたことを忘れぬ。叩かれたところを覚えておる。何より、自分が弱いと知っても、そこから目を逸らさぬ」


その言葉に、若侍たちの顔つきが少し変わる。


たしかにそうだ、と誰もが思った。


普通は、叩かれれば言い訳をする。

手加減がどうの、体調がどうの、たまたまだの、そういう逃げ道を探す。

だが吉法師は、町の喧嘩で負けた時も、可成に崩された時も、「負けた」と口にした。悔しさはあっても、なかったことにはしなかった。


それは意外と難しいことだ。


「森殿」


今度は別の若侍が言った。


「ですが、若殿はどうにも……その……」


「どうにも、何だ」


「普通ではありませぬ」


可成は、その言葉にほんのわずかだけ口元を動かした。


笑ったのかどうか分からぬほどの変化だったが、近くにいた者には分かった。


「その通りだ」


そして、あっさりと言う。


「この若殿は普通ではない」


稽古場が静まる。


その言い方は、悪口ではなかった。

だが褒め言葉とも少し違う。

もっと厄介で、もっと重い意味を含んでいるように聞こえた。


「普通の若殿なら」


可成が続ける。


「一度や二度叩かれれば拗ねる。三度も倒れれば面目を気にする。家臣の前で恥をかくのを嫌がる」


それはよく分かる。

武士にとって面目は重い。まして若殿ともなれば、人前で無様を晒すことそのものが嫌になる者も多いだろう。


「だが吉法師様は違う」


可成の声は静かだ。


「恥より先に、知りたがる。面目より先に、届かなかった理由を見ようとする。叩かれても、痛みより先に“今のは何だ”と目で追う」


若侍たちは、思わず黙って頷きかけた。


それはこの数日の稽古で、誰もが見たものだった。


可成が一撃を入れる。

吉法師は痛がる。

だが次の瞬間には、どこをどうやられたのかを見たがる。

ただ悔しがるだけでは終わらない。そこが妙だった。


「森殿」


若侍の一人が慎重に訊く。


「それは……良いことなのでしょうか」


可成は少しだけ目を細めた。


良いか悪いか。

その問いは、今の那古野城全体が吉法師へ向けているものでもあった。


変わっている。

鋭い。

だが危うい。

大きなものを見ているようで、足元を飛び越える。

そういう若殿を、良いと見るか悪いと見るか。


可成は短く息を吐いた。


「分からぬ」


その答えに、若侍たちは少し驚いた。


可成なら、もっときっぱり言うと思ったのだろう。


「だが」


可成は続ける。


「面白い」


その言葉に、何人かが小さく苦笑した。


「若殿も、よくそう申されますな」


「うむ」


可成も頷く。


「似たのかもしれぬ」


そのやり取りに、稽古場の空気がほんの少しだけ和らいだ。


少し離れた場所でその話を聞いていた小夜は、柱にもたれたまま口元を上げた。

森可成がああいう言い方をするのは珍しい。もっと武骨で、もっと単純に「使える」「使えぬ」と切る男かと思っていたが、案外、人をよく見ている。


その時、平手政秀がようやく戻ってきた。


若殿を部屋へ押し込み、薬を塗らせ、ようやくひと息ついたらしい。だが顔つきは相変わらず険しい。


「森殿」


「平手殿」


政秀は周りにいた若侍たちを一度見回し、少しだけ声を落とした。


「……いかが思われます」


その問いには、単なる感想以上の重みがあった。

政秀は今、森可成へ“武の目から見た吉法師”を訊いているのだ。


可成は少し考えるように間を置き、やがて答えた。


「筋は良い」


政秀の目がわずかに動く。


「覚えも早い。勝ちたがる癖はあるが、それを抑えることを覚えれば伸びる」


「……それは、分かります」


政秀は小さく頷いた。


「では、人としては」


可成は、その問いにはすぐ答えなかった。


しばらく黙ってから、低く言う。


「危うい」


政秀の目が細くなる。


「やはり、ですか」


「はい」


可成はまっすぐ答えた。


「思ったことをそのまま口にする。相手が誰かをあまり恐れぬ。自分の弱さも隠さぬ。そういう者は、強くなれば強くなるほど敵を作ります」


政秀は、深く息を吐いた。


それは自分も何度も感じていたことだった。

そして同時に、その危うさの裏側にある強さもまた、見えてしまっている。


「だが」


可成が続ける。


「だからこそ、普通の若殿ではない」


政秀が顔を上げる。


可成の声は、さらに低くなった。


「この若殿は普通ではない」


先ほどと同じ言葉。

だが今度は、もっと重かった。


「普通に家を継ぎ、普通に家中をまとめ、普通に一国を治めるだけなら、もっと穏やかな者の方が向いているやもしれませぬ」


政秀は黙って聞いている。


「だが、普通では足りぬ時代なら」


可成はそこで言葉を切った。


その先を、誰もすぐには言えなかった。


普通では足りぬ時代。

戦国とは、まさにそういう時代かもしれない。

常識のままでは押し流される。

礼儀のままでは飲み込まれる。

そういう世なら、普通ではない者の方が前へ出ることもある。


政秀は、やがて小さく言った。


「恐ろしいことを申される」


可成は少しだけ肩を揺らした。


「本当のことかどうかは、まだ分かりませぬ」


「……ええ」


政秀もそれ以上は言わなかった。


分からない。

まだ若い。

まだ粗い。

まだ城下の喧嘩に負け、稽古で転がされ、百姓の言葉に詰まるような少年だ。


だが、その少年が、何か普通ではないということだけは、皆が少しずつ分かり始めている。


小夜はそのやり取りを聞きながら、胸の中で小さく思った。


今さらね。


最初からそうだった。

変で、危なくて、放っておけなくて、妙に人の懐へ入ってくる。

普通でないことくらい、町で出会った時から分かっていた。


そしてたぶん、これからももっと普通ではなくなっていくのだろう。


「面倒そう」


ぼそっと小夜が呟くと、政秀が振り向いた。


「何か申されましたか」


「いいえ」


小夜は平然と首を振る。


政秀は少し怪しんだ顔をしたが、深追いはしなかった。深追いしても、この忍び娘は素直には吐かぬと分かり始めているからだ。


稽古場には、午後へ傾き始めた光が差していた。

土の上には、吉法師が倒れた跡がまだいくつも残っている。

その跡を見ながら、可成は最後にもう一度だけ低く言った。


「普通ではない」


その声には、厄介さと、面白さと、そしてわずかな期待が混じっていた。

若殿を評価するにはまだ早い。

だが、ただの変わり者として笑って済ませられる相手でも、もうなかった。

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