第48話 初めての一撃
「違う」
森可成の声が飛ぶ。
その直後、木槍の柄が吉法師の手元を打った。
「っ!」
痺れる。
握りが一瞬ほどけかける。
だが吉法師は歯を食いしばって持ち直した。
「今のは見えておったか」
「少しだ」
「少しでは足りませぬ」
「それはもう聞き飽きた」
「なら次で直すことです」
可成は相変わらず容赦がない。
朝から何本やったか分からない。肩も手のひらも熱く、足はもう鉛のように重い。それでも吉法師は構えを解かなかった。
稽古場の端で、小夜が柱にもたれてその様子を見ている。
「今日も死にそうね」
ぼそりと呟くと、近くにいた若侍が苦笑した。
「森殿の稽古で生きてるなら、まだましな方です」
「それ、慰めになってる?」
「なっておりませぬな」
二人がそんなことを話している間にも、可成と吉法師の槍は何度もぶつかり合っていた。
可成の槍は正確だ。
無駄がない。
そして何より、迷いがない。
対して吉法師は、ようやくその速さへ目が慣れてきたところだった。慣れてきたからこそ、前より少しだけ見える。だが見えることと、間に合うことは違う。その差を毎回思い知らされる。
「もう一度だ」
吉法師が言う。
「当然にございます」
可成が答える。
二人の距離が詰まる。
吉法師は足を運ぶ。
焦るな、と可成は言った。
勝とうとするな、とも言った。
守るつもりで立て、とも。
それらを全部、頭の中で何度も繰り返してきた。
だから今は、ただ闇雲に前へ出ない。相手の肩、腰、足の向きを見る。可成の槍ではなく、可成そのものを見る。
一歩。
二歩。
可成の足がわずかに沈む。
来る。
吉法師は受けに行かない。半歩だけずらし、自分の槍を外から差し込む。昨日までの自分ならここで手元が浮いた。だが今日は違う。肩の力を抜き、可成に教えられた通り、ただ届かせることだけを考える。
木と木が擦れる。
可成の目がほんのわずかに変わった。
次の瞬間、可成はいつものように巻き込もうとした。
だが吉法師は、その動きを一度見ていた。二度も三度も叩き込まれてきた。
「そこだ!」
思わず声が出る。
巻き込まれる直前、吉法師は木槍の握りを半寸だけ滑らせた。可成の力をまともに受けず、ずらす。完全ではない。だが、いつもよりほんの少しだけ間に合った。
可成の槍が外へ流れる。
一瞬。
本当に一瞬だけ、可成の胴が空いた。
吉法師は考えるより先に踏み込んでいた。
勝とうとしたのではない。
ただ、今だと思った。
木槍が伸びる。
乾いた音がした。
パシィッ――!
穂先ではない。
木槍の先が、可成の肩口を確かに打った。
稽古場が静まり返る。
小夜が目を見開く。
若侍たちも息を呑む。
平手政秀でさえ、一瞬だけ本当に何も言えなかった。
吉法師自身が、最初に信じられなかった。
「……当たった」
ぽつりとそう漏らす。
可成は半歩下がったまま、肩口を見た。
痛むほどの一撃ではない。
だが、確かに入った。
若殿の槍が、自分へ届いたのだ。
「森殿に……」
若侍の一人が思わず声を出す。
「今の、入ったぞ」
「見た」
「見たが……」
ざわめきが広がる。
ほんの小さな一撃だ。
勝負になったわけでもない。
可成が本気で打ち倒しにいった場面でもない。
だが、それでも意味は大きかった。
これまで叩きのめされるばかりだった吉法師が、初めて森可成へ一撃を入れたのだ。
小夜が、ふっと息を吐く。
「やるじゃない」
その声で、吉法師はようやく我に返った。
顔が一気に熱くなる。
嬉しい。
悔しさの中に混じっていた重さが、ほんの一瞬だけ吹き飛ぶ。
「見たか!」
思わず振り返って言うと、小夜は呆れ半分、笑い半分の顔をした。
「見てたわよ。うるさい」
「当たったぞ!」
「聞こえてる」
吉法師はそのまま可成へ向き直る。
「今のは」
言いかけて、少しだけ迷った。
褒めてくれ、と言いたいわけではない。
だが、どう言えばいいのか分からない。
可成は静かに答えた。
「入りました」
その一言で、吉法師の口元がはっきり上がった。
だが可成は、そこで終わらせなかった。
「しかし」
吉法師の笑みが、ぴたりと止まる。
「今ので満足するなら、次で死にます」
若侍たちが一斉に押し黙る。
小夜は「ああ、やっぱりそうなるのね」という顔をした。
可成は槍を立てたまま続ける。
「今の一撃は、たしかに良かった」
吉法師は黙って聞く。
「だが良かったのは、最後の突きだけではありませぬ。その前です」
「前?」
「はい。受け流した。焦らなかった。相手の力をまともに受けなかった。だから道ができた」
吉法師は、さっきの一瞬を思い返す。
そうだ。
ただ偶然届いたわけではない。
可成の槍を見て、昨日まで何度もやられた崩しを思い出し、半寸だけ手を滑らせた。そこで力を逃がせたから、あの一撃が入ったのだ。
「つまり」
「はい」
可成は頷く。
「当てようとして当たったのではない。崩れなかったから、結果として届いた」
その言葉が、すとんと腹へ落ちた。
吉法師は今まで、強さを前へ出ることだと思っていた。
早く、強く、激しく。
そうすれば勝てると、どこかで思っていた。
だが可成は違う。
崩れぬこと。
焦らぬこと。
相手を見ること。
その先にしか、本当の一撃はない。
「……面白い」
吉法師が言うと、小夜がすぐ横から口を挟んだ。
「またそれ」
「面白いのだから仕方あるまい」
「一撃入れて最初に出る感想がそれなの?」
「嬉しくないわけではない」
吉法師は少しだけ照れたように言う。
「だが、今のは嬉しいより先に分かった、という感じだ」
小夜は一瞬だけ、へえ、という顔をした。
可成はその言葉を聞いて、ほんのわずかに目を細めた。
「若殿」
「何だ」
「今の感覚を忘れるな」
「うむ」
「勝ったと思った瞬間、また元へ戻ります」
「分かっておる」
吉法師は木槍を握り直した。
さっきより手に馴染む気がする。
重さは変わらない。
腕も疲れている。
だが、ただ振り回される槍ではなくなり始めている。
「もう一度だ」
吉法師が言う。
小夜が吹き出した。
「まだやるの?」
「当然だ」
「今の一撃で終わりにしておけば、格好よかったのに」
「それでは次に届かぬ」
小夜は肩をすくめる。
「はいはい。そういうところが吉法師よね」
可成は静かに構えを取った。
「参る」
今度の声には、昨日までよりほんの少しだけ本気に近いものが混じっていた。
若殿が一撃入れた。
なら次は、その先を見せる。
そういう気配だった。
吉法師は笑った。
初めての一撃は、ただの偶然ではなかった。
それが分かった以上、もう後へは戻れない。
槍と槍が、再び交わる。
稽古場の空気は、さっきまでとはもう違っていた。
若殿はただ叩きのめされるだけの子供ではない。
森可成もまた、そう思い始めている。
そのことが、周囲にいる誰にもはっきり伝わっていた。




