第46話 武士とは何か
「遅い」
その一言と同時に、木槍の石突が吉法師の脇腹へ軽く入った。
「っ……!」
軽く、とはいえ痛い。
森可成の言う「軽く」は、たいてい他人にとってはまったく軽くない。
吉法師は顔をしかめながら半歩退いたが、すぐに木槍を構え直した。
朝の稽古場は、もうすっかり吉法師の悲鳴と可成の低い声が似合う場所になりつつある。若侍たちも最初の頃のようにいちいち驚かない。ただ、今日も若殿が叩きのめされているな、という顔で遠巻きに見ている。
小夜はいつものように端の木陰にいた。
腕を組み、半分は面白がり、半分は呆れている。
政秀は少し離れた場所で難しい顔をしている。
止めたい。だが止めれば吉法師は拗ねる。かといって見ているのも胃に悪い。そういう顔だ。
「もう一度」
吉法師が言う。
「当然です」
可成は相変わらず淡々としていた。
二人の足元で土が鳴る。
吉法師は踏み込む。
昨日よりはよくなっている。肩の力も少し抜け、足も前ほど大きく流れない。だが、それでも可成には届かない。
穂先を合わせた瞬間、可成の槍が外へ滑る。
次の瞬間には、木の柄が吉法師の手元を叩いていた。
「甘い」
木槍がぶれる。
その隙に可成の足が入る。
「うっ」
吉法師はたまらず膝をついた。
「そこまで」
可成が槍を引く。
吉法師は地面に手をついたまま、しばらく息を整えた。
悔しい。
だが立てぬほどではない。
そう思って立ち上がろうとした時、可成がふいに言った。
「若殿」
「何だ」
「なぜ槍を習いたいと思われた」
吉法師は少しだけ眉をひそめた。
「強くなりたいからだ」
即答だった。
可成はそれを否定しなかった。
だがすぐにも頷かなかった。
「強く、ですか」
「そうだ」
吉法師は立ち上がる。木槍を握り直しながら、まっすぐ可成を見た。
「弱ければ、止めたいものも止められぬ。勝ちたい相手にも勝てぬ。だから強くなる」
町の喧嘩で叩きのめされた夜を、吉法師はまだ忘れていない。
百姓の怒鳴り声も忘れていない。
城の中の理屈だけでは足りぬと、今はもう体で知っている。
可成は、そんな吉法師をしばらく見ていた。
やがて静かに言う。
「半分は正しい」
「半分か」
「はい」
可成は槍を立てたまま続ける。
「武士は強さだけではない。守る覚悟です」
その言葉に、吉法師は口を閉ざした。
若侍たちの間も静まる。
さっきまで土の音と息遣いばかりだった稽古場に、その一言だけがはっきり残る。
「守る、覚悟」
吉法師が繰り返す。
可成は頷いた。
「敵を倒すためだけに槍を持つなら、ただの喧嘩自慢でもよい」
その言い方に、吉法師は少しだけ顔をしかめた。
町の腕自慢に負けたことを思い出したのだろう。
可成は構わず続ける。
「だが武士は違う。主を守る。家を守る。民を守る。時には退いてでも守る。死ぬ覚悟より、守る覚悟の方が重い」
小夜は木陰で、その言葉をじっと聞いていた。
森可成は武骨な槍の男に見えるが、時おりこういうことを言う。
だから吉法師も、ただ強いだけの武人としては見ていないのだろう。
「守るための強さ、か」
吉法師が低く言う。
「はい」
「勝つためではなく」
「勝たねば守れぬこともある」
可成の答えはぶれない。
「だが、勝つことそのものへ心を奪われれば、守るべきものを見失う」
その一言に、吉法師は思わず黙った。
勝ちたい。
強くなりたい。
それは本心だ。
だが、その先に何があるかと問われると、まだうまく答えられない。
天下を取りたい、とは言える。
織田家を継ぐ、とも言える。
けれど、それが何を守るためなのかを、まだ言葉にしきれてはいない。
「若殿」
可成が一歩近づく。
「槍は、人を倒すだけの道具ではありませぬ」
吉法師は顔を上げた。
「道を塞ぐためにも使う。押し返すためにも使う。近づかせぬためにも使う。そうして、後ろにあるものを守る」
可成の声は低い。
だが、はっきり届く。
「後ろにあるもの、とは何だ」
吉法師が訊く。
「その時々で違います」
可成は答えた。
「主であり、家族であり、城であり、民でありましょう」
そこまで言ってから、少しだけ目を細めた。
「若殿なら、いずれもっと大きなものを後ろに置くことになるやもしれませぬ」
政秀がその言葉にわずかに顔を上げた。
若侍たちも、何となく息を詰める。
だが吉法師は、そこを大げさには受け取らなかった。
今はまだ、可成の言う「守る覚悟」の方が胸に残っていた。
「町の喧嘩とは違うな」
ぽつりと言う。
可成は少しだけ口元を緩めた。
「違います」
「町の喧嘩は、自分の意地のために殴る」
「そういうものもありましょう」
「だが武士は違う」
「違わねば困ります」
その返しに、吉法師は小さく笑った。
そして真顔へ戻る。
「守る覚悟、か」
その言葉を、今度は少しゆっくり噛みしめた。
家を守る。
父を守る。
弟を守る。
民を守る。
そういうことを、本気で考えたことが自分にあっただろうか。
考えていないわけではない。
だが、もっと曖昧だった。
「勝つ」が先にあり、その先に家があるような考え方だった気がする。
可成は、そうではないと言っている。
守るものが先だ。
強さは、そのためのものだと。
「もう一度だ」
吉法師が言う。
可成は頷いた。
「今度は、何を考えて槍を出されます」
吉法師は少しだけ考えた。
それから、木槍を構える。
「後ろにあるものを、取らせぬ」
可成の目が、ほんのわずかに鋭くなった。
「よろしい」
次の瞬間、また槍が交わる。
だが今度の吉法師は、昨日までとは少し違っていた。
勝ちたい、だけで前へ出ない。
自分がどう見えるかより、相手をどう止めるかを考えている。
まだ粗い。
まだ甘い。
だが、その粗さの奥に、少しだけ別の芯が通り始めたのを、可成は感じていた。
穂先がぶつかる。
可成が圧をかける。
吉法師は踏ん張る。
押し返せはしない。
だが、簡単には崩れない。
「ほう」
可成が初めて声を漏らす。
吉法師は、その一瞬の隙を見て槍を伸ばした。
届きはしない。
だが可成の袖をかすめた。
若侍たちがわずかにざわめく。
小夜も目を細めた。
「変わった」
小さく呟くと、隣の若侍が頷いた。
「はい。今のは、昨日までと違いました」
可成は槍を引き、そこで一度止めた。
「今日はそこまで」
「まだだ」
「よくありませぬ」
「何がだ」
「今、良いところで終えるのが肝要にございます」
吉法師は不満そうな顔をしたが、可成の目が真剣なのを見て、文句を飲み込んだ。
可成は木槍を受け取りながら、低く言う。
「忘れぬことです」
「何をだ」
「強さは、自分を満足させるためのものではない」
吉法師は黙って聞く。
「守る覚悟があるから、強さに意味が生まれる」
その言葉は、今度はもう、槍の稽古の話だけではなかった。
吉法師はしばらく土を見ていたが、やがて小さく頷いた。
「……うむ」
その返事は短かったが、軽くはなかった。
小夜はその横顔を見て、少しだけ不思議そうな顔をした。
可成の言葉は、吉法師の中でちゃんと沈んでいる。
いつものようにその場だけ面白がって終わるのではなく、何か別のところへ届いている気がした。
政秀もまた、その様子を黙って見ていた。
若殿はまだ粗い。
危うい。
夢ばかり大きく、現実を飛び越えるところもある。
だが、こうして一つずつ学んでいくのなら――
そこまで考えて、政秀はすぐに自分の期待を戒めた。
期待しすぎると、失望も大きい。
若殿はそういうお方だ。
それでも、今朝の稽古場には、昨日までとは少し違うものが確かにあった。
ただ強くなりたいだけの少年が、強さの先に何があるかを初めて考え始めた、その気配が。




