第45話 小夜の忍び術
「足音がうるさい」
小夜は開口一番、そう言った。
吉法師は思わず足を止めた。
止めたせいで、踏みしめた砂利がじゃりっと鳴る。
小夜は腕を組み、いかにも「ほら見ろ」と言いたげな顔をした。
「今の」
「今のが何だ」
「その音」
吉法師は眉をひそめる。
森可成の地獄のような稽古が終わったあと、さすがにそのまま城へ戻って大人しくしている気にはなれなかった。脇も肩も痛い。だが、叩きのめされたまま寝るのはもっと癪だった。そんな吉法師を見て、小夜が「じゃあ別のことを教えてあげる」と言い出したのが、ついさっきである。
連れて来られたのは、城外れの竹藪の近くだった。
人通りは少なく、土はやわらかい。風が吹くと竹が擦れて、かすかな音を立てる。忍びが何かするには、たしかに都合のよさそうな場所だった。
だが、始まってすぐにこれである。
「足音がうるさいって、歩けば鳴るだろう」
「だから、鳴らさないの」
「そんな阿呆な」
「阿呆に教えてるのは私なんだけど」
その返しが小夜らしくて、吉法師は少しむっとした。
「言うな」
「じゃあ静かに歩いて」
「どうやってだ」
「それを教えるのよ」
小夜は、すっと一歩前へ出た。
土の上を歩く。
歩いた、はずなのに、音がほとんどしない。草が揺れた気配と、衣の端がわずかに擦れる気配があるだけだ。吉法師は目を細めた。
「今のはずるい」
「何が」
「軽いからだ」
「あなたより小さいから?」
「うむ」
「じゃあ、大きい人間は全員忍びになれないの?」
「……それは違う」
「でしょ」
小夜はそこでしゃがみ込み、地面を指で叩いた。
「足を下ろす時に、いきなり全部の重みを乗せない」
「全部乗せぬ?」
「つま先から、じゃない。かかとから、でもない。足の外側から、少しずつ」
吉法師は聞きながら、自分の足元を見た。
小夜の言うことは細かい。だが、槍の稽古でも森可成が似たようなことを言っていたのを思い出す。全部を一度にやるから崩れる。勝とうとするから雑になる。そういう理屈は、どうやら忍びの足にも通じるらしい。
「やってみろ」
小夜が言う。
「うむ」
吉法師は一歩踏み出す。
じゃり。
小夜が無言でこちらを見る。
「……少し鳴ったな」
「かなり鳴ったわ」
「風の音に紛れぬか」
「紛れない」
もう一歩。
ざり。
「もっと鳴った」
「今のは分かった」
「分かるの遅いのよ」
吉法師は顔をしかめながら、もう一度最初からやり直す。
今度は、少しだけゆっくり。
小夜に言われた通り、足の外から重みを乗せてみる。
するとたしかに、さっきよりは音が小さい。
「どうだ」
「まだ重い」
「重いのか」
「歩いてるっていうより、踏んでるの」
吉法師はまた少し考えた。
「歩くと踏むは違うのか」
「違うわよ」
小夜は当然のように言う。
「踏むのは、地面に自分を押しつけてる。歩くのは、地面を借りてる感じ」
「分かりづらい」
「感覚で覚えて」
「一番困る言い方だ」
小夜はくすっと笑う。
だが、その笑い方は意地悪というより、少し楽しそうだった。吉法師に何かを教えるのは面倒だ。けれど、面倒なわりに飲み込みが早い時がある。森可成の槍を見ていた時の目もそうだった。今もまた、一度はできなくても、できぬまま投げる顔ではない。
「もう一度」
小夜が言う。
吉法師は頷いた。
何度か繰り返すうちに、土の鳴り方が少し変わった。
完全に消えはしない。だが最初の「じゃりっ」からは、だいぶ遠くなった。
小夜が目を細める。
「……少しはまし」
「それだけか」
「初日に完璧にできたら気味悪いわ」
「そうか」
「でも、最初よりはずっといい」
それは褒めたのだろう。
言い方は相変わらず可愛げがないが、吉法師にはそれで十分だった。
「次は?」
「次は視線」
「視線?」
「うん」
小夜は近くの竹へ寄りかかり、吉法師を見た。
「人ってね、見られてると分かるの」
「分かるな」
「あなたは特に分かりやすい方」
「そうか?」
「だって隠れる気がないもの」
それは否定できなかった。
小夜は竹から離れ、少し距離を取った。
そして何でもないような顔で、吉法師の後ろへ回る。
「今から、私がどこを見るか当てて」
「何?」
「視線を読むの」
吉法師は怪訝そうな顔をしたが、とりあえず言われた通り前を向いた。
小夜の気配が、右へ動く。
いや、左か。
足音がほとんどないので、位置は気配で取るしかない。
「今、どこを見てた」
声が背後から飛ぶ。
吉法師は少し考えた。
「……腰」
「違う」
「では肩」
「違う」
「顔か」
「それは見てない」
「なぜだ」
「顔を見続けるのは下手な忍び」
小夜が答える。
「人は顔を見られると気づきやすいから、肩、手、足、腰、そういうところで様子を見るの」
吉法師は振り返った。
「では今は」
「あなたの右足」
「何故だ」
「踏み込む癖が出るから」
そう言われて、吉法師は思わず足元を見た。
森可成にも何度も言われた。
足が先に出すぎる。
勝ちたがると足元が雑になる。
小夜は武芸者ではないが、人を見るという意味で、やはり同じところを見ているのだろう。
「つまり」
吉法師が言う。
「視線を読むとは、相手が何を気にしておるかを見るのか」
小夜は少しだけ嬉しそうに頷いた。
「そう」
「どこを見るかで、何を怖がっているか、何を狙っているかが分かる」
「全部じゃないけどね」
「面白いな」
「はい、出ました」
小夜が呆れた顔をする。
「またそれ」
「面白いものは面白い」
「まあ、分かるけど」
今度は小夜の方が少しだけ照れたようにそっぽを向いた。
吉法師は、少し真面目な顔になる。
「おぬし、いつもそうしておるのか」
「そうよ」
「人の顔ではなく、足や手を見る」
「顔も見るわよ。だけど顔だけじゃ足りない」
小夜は指を二本立てた。
「口は嘘をつく。目も嘘をつく。けど、肩とか足は遅れる」
「遅れる?」
「本心に」
その言い方が妙に刺さった。
吉法師は、城の中の家臣たちを思い出した。
礼を尽くし、丁寧な言葉を使いながら、腹の底では別のことを思っている者たち。
あの時、彼らの口ではなく、肩や足を見ていたら、もっと早く何か分かったのだろうか。
「やってみるか」
吉法師が言う。
「何を?」
「おぬしを読む」
小夜はきょとんとした。
「私?」
「うむ」
「難しいわよ」
「そうだろうな」
そう言いながらも、吉法師はすでに小夜を見ていた。
顔だけではない。
肩。
手。
足。
小夜は一見、平然としている。だがよく見れば、少しだけ左足へ重心が寄っていた。すぐ動けるように、いつでも逃げられるようにしているのだろう。袖の中の手も、完全には脱力していない。何かあればすぐ動く手だ。
「おぬし」
「なによ」
「まだ完全には油断しておらぬな」
小夜の目がわずかに丸くなった。
「……急に何」
「逃げる足を残しておる」
「それは」
小夜は言いかけて、やめた。
たしかにその通りだったからだ。
吉法師はさらに言う。
「だが、昨日よりは近い」
「近い?」
「うむ。最初に会った時は、もっと遠かった」
それは距離のことではない。
気配のことだ。
小夜にもそれはすぐ分かった。
少し黙ってから、小夜はわざとらしくため息をつく。
「やだ」
「何が」
「そういうところ、急に鋭いの」
吉法師は少しだけ笑った。
「おぬしが教えた」
「教えたけど、そうすぐ返してこないでよ」
その文句が妙に子供っぽくて、吉法師はまた笑った。
しばらく二人で、足を静かに運ぶ練習と、視線を読む真似事を繰り返した。
小夜がわざと別の場所を見る。
吉法師がそれを当てる。
時々外す。
外すたびに小夜が「まだまだ」と笑う。
森可成の稽古とはまるで違う。
あちらは痛みと重みで体へ叩き込まれる。
こちらは、気づけば少し見え方が変わっている、そんな教わり方だった。
やがて小夜が空を見上げた。
「今日はここまで」
「もうか」
「もうよ」
「まだ足音が残っておる」
「最初よりずっとまし」
「槍より優しいな」
「槍と同じにされたくない」
小夜はむっとしたが、少ししてから笑った。
「でも、こっちの方があなた向きかも」
「何故だ」
「人を見るのは、もともと上手いから」
吉法師は少し黙った。
褒められたのか、それとも別の意味か、すぐには決めかねた。
だが悪い気はしなかった。
「明日もやるか」
吉法師が言うと、小夜は肩をすくめる。
「見張り役だもの」
「なら堂々と来い」
「はいはい」
そう言って、小夜は先に歩き出した。
その背中を見ながら、吉法師は思う。
槍は強さを教える。
忍びの術は見えぬものを教える。
どちらも、自分の知らぬ世界だ。
そしてそのどちらも、自分に足りぬものだった。
夜風が竹を鳴らした。
吉法師は今度は少しだけ足音を小さくして、小夜の後を追った。




