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第44話 地獄の稽古

「立て」


朝から何度目か分からぬその声に、吉法師は歯を食いしばった。


「……分かっておる」


そう返したものの、声にいつもの勢いはない。

土の上へ片膝をついたまま息を整え、木槍を支えにしてどうにか立ち上がる。腕が重い。足も重い。肩と脇腹は昨日の痛みがまだ残っているのに、そこへ今朝の打ち身がさらに増えていた。


森可成は、そんな吉法師を待ってはくれるが、甘やかしはしなかった。


「構え」


「うむ」


「遅い」


「今からやるところだ」


「戦で相手は待ちませぬ」


「分かっておる」


言い返しながらも、吉法師はちゃんと構えを取り直す。

昨日より少し低く、昨日より少し肩の力を抜いて。

だが、それでも可成の前ではまだ甘い。


稽古場の土は、朝露が引いてちょうどよく締まっていた。

若侍たちは少し離れたところでそれを見ている。誰も笑わない。昨日の段階で、若殿が気まぐれで槍に手を出しているのではないと分かったからだ。だが同時に、森可成の稽古が予想以上に苛烈だということも、皆うすうす感じ始めていた。


小夜は木陰に座り、膝を抱えてその様子を見ていた。


「容赦ないわね」


ぽつりと言うと、隣にいた若侍が苦笑する。


「森殿は、誰にでもああです」


「でも相手は若殿でしょう」


「だからこそ、かもしれませぬ」


小夜は目を細めた。


たしかに可成の顔には、いかにも「若殿だから手加減している」という色が少しもない。

むしろ、若殿だからこそ最初に叩き込んでおく、という頑固さに見える。


「参る」


可成が一言だけ告げた。


次の瞬間には、もう槍が来ている。


吉法師は受ける。

受けた、つもりだった。


だが穂先を抑えたと思った瞬間、手元をするりと外される。可成の槍は重いはずなのに、妙に軽く動く。いや、軽いのではない。吉法師が力任せに止めようとするから、その力をそのまま流されているのだ。


「足!」


可成の声が飛ぶ。


吉法師が気づいた時には遅い。前へ出しすぎた右足を石突で払われ、体が大きく崩れた。踏みとどまろうとした瞬間、肩へ槍の柄が入る。


「っ!」


どさり、と土へ尻餅をつく。


「今のは見えておったか」


可成が訊く。


吉法師は顔をしかめながら答えた。


「半分」


「半分では死にます」


「死なん」


「死にます」


可成はあっさり言った。


「半分見えた、は、半分見えておらぬのと同じです」


吉法師は唇を引き結ぶ。


悔しい。

だが、言い返せない。

今の一撃はたしかに、戦なら終わっていた。


「立て」


可成がまた言う。


吉法師は木槍を拾って立ち上がる。

土が袴につく。息が上がる。だが、休ませてくれとは言いたくなかった。


「もう一度」


今度は吉法師の方から言った。


可成は、ほんのわずかだけ目を細めた。


「参る」


また速い。


今度こそ足を見る。

肩を見る。

穂先に釣られるな、と昨日から散々言われた。

だから見るべきは穂先ではなく、相手の腰と足だ。


そう思った瞬間、可成の体がふっと沈んだ。


来る。


吉法師は槍を出す。

悪くなかった。

少なくとも昨日の自分なら、もっと大きく崩れていた。


だが可成は、そのわずかにましになった動きを見た上で、その先を行く。

ぶつかる直前に槍の軌道を変え、吉法師の木槍へ絡めるように当てる。

次の瞬間、手元が跳ね上がり、吉法師の握りがずれる。


「しまっ――」


言い終わる前に、可成の踏み込みが腹の前で止まる。

穂先は届いていない。

だが届かせる場所まで、完全に入られていた。


「遅い」


またそれだ。


吉法師は歯を食いしばった。


何度も何度も、同じ言葉を浴びせられる。

悔しい。

だが可成は、悔しがる暇があるなら次を見ろと言わんばかりに、すぐに槍を引いた。


「若殿」


「何だ」


「勝ちたがりすぎです」


「勝たねばならぬだろう」


「だから焦る」


可成の声は低く、揺れない。


「勝つことばかり考えるから、今の一手が雑になる。まず崩れぬこと。次に届かせること。そのあとです」


吉法師は、息を整えながら可成を睨んだ。


「戦では悠長なことを言っておれぬ」


「だからこそ、です」


可成はぴしゃりと言い切る。


「焦る者から死にます」


その言葉が、吉法師の胸へ深く入った。


町の喧嘩でもそうだった。

強い相手を前にして、どうにかしようと焦った。

結果、何もできず叩きのめされた。

可成の前でも同じだ。勝ちたい、追いつきたい、届かせたい、その気持ちばかりが先へ出るから、体が崩れる。


「もう一度だ」


吉法師が言う。


「当然です」


可成が応じる。


今度は短いやり取りすらほとんどなくなった。


槍が鳴る。

土を蹴る音。

息。

可成の短い声。


「高い」

「踏み込みすぎ」

「目が先に逃げておる」

「力むな」

「そこだ」

「違う」


そのたびに吉法師は打たれ、崩され、倒された。


脇。

肩。

腿。

手首。


どれも致命ではない。

だが全部、痛い。

そして何より、全部「そこで崩れる」という場所を選ばれているのが分かる。


稽古を見ていた若侍のひとりが、小さく呟いた。


「……えげつないな」


隣の男がすぐ肘で小突く。


「聞こえるぞ」


「いや、だが……」


本当にその通りだった。

可成は感情で叩いているのではない。ただ若殿を痛めつけたいわけでもない。だが、弱いところ、崩れるところ、癖が出るところを容赦なく打ち抜いてくる。だから見ている方が痛くなる。


小夜も、最初は面白がる顔をしていたが、さすがに途中から少し眉をひそめていた。


「やりすぎじゃないの」


思わずそう呟くと、近くにいた若侍が首を横に振る。


「森殿は、あれでも加減しておるのでしょう」


「嘘でしょ」


「本気なら、もっと立てませぬ」


小夜は黙った。


たしかに、そうかもしれない。

今の可成は、ちゃんと吉法師が立てる範囲で叩いている。

だがその“立てる範囲”が、忍びの少女から見てもだいぶ厳しい。


その時だった。


「そこまで!」


平手政秀の声が、ついに飛んだ。


可成の槍が止まる。

ちょうど吉法師の胸元へ石突が入る寸前だった。


「平手殿」


可成は槍を引く。


政秀はもう我慢の限界だったらしい。稽古場の真ん中までずかずか歩いてきて、地面に片膝をついたままの吉法師を見て、露骨に顔をしかめた。


「吉法師様!」


「何だ」


「何だ、ではありませぬ!」


政秀はほとんど怒鳴る。


「お顔は土だらけ、肩は赤い、足元もふらついておるではありませぬか!」


吉法師は、たしかに少しふらついていた。

だがそれを指摘されるのが嫌だったのか、すぐに立ち上がろうとして――


ぐらり、と体が揺れた。


小夜が思わず「ほら」と小さく言う。

若侍たちの間からも、さすがに小さなどよめきが起こる。


政秀が顔を覆った。


「見なさい! だから申し上げたのです!」


吉法師はどうにか踏みとどまり、忌々しそうに言う。


「まだやれる」


「やれておりませぬ」


「やれる」


「やれておりませぬ!」


このやり取りはもう恒例だった。


可成がその横で静かに口を開く。


「平手殿」


「何です」


「若殿は、まだ立とうとしておられる」


政秀はぴたりと黙る。


可成は続ける。


「ならば、今日はここで止めて、明日また立たせればよい」


「……」


「無理に続ければ、ただ痛みだけ覚えます。今日はこれで十分にございます」


その言い方は冷静だった。

だからこそ、政秀も反論しにくい。


吉法師は不満そうに可成を見る。


「まだだ」


「若殿」


可成が初めて少しだけ強い声を出した。


「今日覚えるべきは、ここまでにございます」


吉法師は口を閉ざした。


そこには逆らいにくいものがあった。

可成は、ただ止めているのではない。

「ここまでが今日の稽古だ」と線を引いているのだ。

叩きのめす時と同じように、終える時もまた迷いがない。


しばらくして、吉法師はようやく息を吐いた。


「……分かった」


その言葉に、政秀があからさまに安堵の顔をした。

小夜も小さく肩の力を抜く。


可成は槍を下ろし、静かに言った。


「明日もございます」


その一言で、吉法師の目にまた火が戻る。


「うむ」


政秀は頭を抱えた。


「明日も、でございますか……」


「当然だ」


吉法師が言う。


「今日のままでは終われぬ」


可成は、ほんのわずかだけ口元を緩めたように見えた。


「その意気で」


稽古場の空気が、少しだけ変わっていた。


最初は「若殿が珍しいことを始めた」と見ていた若侍たちも、もうそうは見ていない。叩きのめされても立つ。悔しがっても逃げない。言い訳をせず、明日もやると言う。その姿を見れば、ただの気まぐれではないと分かる。


小夜は木陰から立ち上がり、ぼそりと言った。


「ほんと、地獄ね」


それは可成の稽古にも、吉法師の負けず嫌いにも向けた言葉だった。


そしてその地獄は、明日も続くらしい。

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