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第43話 殿でも容赦せぬ

「では、始めましょう」


 森可成はそう言って、槍を静かに持ち直した。


 朝の稽古場には、まだ冷たい空気が残っている。

 踏み固められた土の上には昨夜の湿りがわずかに残り、端に立つ武具掛けには木槍や木刀が整然と並べられていた。若侍たちは少し離れた場所へ下がり、皆、妙に落ち着かない顔でこちらを見ている。


 無理もない。


 織田家の嫡男・吉法師が、森可成に槍を習う。

 しかも、今からその初日だ。


 面白がっている者もいる。

 心配している者もいる。

 そして平手政秀は、露骨に嫌そうな顔をしていた。


「森殿」


 政秀が低い声で言う。


「くれぐれも、ほどほどに」


 可成は振り向きもせず答えた。


「無理にござる」


「無理とは何です」


「稽古で手加減を覚えれば、戦で死にます」


 政秀の眉間に深い皺が寄る。


「相手は吉法師様ですぞ」


「だからこそでござる」


 ようやく可成が政秀へ目を向けた。


「若殿が本気で学ぶおつもりなら、こちらも本気で向き合わねば意味がありませぬ」


 その言葉は静かだったが、押し返しようのない固さがあった。


 吉法師はその横で、いかにも嬉しそうに笑った。


「うむ、それでよい」


「吉法師様は黙っておられよ!」


 政秀がすかさず怒鳴る。


「今から叩きのめされるのは、他でもない若殿にございますぞ!」


「叩きのめされて覚えるなら、それでよい」


「そういうところです!」


 小夜は稽古場の端で腕を組み、そのやり取りを見ていた。

 相変わらずだな、という顔である。


「本当にやるのね」


 ぼそりと呟くと、近くにいた若侍が苦笑した。


「やるのでしょうな……」


「止めないの?」


「止まるお方なら、平手様の白髪も半分で済んでおります」


 それには小夜も少しだけ納得した。


 可成は武具掛けのところへ歩き、一本の木槍を取った。

 穂先こそ木だが、長さも重さも軽いものではない。遊びの道具ではなく、きちんとした稽古用だ。


「若殿」


「うむ」


「これを」


 吉法師は木槍を受け取り、軽く振ってみる。


「長いな」


「槍ですから」


「木刀とは違う」


「当たり前にござる」


 可成は淡々としている。


 吉法師は握りを確かめながら、少しだけ顔を引き締めた。木刀なら慣れている。だが槍は違う。重心が遠い。少し動かすだけでも、先の動きが遅れてついてくる。体の近くにある刀と違い、手の中にある感覚が薄い。


 それが面白くもあり、難しくもあった。


「構えてみなされ」


 可成が言う。


 吉法師は見よう見まねで槍を立てた。

 右足を少し引き、腰を落とし、穂先を相手へ向ける。


 すぐに可成の声が飛ぶ。


「高い」


「高いか」


「腰も浮いております」


「こうか」


「肩に力が入りすぎです」


「面倒だな」


「槍は面倒なものです」


 そのやり取りに、若侍たちの間で小さな笑いが漏れた。


 だが次の瞬間、可成の声がぴしゃりと響く。


「笑うな」


 空気が凍る。


「若殿は今、槍を覚えようとしておる。笑う暇があるなら、自分の未熟を恥じよ」


 若侍たちは一斉に頭を下げた。


 吉法師は、可成を見て少しだけ目を細めた。

 この男、面白い。

 自分に甘くないのはもちろんだが、周りにも同じだけ厳しい。


「よし」


 可成が一歩下がった。


「参ります」


「来い」


 吉法師がそう言った時には、もう可成は動いていた。


 速い。


 だが昨日見た時とは違い、今朝のそれはさらに近かった。

 近いからこそ分かる。

 恐ろしいのは槍の先だけではない。

 足だ。腰だ。踏み込む気配そのものが、一息早い。


「っ」


 吉法師は反射で木槍を前へ出した。

 だが遅い。

 可成の槍はすでにその外にあり、次の瞬間には石突が吉法師の脇腹へ軽く当たっていた。


 軽く、ではある。

 だが十分に痛い。


「ぐっ」


「遅い」


 可成が言う。


 さっき若侍たちへ向けたのと同じ言葉だ。

 そこに遠慮はない。


 吉法師は顔をしかめながらも、すぐに構え直す。


「もう一度」


「当然です」


 可成は間髪入れずに踏み込んだ。


 今度こそ、と吉法師は思う。

 目で追う。足を見る。昨夜から可成の動きは頭に焼きついている。

 だが分かることと、止められることは違った。


 穂先がぶつかる。

 その感触に一瞬だけ意識を取られた瞬間、木槍が上へ逸らされた。

 次の瞬間には、可成の足が内へ入り、肩がぶつかる。

 吉法師の体がたまらず後ろへよろめいた。


「槍を見るな」


 可成の声が飛ぶ。


「相手を見よ」


 吉法師は歯を食いしばる。


 分かっている。

 だが、いざ目の前へ槍が来ると、どうしてもそちらへ目が吸われる。

 武器を見れば、相手の体が消える。

 相手を見れば、穂先が怖い。


 その迷いを、可成はきっちり突いてくる。


 三度目も、四度目も同じだった。


 脇を打たれ、肩を崩され、足を払われる。

 倒されるほどではない。

 だが、「勝負にすらなっていない」と分かる程度には、完全にあしらわれていた。


 小夜は端でその様子を見ながら、小さく呟いた。


「本当に容赦ない」


 政秀が深々と息を吐く。


「だから申し上げたのです……」


 だが可成は少しも手を緩めない。


「若殿」


「何だ」


「突く前に、勝とうとなさるな」


 吉法師は眉をひそめた。


「どういうことだ」


「勝ちたいと思うから、大きく踏み込む。大きく踏み込むから、形が崩れる」


「ではどうする」


「ただ届かせることだけ考えよ」


 可成はそう言って、もう一度構えた。


「来なされ」


 今度は吉法師が先に動く。


 踏み込みを小さくする。

 肩の力を抜く。

 勝つではなく、届かせる。


 木槍が伸びる。


 可成はそれを半歩だけ外した。

 しかし今までとは違い、穂先が確かに可成の袖を掠めた。


 若侍たちの空気がわずかに変わる。


「今のは」


「惜しい」


「いや、少し近づいたぞ」


 小さなざわめきが起こる。


 吉法師自身も、それを感じていた。

 届かぬと思っていた距離が、ほんの少しだけ近づいたのだ。


 可成の目も、わずかに変わる。


「その通り」


「うむ」


「今の感覚を忘れるな」


 その言葉に、吉法師の口元が少し上がる。


「面白くなってきた」


 可成は頷いた。


「やっとです」


 それからは、言葉より音の方が多くなった。


 木槍がぶつかる音。

 足が土を踏む音。

 可成の短い指摘。

 吉法師の荒くなる息。


 汗が額から落ちる。

 脇腹はまだ痛む。

 肩も重い。

 だが、不思議と嫌ではなかった。


 叩きのめされている。

 手加減もされていない。

 それなのに、前へ進めば進むほど、少しずつ見えるものが増えていく。


 可成の踏み込みの癖。

 腰の沈み。

 穂先ではなく、肩が先に動く瞬間。

 そういうものが、ようやく目に入ってきた。


「そこまで」


 しばらくして、可成が槍を下ろした。


 吉法師は思わず「まだだ」と言いかけたが、足が少しふらついたので飲み込んだ。どうやら体の方は、もう十分だと言っているらしい。


 可成は木槍を受け取りながら言う。


「今日のところはここまでにございます」


「早いな」


「十分にございます」


「まだ覚えきっておらぬ」


「一日で覚えきれるなら、誰も苦労はいたしませぬ」


 その返しに、吉法師は少しだけ笑った。


 息は荒い。

 腕も重い。

 だが目だけは、来た時よりずっと生き生きしていた。


 可成は、そんな若殿を見て静かに言う。


「申し上げたはずです」


「何をだ」


「殿でも手加減せぬ、と」


 吉法師は肩で息をしながら頷いた。


「うむ」


「嫌になりましたか」


 その問いに、吉法師は即答した。


「まさか」


 そして、いかにも楽しそうに笑う。


「明日もやるぞ」


 政秀がまた天を仰いだ。

 小夜は今度こそ、はっきりと笑った。


 森可成は槍を立てたまま、ほんのわずかだけ口元を緩める。


「承知仕った」


 稽古場の空気は、朝より少しだけ変わっていた。

 若侍たちは、若殿がただ気まぐれに遊んでいるのではないことを見た。

 可成は、若殿が叩かれても食らいついてくることを見た。

 そして吉法師は、自分がまだ弱いことを知った上で、それでも前へ出る道があることを知った。


 槍の鬼との稽古は、始まったばかりだった。

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