第42話 槍の鬼
「もう一度だ」
吉法師が言うと、森可成はわずかに目を細めた。
「若殿は、飽きませぬな」
「飽きるか。今のは二度見ても足りぬ」
その言い方に、稽古場の若侍たちがまた顔を見合わせる。
普通の若殿なら、強いとか見事だとか、そういう褒め言葉を口にして終わる。だが吉法師は違う。もっと見たい、もっと知りたい、と思ったらそのまま言葉になる。遠慮も飾りもない。
可成は、そんな吉法師をしばらく見ていたが、やがて槍を軽く払った。
「なら、ご覧ください」
低い声が、稽古場へすっと通る。
「三人、前へ」
呼ばれた若侍たちは一瞬ぎょっとした。
三人。
一人ではない。
森可成の槍が強いことは、さっきので皆思い知っている。そこへ三人同時にかかれというのだ。
「どうした」
可成の声は変わらない。
「武士は一人の敵しか相手にせぬと、誰が申した」
若侍たちは慌てて前へ出た。
顔つきは緊張でこわばっているが、それでも逃げはしない。逃げればもっと恥だと知っているのだろう。
吉法師は、いつの間にか一番見やすい場所まで進み出ていた。
小夜もその少し後ろへ来る。
平手政秀は「危のうございますから、もう少し下がって……」と言いかけたが、どうせ聞かぬと分かって途中で諦めた。
「始め」
可成の言葉と同時に、三人の若侍が動いた。
左右から二人、少し遅れて正面から一人。悪くない連携に見えた。少なくとも、素人の吉法師にはそう見えた。だが次の瞬間、その“悪くない”は一息で崩れる。
可成は下がらなかった。
まず一歩、斜めに踏み込む。
それだけで正面から来た若侍の槍筋がずれる。
そこへ穂先がひらりと走り、相手の手元を叩く。若侍の槍がぶれたところへ、石突が胴へ入る。
「ぐっ」
呻いた若侍がよろめく。
その時には、もう可成の体は左へ開いていた。
左から来た男の槍を受けず、槍の中ほどで巻き込み、力の流れをずらして横へ逃がす。勢いのついた若侍はそのまま前へつんのめる。可成はその背へ肩を当て、軽く押すだけで地へ転ばせた。
残る一人が、慌てて横から突き込む。
だが可成は、それを待っていたように見えた。
槍が、鳴った。
金物ではない。木と空気の擦れる鋭い音だ。
次の瞬間、若侍の喉元に穂先がぴたりと止まっていた。
「遅い」
可成は短く言った。
稽古場が静まり返る。
三人だ。
それなのに、まるで一人ずつ相手にしたような速さだった。
いや、一人ずつではない。同時に見て、同時に崩している。そこが恐ろしい。
吉法師は目を輝かせていた。
「ほう……!」
その声には、驚きより歓喜が多く混じっている。
強いものを見た時の顔だ。
しかも、ただ「すごい」で終わる顔ではない。どうなっているのか、どこが違うのか、自分の頭で飲み込もうとする顔だった。
可成は槍を下ろし、倒れた若侍たちへ言う。
「立て」
三人は慌てて起き上がる。
「三人が悪いのではない」
可成は静かに続けた。
「槍を相手ではなく、自分の形のために出した」
若侍たちが息を整えながら顔を上げる。
「正しく構えよう、綺麗に突こうと考えたな」
誰も答えない。
だが図星なのだろう。
可成は槍の穂先を軽く地へ向けた。
「形は要る。だが戦では、形の通りには来ぬ。相手の息、足、迷いを見る前に、自分の槍ばかり見ておれば、すぐに遅れる」
吉法師は、まばたきも忘れたように聞いていた。
その言葉は、ただの稽古の話ではない。
戦の話だ。
相手を見る。
迷いを見る。
自分の形より先に、相手の動きを取る。
どこか、小夜の忍びの話にも似ている。
人の気配を読むという意味で、剣も槍も忍びも、根は同じところにあるのかもしれぬと、吉法師は思った。
「森可成」
我慢できなくなったように吉法師が口を開く。
「は」
「今の、もう一度やれ」
若侍たちがまた顔を見合わせる。
政秀は額を押さえた。
小夜はとうとう小さく笑った。
「やっぱりそうなるのね」
可成だけは動じない。
「ご覧になっておられたでしょう」
「見た」
「なら」
「見たが、分からぬ」
吉法師はきっぱり言った。
「分からぬから、もう一度だ」
その理屈があまりにも真っ直ぐで、可成の口元がほんの少しだけ動いた。笑ったのかどうか、見ていた者には分からぬ程度だったが、吉法師だけは何となくそれを感じ取った。
「よろしい」
可成は言う。
「ただし今度は、若殿も目で追ってくだされ」
「追っておる」
「足も」
「足もか」
「槍だけ見ていては半分です」
その言葉に、吉法師はますます嬉しそうな顔になった。
教える気だ。
この男は、ただ見せて終わるつもりではない。
可成は再び若侍を三人呼んだ。
今度は少し顔ぶれを変える。背の高い者、踏み込みの軽い者、槍を持つ手の強そうな者。わざと違う型を揃えたのだと、小夜にも分かった。
「始め」
二度目が始まる。
今度、吉法師は可成の槍だけを見なかった。
言われた通り、足も見た。
可成の腰の向き、肩の開き、踏み込みの角度。
見れば見るほど、妙だった。
速いだけではない。
無駄が少ないだけでもない。
まるで最初から、相手がどこへ来るか知っているように動く。
いや、知っているのではない。
相手にそう来させているのだ。
正面から来た若侍へ半歩だけ圧をかける。すると相手は詰まる。
左の男へ体を向けるふりをする。すると右の男が焦る。
その焦りへ先に槍が届く。
「そこか……!」
吉法師が思わず呟いた。
可成の槍は、ただ相手の槍を弾いているのではない。
相手の心の遅れを突いている。
可成は最後の一人の槍を抑えたまま、ちらりと吉法師を見た。
「分かりましたか」
「少しだ」
「何が」
「相手を動かしておる」
可成は今度こそ、わずかにはっきり頷いた。
「そうです」
その一言で、吉法師の胸が熱くなった。
合っていた。
見えたのだ。
この槍の恐ろしさが、少しだけでも自分に。
若侍たちの方は、三人ともまたしてもあっさり地に転がされた。今度は悔しさより、ぽかんとした顔をしている。自分たちが何をされたのか、全部は飲み込めていないのだろう。
「槍は長い」
可成が言う。
「長いからこそ、先に相手の気を動かせる。振り回すものではない。道を作るものだ」
その言葉を、吉法師はじっと聞いていた。
道を作る。
ただ敵を突き殺すための武器ではない。
相手を追い込み、逃げ場を決め、立つ場所を奪うもの。
それはまるで、戦そのものの縮図のようだと吉法師は思った。
「面白い」
思わず口から出る。
小夜が横で言う。
「さっきからそれしか言ってない」
「面白いのだから仕方あるまい」
「はいはい」
だが小夜も、少しだけ目の色が変わっていた。
この森可成という男、ただの武骨な武人ではない。力だけではなく、人の動きの先を読む。その意味では、忍びの理にも近い。
吉法師は、可成へまっすぐ言った。
「教えろ」
政秀が「ああ……」と低く呻いた。
ついに来た、という声だった。
若侍たちも息を呑む。
森可成は織田家の家臣だが、誰にでも気安く教えを与える男ではない。まして相手は若殿である。軽く受ければ礼を欠く。断れば断ったで面倒だ。皆が皆、その間に挟まれた気持ちで可成を見た。
だが可成は、少しも慌てなかった。
「槍を、ですか」
「うむ」
「なぜ」
「今のように動きたいからだ」
吉法師は即答した。
「槍が強いのではない。おぬしの戦い方が強い。だから知りたい」
その答えに、稽古場がまた静かになった。
子供の頼みとは思えぬ。
だが吉法師らしいとも言えた。
ただ強いから欲しいのではない。何が強さの中身なのか、それを掴みたいのだ。
可成はしばらく黙っていた。
それからゆっくり槍を立て、吉法師を見下ろす。
「厳しいですぞ」
「構わぬ」
「殿であっても手加減はせぬ」
「それでよい」
「泣いてもやめませぬ」
「泣かぬ」
「口だけは達者だ」
その言い方に、吉法師は少し笑った。
「口だけではないと見せてやる」
可成の目が、ほんのわずかに面白そうな色を帯びる。
「では、明日からにございます」
その一言で、吉法師の顔がぱっと明るくなった。
政秀はその横で、半ば諦めたように天を仰いだ。
「また面倒が増えましたな……」
小夜は袖の中で笑いを噛み殺している。
だが稽古場にいた若侍たちは、どこかざわついていた。
森可成が、あの若殿を相手にする。
それだけで、ただの気まぐれではない何かが始まるような気がしたからだ。
吉法師は可成を見上げたまま、満足そうに頷いた。
「よし」
その声には、昨夜喧嘩で叩きのめされた痛みも、百姓に返せなかった言葉の重さも、まだちゃんと残っている。
だがそれでも、前へ進む気だけは少しも鈍っていなかった。
強い男を見た。
自分はまだ弱い。
なら教わればよい。
その単純さが、吉法師の恐ろしいところであり、面白いところでもあるのだろう。
稽古場の朝の空気は、まだ冷たかった。
その中で、若殿と槍の鬼の間に、たしかに新しい縁が結ばれようとしていた。




