第41話 猛将との出会い
「止まれ」
城門をくぐった瞬間、その声が飛んできた。
吉法師はぴたりと足を止めた。
止まったというより、止められた、が正しい。声そのものに勢いがあった。怒鳴っているわけではないのに、体が勝手に反応してしまうような、妙に通る声だった。
振り向けば、門番の若侍が青い顔をしてこちらを見ている。
そのさらに向こうには、もっと嫌な顔があった。
平手政秀である。
「吉法師様」
声が低い。
低い時の方が危険だと、吉法師はよく知っていた。
「お帰りなさいませ」
「うむ」
吉法師は素直に頷いた。
その頬にはまだ昨夜の打ち身が少し残っている。肩も重い。だが歩けないほどではない。問題は体より、平手政秀の顔色の方だった。
「どこへ行っておられました」
「城下だ」
「それは見れば分かります」
「では聞くな」
小夜が横で「うわ」と小さく呟いた。
この状況でそれを返すのか、という意味の「うわ」である。
案の定、政秀のこめかみがぴくりと動いた。
「城中がどれほど騒ぎになったか、お分かりでございますか」
「たぶん大げさだ」
「大げさではありませぬ!」
ついに声が一段上がる。
門の近くにいた小姓たちが一斉に背筋を伸ばした。
その顔には、昨夜走り回らされた疲れがまだ少し残っている。なるほど、たしかに多少は迷惑をかけたらしい、と吉法師は今さら思った。
「……すまぬ」
ぼそりとそう言うと、政秀は一瞬だけ口をつぐんだ。
小夜まで目を丸くしている。
吉法師があっさり謝るのは、珍しい。
「とにかく」
政秀は咳払いを一つして、怒りを整えた。
「そのお顔でそのまま歩き回られては、余計な噂を呼びます。まず手当てを――」
「よい」
「よろしくありませぬ!」
「大したことはない」
「あります!」
まるで親と子である。
いや、親でもここまで怒鳴るかどうか怪しい。
吉法師は少しうんざりした顔になったが、それ以上は言い返さなかった。昨夜のこともあって、さすがに今は気力が薄い。
「……分かった。手当ては受ける」
「最初からそうなさいませ」
政秀が深く息を吐く。
そしてその時だった。
奥の方から、乾いた鋭い音が響いた。
バシィッ!
吉法師の目がそちらを向く。
小夜も反射で同じ方向を見る。
さらにもう一度。
バシンッ!
何かが弾けるような、だが木刀の音とも違う音だ。
それに混じって、短い掛け声が聞こえる。
「遅い」
低い男の声だった。
「槍は振るのではない。突き込むのだ」
また音が鳴る。
今度は二つ、三つ続けて。
吉法師の顔が変わった。
さっきまで平手に絞られていた時の気のない顔が、嘘みたいに消える。
目に火が入る。
小夜は横でそれを見て、ああ、と思った。
こういう顔になる時の吉法師は止まらない。
「何だ、あれは」
「吉法師様?」
政秀が嫌な予感しかしない声を出したが、もう遅い。
吉法師は音のする方へ足を向けていた。
「ちょっと!」
小夜が慌てて続く。
政秀も「まだ話は終わっておりませぬ!」と追いかける。
音のする先は稽古場だった。
城の中でもやや広く取られた場所で、朝夕には若侍たちが木刀や槍の稽古をしている。今はまだ朝の気配が残る時間で、何人もの若侍が汗を流していた。だが、そこに立つ者たちの目は、皆ひとつの男へ向けられていた。
その男は、槍を持っていた。
長い。
ただ長いだけではない。
その槍が、まるで生き物のように見えた。
男が一歩踏み込む。
槍の穂先が走る。
相手の若侍が受けようとした木槍は、次の瞬間にはもう外へ弾かれていた。
「甘い」
男は短く言う。
そして反対の手を返し、槍の石突で若侍の足を払う。
若侍はたまらず尻餅をついた。
見ていた他の若侍たちが、思わず息を呑む。
吉法師もまた、目を見開いていた。
「……ほう」
それは感心した時の声だった。
男は四十に届くか届かぬかという年頃に見えた。
肩幅が広く、体つきは無駄なく締まっている。豪壮というより、戦場で生き残るために必要な厚みだけを残した体だ。顔立ちは精悍で、口数の多そうな顔ではない。だが、ただ立っているだけで周りの空気が締まる。
その男が槍を軽く払うと、穂先についた朝露が散った。
「次」
低い声で言う。
若侍たちは一瞬だけ顔を見合わせた。
前へ出るのをためらったのが、吉法師にも分かる。
強い。
見れば分かる。
いや、見れば見るほど分かる。
木刀の試合のような見栄えではない。もっと実際的で、もっと容赦がない。相手を崩し、道を塞ぎ、一息で喉元まで届く槍だ。
「誰だ」
吉法師が思わず口にすると、すぐ横で政秀が苦い顔をした。
「森可成殿にございます」
「森可成」
吉法師はその名を繰り返した。
その間にも、可成は次の若侍と槍を合わせている。
今度の相手は先ほどよりは踏み込める者らしかった。二合、三合と打ち合う。だが、四合目で完全に崩された。可成は穂先を相手の喉元へぴたりと止める。
「遅い」
また同じ言葉。
だが、侮りではない。
ただ事実を言っているだけの声だった。
吉法師は、気づけば一歩前へ出ていた。
「速いな」
その声で、可成の目が初めてこちらを向いた。
鋭い目だった。
だが、人を威すための鋭さではない。
敵味方、強い弱い、生きる死ぬを一瞬で量るような目だ。
「吉法師様」
若侍たちが慌てて頭を下げる。
可成だけは、槍を持ったまま軽く一礼するにとどめた。
「若殿」
声は低く、よく通る。
吉法師はそんなことも気にせず、可成の槍を見ていた。
「もう一度やれ」
稽古を見ていた若侍たちがぎょっとする。
小夜は横で、やっぱりそう言うのね、という顔をした。
政秀は頭を抱えたくなった。
「吉法師様」
「何だ」
「森殿はただ今、稽古の最中にございます」
「だから見ておる」
「見ておる、ではなく」
「もう一度やれ」
吉法師は可成をまっすぐ見たまま繰り返した。
可成は少しも慌てなかった。
若殿の無茶振りにへつらうでもなく、嫌そうな顔をするでもなく、ただ一瞬だけ吉法師を見た。
その視線は、若侍たちへ向けるものとは違った。
子供を見る目でもない。
何かを測る目だった。
やがて可成は、倒されたばかりの若侍へ言う。
「立て」
「は、はい!」
若侍が慌てて立ち上がる。
「今の続きを見せる。目を逸らすな」
そう言って可成は構えた。
吉法師の口元が、ほんの少しだけ上がる。
可成が踏み込む。
今度は吉法師が見ているからか、若侍も必死だった。槍を合わせ、外されまいと食らいつく。だが可成の動きは、その上を行く。穂先が消えたように見えた次の瞬間には、若侍の槍は高く逸らされ、石突が胸元へ入っていた。
若侍はたまらず息を詰まらせ、後ろへよろめく。
「形を追うな」
可成が言う。
「相手を見る前に槍を見るから遅れる」
それだけ言って槍を下ろした。
吉法師は、今度ははっきり笑った。
「面白い」
小夜が腕を組んで呟く。
「はい、出ました」
政秀はこめかみを押さえた。
「何が出たのです」
「この顔になった時の吉法師は面倒、って顔」
「その通りでございます」
吉法師は二人の声など聞いていない。
ただ可成を見ている。
槍の動き。
足の運び。
無駄のない踏み込み。
そしてあの「相手を見る前に槍を見るな」という一言。
ただ強いだけではない。
戦の理を知っている槍だ。
「森可成」
吉法師が、あらためて名を呼ぶ。
可成は静かに応じた。
「は」
「おぬし、強いな」
若侍たちがまたぎょっとする。
そんなことを面と向かって、しかもあんな嬉しそうに言う若殿は他にいない。
可成の顔にはわずかにも驕りが浮かばなかった。
「まだまだにございます」
「そうか」
吉法師はさらに一歩近づく。
「なら、もっと見せろ」
政秀が天を仰いだ。
小夜は吹き出しそうになるのを堪えた。
そして可成は、そんな若殿の無遠慮さにも顔色ひとつ変えず、静かに槍を立てたまま吉法師を見ていた。
その視線の交わりだけで、何かが始まる気配があった。
まだ名もつかぬ、師弟とも主従とも違う、妙な縁の始まりのような気配が。




