第40話 初めての敗北
「まだ行くの?」
小夜が本気で信じられないものを見る目で言った。
吉法師は、さっきぶつけた肩を回しながら平然と答える。
「うむ」
「うむ、じゃないわよ。今の見たでしょ」
「見た」
「巻き込まれたでしょ」
「巻き込まれた」
「じゃあ何で行くのよ!」
小夜が声を抑えながらも怒るのも無理はない。
酒場から飛び出したあと、普通ならそのまま帰る。少なくとも、喧嘩の続きを見に戻ろうとは思わない。だが吉法師は、暖簾の揺れる店先をじっと見たあと、もう一度中を覗く気でいるらしかった。
「さっきのは止め方が悪かった」
吉法師が言う。
「だから、今度はちゃんと――」
その時だった。
暖簾が荒々しくめくれ、店の中から一人の男が叩き出されるように外へ転がってきた。
どさり、と土の上へ落ちる。
続いて、もう一人。
最初の男は痩せているが目つきが鋭く、二人目は肩が広く、腕が太い。さっきの乱闘の中心にいた者たちとは違う。しかも、この二人は酔っているというより、ただ喧嘩慣れしている顔をしていた。
後から出てきた店の女が、箒を振り上げて怒鳴る。
「外でやれって言っただろうが!」
「うるせえ!」
肩の広い男が怒鳴り返し、そのまま痩せた男へ殴りかかった。痩せた方もすぐに避け、逆に肘を入れる。動きがさっきの酔っ払いどもと違った。速い。無駄が少ない。ただの喧嘩ではない、町で腕っぷしを頼りに生きてきた者の動きだ。
吉法師の目が変わった。
「ほう」
小夜はその顔を見て、嫌な予感しかしなかった。
「ちょっと、まさか」
「見ておれ」
「見ておれじゃなくて!」
だが吉法師はもう、道の真ん中へ出ていた。
肩の広い男が、相手を殴り飛ばして一歩引いたところで、吉法師が声を張る。
「待て!」
男たちが同時にこちらを見る。
月明かりの下で見ると、吉法師はどう見てもまだ子供だった。着ているものは上等でも、背丈も肩幅も、大人の男たちにはまるで及ばない。
痩せた男が、血の混じった唾を吐いて笑った。
「何だ、また餓鬼か」
肩の広い方は、吉法師を上から下まで見て鼻で笑う。
「さっきの小僧だな。まだいたのか」
吉法師はまっすぐ言った。
「そこで終われ」
二人とも、きょとんとした顔をした。
それから次の瞬間、声を上げて笑う。
「終われ、だとよ」
「お前が止めるのか?」
小夜が後ろで額を押さえた。
やめろ。やめてくれ。ほんの少しでいいから引け。
そう思うのに、吉法師が引く顔ではないことももう分かっていた。
「止める」
吉法師は言い切った。
肩の広い男が、笑いながら一歩近づいてくる。
「面白え。武家の坊ちゃんごっこか?」
「ごっこではない」
「じゃあ本物か?」
「そうかもしれぬ」
「かもしれぬ、ねえ」
男は肩を鳴らした。
その腕は太い。日々荷を運び、殴り合い、働いてきた腕だ。
「じゃあ試してやるよ、坊ちゃん」
小夜が思わず一歩前へ出る。
「やめなさい!」
だが、その声の前に吉法師の方が早かった。
「来い」
その一言で、男の顔から笑いが消えた。
たぶん、あの男は本気で腹を立てたのだろう。
半端な武士の子が、見栄を張っているのだと思った。
なら一発で分からせてやればいい。
そういう種類の怒りだった。
男の拳が飛んだ。
速い。
吉法師は反射で身をずらした。拳は頬を掠め、風だけが顔を打つ。避けた、と思ったその瞬間、男の膝が腹へ入った。
「がっ……!」
息が詰まる。
体がくの字に折れたところへ、肩を掴まれ、勢いのまま地面へ叩きつけられた。
土が跳ねる。
背中へ鈍い痛みが走る。
目の前が一瞬白くなる。
小夜が目を見開いた。
「吉法師!」
吉法師はすぐに起き上がろうとした。
だが、その前に頬へ平手ではない、本気の拳が飛んできた。避けきれず、こめかみのあたりへ衝撃が走る。
「っ……!」
今度こそ、地面へ片膝をつく。
周りで見ていた町人たちがどよめいた。
誰も止めようとはしない。
これはもう、町の喧嘩の輪の中に入ってしまった者の負けだ。
「どうした坊ちゃん」
男が吐き捨てる。
「止めるんじゃなかったのか」
吉法師は歯を食いしばった。
悔しい。
立てる。まだ立てる。
頭ではそう思っているのに、体が思うように動かない。稽古では何度も倒された。森可成にも叩き伏せられた。だが、あれは稽古だった。今目の前にあるのは、躊躇なく倒しに来る大人の喧嘩だ。
吉法師は立ち上がった。
ふらつく。
それでも立つ。
男が眉を上げた。
「へえ」
痩せた方の男も、少しだけ面白そうに見ている。
吉法師は拳を握った。
木刀もない。槍もない。あるのは体だけだ。
「まだだ」
そう言って踏み込んだ。
だが、踏み込みが浅い。
怒りと悔しさばかりが先に立ち、足が流れている。
肩の広い男はそれを見切っていた。
拳を避け、襟を取る。
そのまま足を払う。
吉法師の体が、また土の上へ転がった。
今度は顔からではない。
だが、地面の固さが容赦なく骨へ響く。
「終わりだな」
男が言った。
その声が、妙に遠く聞こえる。
悔しかった。
城の中では、吉法師は変わり者でも、少なくとも弱いとは思われていない。木刀を持てば年上の若侍ともやり合うし、口では誰にも負けぬ。だが今は違う。町の腕自慢ひとりに、まるで相手になっていない。
「……吉法師」
小夜がすぐ横へ来た。
その声には怒りもあったが、それ以上に焦りがあった。
こんなところで本当に潰されでもしたら、見張り役どころでは済まない。
吉法師は地面に手をついたまま、息を整えようとした。
腹が痛い。頬が熱い。肩もまだじんじんする。
それでも、何より痛かったのは別のところだった。
勝てぬ。
その事実が、初めてはっきり形になった。
稽古ではない。
加減もない。
言葉も理屈も通らない。
そういう場所で、自分はまだただの子供だ。
男たちは、それ以上は手を出してこなかった。
肩の広い方が、鼻で笑って言う。
「武家の坊ちゃんでも、喧嘩は遊びじゃねえって覚えたろ」
痩せた方も吐き捨てる。
「次は首突っ込む前に相手見ろ」
二人はそれだけ言うと、もう吉法師には興味を失ったように背を向けた。もともとこいつを叩きのめすための喧嘩ではない。自分たちの怒りの途中へ割り込んできた小僧を黙らせただけだ。
小夜は、その背を睨んでいたが、追わなかった。
追っても無駄だ。
何より今は、目の前の馬鹿殿を立たせる方が先だった。
「立てる?」
吉法師は返事をしない。
ただ、少し間を置いてから、ようやく低く言った。
「……負けたな」
小夜は一瞬、言葉を失った。
てっきり「もう一度だ」と言うか、「油断した」と言い訳するかと思ったのだ。
だが吉法師は、土の上に膝をついたまま、はっきりそう言った。
「負けた」
今度は、もっと静かに。
その声に、小夜は怒る気を失った。
「そうね」
結局、そう返すしかなかった。
吉法師はゆっくり顔を上げた。
目には悔しさがあった。
怒りもある。
だがそれ以上に、自分へ向いている目だった。
「わしは、まだ弱い」
ぽつりと言う。
小夜は腕を組んだ。
「今ごろ気づいたの?」
「分かっておったつもりだ」
「つもりだったのね」
「うむ」
吉法師は立ち上がろうとした。
小夜が腕を貸す。
吉法師は一瞬だけ嫌そうな顔をしたが、今は見栄を張る余裕もないらしく、黙ってそれに体を預けた。
「城の中ではな」
立ち上がったあと、吉法師が低く言う。
「わしは、わりとやれる方だと思っておった」
「まあ、口は強いものね」
「口ではない」
「そうね、そこそこ動ける」
「そこそこ、か」
「でも今のは町の喧嘩よ」
小夜はきっぱり言った。
「稽古じゃない。誰も手加減しない。相手が子供でも止まらない。そういう場所」
吉法師は唇を引き結んだ。
まさに、その通りだった。
城の中の強さと、外の強さは違う。
木刀の試合と、夜の喧嘩も違う。
その違いを、今、自分の体で知った。
「……面倒だな」
吉法師が呟くと、小夜は少しだけ笑った。
「負けて最初の感想がそれ?」
「勝てぬ相手がおるのは、面倒だ」
「でも知れてよかったでしょう」
吉法師は答えなかった。
だが、その顔は否定していなかった。
夜風が吹く。
酒場の喧騒はまだ続いている。
町の喧嘩も、百姓の怒鳴り声も、城の中の理屈とは別の力で動いている。
そしてその中では、自分はまだ強くもなく、賢くもなく、ただの子供なのだと、吉法師は初めて骨の痛みと一緒に思い知っていた。




