第3話 団子と殿様
尾張国、那古野城。
春の朝だった。
城の瓦屋根にはうっすらと朝露が残り、白い霧が城下町の方へゆっくり流れている。
鳥の声が遠くで聞こえ、まだ空気は少しひんやりとしていた。
そんな静かな朝の城内に――
「吉法師様ぁぁぁ!!」
平手政秀の怒鳴り声が響き渡っていた。
しかし、その声を聞く者はいても。
当の本人は、すでに城にはいない。
那古野城の裏門。
石垣の影から、こそこそと小さな影が現れた。
吉法師である。
腰には木刀。
片袖を外した奇妙な小袖。
とても城主の嫡男とは思えぬ格好だ。
少年は門の外を覗き、周囲を見回す。
「……よし」
にやりと笑った。
「平手はまだ気づいとらんな」
小さく呟く。
そして、門の外へと軽やかに飛び出した。
「さて」
少年は大きく伸びをした。
「団子だがや」
那古野城の城下町は、すでに賑やかだった。
道には朝の光が差し込み、土の道には馬車の轍が残っている。
両側には商家が並び、軒先には干した魚や野菜が吊るされていた。
市場の方からは威勢のいい声が聞こえる。
「新しい鯛だぞー!」
「大根安いがや!」
農民が荷を運び、商人が値段を叫び、子供たちが裸足で走り回る。
戦国の世ではあるが、この町にはどこか活気があった。
その中を、吉法師は堂々と歩いていく。
武士の子が町を歩くのは珍しくない。
だが。
この少年は少し違う。
すぐに町人が気づいた。
魚屋の親父が目を丸くする。
「あれ?」
桶を抱えたまま、声を上げた。
「吉法師様じゃねぇか?」
隣の八百屋の女房も振り向く。
「ほんとだがや!」
吉法師は手を振った。
「よう」
まるで友達に挨拶するような調子である。
魚屋の親父が笑った。
「殿様がこんなとこおってええのか?」
吉法師は肩をすくめた。
「ええがや」
「城はどうした」
「出てきた」
「怒られるぞ」
「もう怒られとる」
町人たちはどっと笑った。
この少年は、織田家当主の嫡男である。
だが。
町人たちは、あまり畏まらない。
なぜなら――
吉法師はよく町に来るからだ。
しかも、偉そうにもしない。
むしろ普通に話す。
八百屋の女房が笑いながら言う。
「今日は何しに来たんだい」
吉法師は真顔で言った。
「団子」
その答えに、また笑いが起きる。
「殿様なのに団子か!」
「殿様でも腹は減る」
吉法師は言った。
「むしろ殿様の方が腹が減る」
「どういう理屈だ」
「頭を使うからだ」
「勉強してないだろ」
吉法師は一瞬黙った。
そして言った。
「……剣のことを考えている」
町人たちはまた笑った。
そのとき。
団子屋の暖簾が風に揺れた。
炭の香ばしい匂いが漂ってくる。
「おや」
団子屋の爺が顔を出す。
「吉法師様か」
白い髭を撫でながら笑う。
「今日も団子かい」
吉法師は胸を張る。
「三本」
「ほう」
爺は炭火の前に座った。
団子を串に刺し、網の上に並べる。
じゅう……と小さな音がした。
甘い香りが漂う。
吉法師はじっとそれを見つめた。
「まだか」
「まだだ」
「まだか」
「急くな」
やがて団子が焼き上がる。
爺は皿に並べた。
「ほれ」
吉法師はすぐ一本取った。
「うまい!」
ほおばる。
爺は笑った。
「殿様なのに、食い方が子供だな」
「まだ子供だ」
「それもそうだ」
吉法師は団子を食べながら、周囲を見ていた。
人の流れ。
商人の荷。
農民の数。
その目は、ただ遊んでいるようには見えない。
爺が聞いた。
「何を見ておる」
吉法師は言った。
「人だ」
「人?」
「どれだけ人がおるか」
爺は首をかしげる。
「そんなもん見てどうする」
吉法師は団子をかじった。
「戦だ」
町人たちは少し静かになる。
吉法師は言った。
「兵を集めるにも金」
「武器も金」
「米も金」
そして町を見回す。
「この町、面白い」
爺が笑った。
「何がだ」
吉法師は言った。
「金が動いとる」
町人たちは顔を見合わせる。
爺が言う。
「殿様の子なのに、商人みたいなこと言うな」
吉法師は笑った。
「戦国だぞ」
そして言った。
「刀だけで勝てる時代じゃないがや」
そのときだった。
遠くから怒鳴り声が響く。
「吉法師様ぁぁぁ!!」
町人たちが振り向く。
平手政秀が全力で走ってきていた。
顔が真っ赤である。
吉法師は団子を食べながら言う。
「来た」
町人たちは笑いをこらえる。
平手が叫んだ。
「また城を抜け出しましたな!」
吉法師は団子をかじる。
「団子はうまい」
「そういう問題ではございませぬ!」
町人たちはとうとう吹き出した。
那古野城下町。
尾張のうつけと呼ばれる少年は、今日も町を騒がせていた。




