第39話 町の喧嘩
「だから言ったでしょう」
小夜が呆れた声で言った時には、もう遅かった。
吉法師は暖簾をくぐっていた。
夜の酒場は、外から聞くより中の方がずっと暑苦しい。戸口を抜けた瞬間、酒の匂いがむっと鼻を打った。煮しめた魚の匂い、炭火の匂い、男たちの汗、湿った藁草履の土臭さ、それらが全部混ざって、狭い店の中へ溜まっている。灯りは明るすぎず暗すぎず、人の顔だけはよく見える程度だ。板の間には低い卓が並べられ、浪人らしい男、町人、荷運び風の者、半端な武士が入り混じって杯を傾けていた。
誰も吉法師が織田家の嫡男だとは思わないだろう。
思わぬような場所だ。
そして吉法師は、そういう場所へわざわざ足を踏み入れる。
「面白そうだ」
さっきそう言った時、小夜はほんの一瞬だけ本気で帰ろうかと思った。
だが見張り役として放っておくわけにもいかない。仕方なく後を追って、今は戸口の脇に立っている。
「目立たないようにして」
小夜が低く言う。
「分かった」
吉法師は素直に頷いた。
だがその顔が、全然分かっていない顔だと小夜には分かった。
二人は店の隅へ腰を下ろした。店の女が怪訝そうな顔で見たが、金を払う気があると分かると、それ以上は何も言わなかった。出されたのは薄い酒と塩辛い肴だけだ。吉法師は杯を持ち上げて少し匂いを嗅ぎ、それから一口だけ飲んだ。
「苦いな」
「子供が飲むものじゃないのよ」
「大人はこれを好むのか」
「酔いたいの」
「酔うとどうなる」
「人による」
その答えの意味は、すぐに分かった。
店の奥で笑っていた男たちの声が、急に大きくなったからだ。
「だからてめえは、さっきから偉そうなんだよ!」
「何だと!」
板が鳴る音。
卓が引っくり返る音。
次の瞬間には、二人の男が掴み合いになっていた。
店の中の空気が一気に変わる。
最初は周りも「また始まった」という顔で見ていたが、片方が相手の胸ぐらを掴んで床へ叩きつけたところで、さすがに何人かが立ち上がった。だが止めに入るのではない。巻き添えを食わぬよう卓を引く者、酒を守る者、面白がって囃し立てる者、そういう者たちだった。
「やめぬか」
吉法師が思わず立ち上がる。
小夜がすぐに袖を掴んだ。
「座って」
「だが」
「こういうのに首を突っ込むとろくなことにならない」
「ろくでもないのはあちらだ」
そう言って、吉法師は小夜の手を軽く振りほどいた。
「ちょっと!」
小夜の制止も間に合わず、吉法師は乱闘の輪へ踏み込んでいく。
掴み合っている二人の間へ割って入り、手を広げた。
「待て! 店の中で暴れるな!」
その声に、周りの何人かがぎょっとして振り向いた。
こんなところで、こんな若造が、しかも妙に育ちの良さそうな顔で、まっすぐ止めに入るなど思ってもみなかったのだろう。
だが喧嘩の最中の男たちに、そんなことは関係なかった。
「誰だ、てめえ!」
片方が吉法師を押しのけようとした。
吉法師は踏ん張った。
だが相手は酔っているとはいえ大人である。勢いが違う。
「おっと」
よろけた吉法師が、後ろの卓へ半分ぶつかる。杯がひっくり返り、酒が板の間へ広がった。
「てめえ、酒こぼしたぞ!」
今度は巻き込まれた別の男が怒鳴る。
「違う、そなたらが押した」
「知るか!」
そこで最初の二人のうち、床へ倒されていた方が起き上がりざまに拳を振るった。
狙いは最初の相手だった。
だが吉法師が間に入っていたせいで、その拳は見事に吉法師の肩へ入った。
「痛っ……!」
吉法師が目を見開いた、その瞬間。
今度は押し返そうとした方の肘が顔の横をかすめる。小夜が舌打ちした。
「だから言ったのに!」
店の中はもう完全に乱れていた。
誰かが笑い、誰かが怒鳴り、店の女が「外でやれ!」と叫ぶ。
だが外でやるつもりの者は誰もいない。酔った喧嘩など、場所を選ばぬのだ。
吉法師は肩を押さえながらも、まだ止めようとしていた。
「待て! だから――」
その時、背後から別の男がふらつきながらぶつかってきた。
完全に巻き込まれたのである。
「邪魔だこの餓鬼!」
「誰が餓鬼だ!」
思わず言い返した時点で、もう駄目だった。
次の瞬間、吉法師も掴み合いの中へ半分引きずり込まれていた。襟を掴まれ、肩を押され、足がもつれる。普段の稽古ならまだしも、狭い酒場の板の間で、大人の酔漢相手に綺麗に立ち回れるほど、吉法師はまだ強くない。
「ちょ、ちょっと本当に何やってるのよ!」
小夜はついに店の中へ飛び込んだ。
忍びとしては最悪の行動だ。
目立つ。巻き込まれる。余計な顔を見られる。
だが見張り役の対象が乱闘の真ん中で転がされそうになっている以上、見ているだけにもいかなかった。
小夜は一番後ろから吉法師の襟を掴み、思いきり引いた。
「わっ!」
吉法師の体が半歩後ろへずれる。
そこへ空振りした拳が、勢い余って別の男の頬へ入った。
「てめえ今殴ったな!」
「知らねえよ!」
「ふざけるな!」
乱闘は、さらに一段階大きくなった。
小夜は心底嫌そうな顔をした。
「最悪……!」
「何がだ!」
吉法師が肩を押さえながら言う。
「全部よ!」
店の女が箒を振り回し始めた。
「出てけ! 表でやれ!」
至極もっともである。
小夜は吉法師の腕を掴み、そのまま力ずくで引きずった。
「出るわよ!」
「だが!」
「だがじゃない!」
吉法師はなおも未練ありげに振り返ったが、次の瞬間、飛んできた酒杯が額すれすれを通り過ぎて壁へ当たった。さすがにそれで考えを改めたらしい。
「……うむ、出るか」
「遅い!」
二人は暖簾をくぐって外へ飛び出した。
夜風が頬に当たる。
酒場の熱気の外は、妙に涼しかった。
だが、後ろではまだ怒鳴り声が続いている。板が鳴り、誰かが店の女にまた怒鳴られ、それでも喧嘩は収まりそうにない。
小夜は壁にもたれて深く息を吐いた。
「ほんとに、何やってるの」
吉法師は額を押さえ、肩を回した。
「止めようとした」
「見れば分かる」
「うまくいかなかったな」
「当たり前でしょうが」
小夜はじろりと睨む。
「酔っ払いの喧嘩に真正面から入っていって、うまくいくわけないでしょ」
「そういうものか」
「そういうものよ!」
吉法師は少し考える顔をした。
「城の喧嘩とは違うな」
「城の喧嘩って何よ」
「もっとこう……言葉が長い」
小夜は一瞬きょとんとしたあと、思わず笑った。
「何それ」
「城の中では、いきなり殴り合わぬ」
「それは城の方が面倒なのよ」
その返しに、吉法師も少し笑う。
肩は痛い。
額も少し熱い。
だが不思議と不快ではなかった。
「町の喧嘩は、早いな」
「酔ってるから」
「城の中より分かりやすい」
「その代わり、すぐ殴られる」
「それは困る」
「今さら?」
酒場の中で、また何か大きな音がした。
どうやらまだ続いているらしい。
吉法師は暖簾を見ながら、小さく息を吐いた。
「止めるのは難しいな」
小夜は壁にもたれたまま答える。
「だから最初に言ったでしょう」
「うむ」
「素直」
「たまにはな」
その言い方が妙に可笑しくて、小夜はまた少し笑った。
夜の城下町は、城の中とは違う。
争いも、笑いも、怒鳴り声も、何もかもが近い。
そして吉法師はまたひとつ、城の中では学べぬものへ真正面からぶつかり、見事に巻き込まれたのだった。




