表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

38/52

第38話 武士と百姓

「武士は米を作らぬ」


 その一言は、昨夜からずっと吉法師の耳に残っていた。


 朝になっても消えない。

 城下の朝靄の中を歩いていても、団子屋の前を通っても、井戸端で女たちが水を汲む音を聞いていても、不意にその言葉だけが胸の奥でひっかかったままだった。


 武士は米を作らぬ。


 当たり前のことだ。

 そんなことは、改めて言われるまでもなく知っている。

 武士は田に出ず、槍を持ち、城に仕え、戦で功を立てるものだ。

 それがこの世の理だと、物心ついた時から見てきた。


 だが、あの百姓の口から出た時、その言葉は「当たり前」では済まなかった。


 武士は米を作らぬ。

 なのに、米を取る。

 戦を起こし、働き手を取り、年貢を決める。

 その重みを受けるのは、結局は田に立つ者たちだ。


「難しい顔してる」


 隣を歩いていた小夜が、横目で吉法師を見た。


「しておるか」


「してる」


「そうか」


「そうか、じゃなくて」


 小夜は少し呆れたように息を吐く。


 昨夜の農家に泊めてもらってから、吉法師はずっとこんな顔だ。普段なら何を見てもまず口に出し、面白いとかつまらぬとか、すぐ言う男なのに、今朝は妙に口数が少ない。


 城下の朝は、夜よりもずっと明るい。

 まだ日は高くないが、商人たちはもう店先の準備を始めているし、荷を運ぶ男たちも動き出している。団子を焼く匂い、干物の匂い、朝の味噌汁の匂いが、風に混じって細い道へ流れ込んでくる。人の気配はある。生きている町の音だ。


 だが吉法師の耳には、昨夜の怒鳴り声の方がまだ近かった。


「小夜」


「なに」


「おぬしは、ああいうことをよく聞くのか」


 小夜は少しだけ首を傾げた。


「ああいうこと、って?」


「武士は米を作らぬ、だ」


 小夜は、ああ、と短く息を漏らした。


「聞くわよ」


「やはりか」


「そりゃそうでしょ。町でも村でも、口に出すかどうかは別にして、皆そう思ってる」


 吉法師は黙った。


 小夜は平然と続ける。


「百姓から見れば、武士は上から来る人だもの。兵を出せ、米を出せ、って言う側」


「全部の武士がそうではない」


「そうね」


 小夜は頷いた。


「でも、百姓にはあまり関係ない」


 その言い方は、昨日と同じだった。

 柔らかくはない。

 だが妙に真っすぐで、だからこそ反論しづらい。


「関係ない、か」


「誰が優しいとか、誰が夢を語るとか、そんなことより、今年の米が足りるかどうかの方が大事でしょ」


 吉法師は何も言えなかった。


 小夜が言っていることは、冷たいようでいて、たぶんその通りなのだ。

 城の中では違う。誰が礼を知る、誰が家中をまとめる、誰が人望を集める。そういう話ばかりが飛び交う。だが村の中では、そんなことより飯があるかないかが先に来る。


 そこへ、前の道で声が上がった。


「おい、そっち持て!」


 見ると、荷を積んだ二人の百姓が、牛の引く車を押していた。車輪がぬかるみに少し取られ、片方の男が顔をしかめている。もう一人は歯を食いしばって肩を入れていた。


 吉法師は足を止める。


「押すか」


「待って」


 小夜が袖を掴んだ。


「今度は何」


「いきなり行くと、また面倒よ」


「だが困っておる」


「困ってるのは分かるけど、あなたが行けば“武士が来た”ってなるの」


 その言葉に、吉法師は少しだけ苛立った顔をした。


「では、見ておれと?」


「まずは見なさい」


 小夜は低く言う。


「昨日の続きよ。あなた、まだ何も分かってない」


 吉法師はむっとしたが、押し返さなかった。


 二人は少し離れた場所から様子を見た。

 百姓たちは自分たちで何とかしようとしている。肩を入れ、牛を叱り、ぬかるみへ板を差し込む。苦労している。だが、誰かに助けを求める様子はない。


「何故頼まぬ」


「頼めば借りになるから」


「借り?」


「それに、武士へ手を貸してもらったって話が広がれば、また何を言われるか分からない」


「面倒だな」


「そうよ。世の中は面倒なの」


 やがて百姓たちは、何とか車をぬかるみから引き上げた。汗だくになりながらも、互いに短く言葉を交わし、そのまままた歩き出す。


 吉法師は、その背をじっと見ていた。


「……武士は米を作らぬ」


 今度は、自分からその言葉を口にする。


 小夜はちらりと吉法師を見た。


「それ、ずいぶん気に入ったのね」


「気に入ったわけではない」


「じゃあ、刺さった?」


 吉法師は、少し考えた。


「刺さった、のかもしれぬ」


 その答えに、小夜は少しだけ意外そうな顔をした。


 吉法師が、自分でそう言うとは思わなかったのだろう。


 二人はしばらく無言で歩いた。

 やがて町を少し外れたところで、小さな田が目に入る。まだ水は浅く、空を鈍く映している。その脇で、腰の曲がった老人が鍬を持って立っていた。昨日見た村とは別の家らしい。


 老人は、二人の姿を見ると目を細めた。


「見ない顔だな」


「通りすがりだ」


 吉法師が言うと、老人は苦笑した。


「通りすがりにしちゃ、ずいぶん上等な着物だ」


 小夜が横で吹きそうになる。


 吉法師は老人の鍬に目をやった。


「田を見るのか」


「見りゃ分かるだろう」


「皆そう言うな」


「そりゃ、見れば分かることだからな」


 老人は肩を揺らして笑った。

 その笑い方は、昨日の百姓たちの怒鳴り声とは違っていた。長く土に向き合ってきた者の、乾いた柔らかさがある。


 吉法師は少しだけためらったあと、訊いた。


「米を作るのは、大変か」


 老人は鍬を地面へ立て、吉法師を見た。


「変なことを聞く」


「そうか」


「大変に決まってる」


 当たり前のように返される。


「雨が多けりゃ腐る。雨がなけりゃ枯れる。虫がつく。鳥も食う。人手が足りねえと手が回らねえ。できたと思えば年貢で持ってかれる」


 そこまで言って、老人は少しだけ目を細めた。


「お前さん、武士か」


 吉法師は答えない。

 だが老人は、それだけで察したらしい。


「なら知っとけ」


 老人の声は怒ってはいなかった。

 怒ってはいないが、そのぶんだけ重かった。


「武士は米を作らねえ」


 吉法師は、今度こそ真正面からその言葉を受けた。


 昨夜のような怒鳴り声ではない。

 静かな声だ。

 だからこそ、逃げ場がなかった。


 老人は続ける。


「だが武士が悪いとまでは言わねえ。田を守るにも、戦を止めるにも、上に立つ者は要る」


 吉法師が少し顔を上げる。


「なら」


「でもな」


 老人は言った。


「米を作らぬ者が、米の重みを知らねえまま上に立つと、下はたまらん」


 風が吹いた。

 水面が細かく揺れて、田に映った空が崩れる。


 吉法師は反論できなかった。


 反論する言葉はいくつか浮かんだ。

 武士にも役目がある。

 戦がなければ国は守れぬ。

 上に立つ者が皆、米を作るわけにはいかぬ。

 どれも正しいのだろう。


 だが、それを今ここで口にしても、薄い気がした。


 自分は実際には米を作っていない。

 昨日初めて粟の飯を食い、城の飯とは違うと思ったばかりだ。

 その程度の武士が「武士の役目」を語っても、老人の前では軽く聞こえるだけだと思ってしまった。


「……そうだな」


 結局、吉法師はそれしか言えなかった。


 老人は少しだけ目を丸くした。


 もっと言い返してくるかと思ったのだろう。


「変な若造だな」


「よく言われる」


 そう答えると、老人はまた笑った。


 小夜はそのやり取りを、少し離れて見ていた。

 昨夜までなら、吉法師はもっとすぐに言い返したはずだ。

 だが今は違う。

 分からぬものの前で、無理に分かったふりをしていない。


 それが、少しだけ面白かった。


 帰り道、吉法師はほとんど黙っていた。


 城の中では、武士は上にある。

 城下では、武士は金を払う客にもなる。

 だが村では、武士は米を作らぬ者だ。


 同じ武士でも、見る場所によってこんなに違う。


「小夜」


 やがて吉法師が口を開いた。


「なに」


「米の重みを知るには、どうすればよい」


 小夜は、少しだけ考えるような顔をした。


「自分で田に入れば?」


「それで分かるか」


「少しは」


「少しか」


「全部分かるなんて、無理よ」


 その答えが妙に本当らしくて、吉法師は小さく頷いた。


 全部は分からぬ。

 だが、分からぬままでは駄目なのだろう。

 そんなことを思い始めている自分に、吉法師は少しだけ驚いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ