第38話 武士と百姓
「武士は米を作らぬ」
その一言は、昨夜からずっと吉法師の耳に残っていた。
朝になっても消えない。
城下の朝靄の中を歩いていても、団子屋の前を通っても、井戸端で女たちが水を汲む音を聞いていても、不意にその言葉だけが胸の奥でひっかかったままだった。
武士は米を作らぬ。
当たり前のことだ。
そんなことは、改めて言われるまでもなく知っている。
武士は田に出ず、槍を持ち、城に仕え、戦で功を立てるものだ。
それがこの世の理だと、物心ついた時から見てきた。
だが、あの百姓の口から出た時、その言葉は「当たり前」では済まなかった。
武士は米を作らぬ。
なのに、米を取る。
戦を起こし、働き手を取り、年貢を決める。
その重みを受けるのは、結局は田に立つ者たちだ。
「難しい顔してる」
隣を歩いていた小夜が、横目で吉法師を見た。
「しておるか」
「してる」
「そうか」
「そうか、じゃなくて」
小夜は少し呆れたように息を吐く。
昨夜の農家に泊めてもらってから、吉法師はずっとこんな顔だ。普段なら何を見てもまず口に出し、面白いとかつまらぬとか、すぐ言う男なのに、今朝は妙に口数が少ない。
城下の朝は、夜よりもずっと明るい。
まだ日は高くないが、商人たちはもう店先の準備を始めているし、荷を運ぶ男たちも動き出している。団子を焼く匂い、干物の匂い、朝の味噌汁の匂いが、風に混じって細い道へ流れ込んでくる。人の気配はある。生きている町の音だ。
だが吉法師の耳には、昨夜の怒鳴り声の方がまだ近かった。
「小夜」
「なに」
「おぬしは、ああいうことをよく聞くのか」
小夜は少しだけ首を傾げた。
「ああいうこと、って?」
「武士は米を作らぬ、だ」
小夜は、ああ、と短く息を漏らした。
「聞くわよ」
「やはりか」
「そりゃそうでしょ。町でも村でも、口に出すかどうかは別にして、皆そう思ってる」
吉法師は黙った。
小夜は平然と続ける。
「百姓から見れば、武士は上から来る人だもの。兵を出せ、米を出せ、って言う側」
「全部の武士がそうではない」
「そうね」
小夜は頷いた。
「でも、百姓にはあまり関係ない」
その言い方は、昨日と同じだった。
柔らかくはない。
だが妙に真っすぐで、だからこそ反論しづらい。
「関係ない、か」
「誰が優しいとか、誰が夢を語るとか、そんなことより、今年の米が足りるかどうかの方が大事でしょ」
吉法師は何も言えなかった。
小夜が言っていることは、冷たいようでいて、たぶんその通りなのだ。
城の中では違う。誰が礼を知る、誰が家中をまとめる、誰が人望を集める。そういう話ばかりが飛び交う。だが村の中では、そんなことより飯があるかないかが先に来る。
そこへ、前の道で声が上がった。
「おい、そっち持て!」
見ると、荷を積んだ二人の百姓が、牛の引く車を押していた。車輪がぬかるみに少し取られ、片方の男が顔をしかめている。もう一人は歯を食いしばって肩を入れていた。
吉法師は足を止める。
「押すか」
「待って」
小夜が袖を掴んだ。
「今度は何」
「いきなり行くと、また面倒よ」
「だが困っておる」
「困ってるのは分かるけど、あなたが行けば“武士が来た”ってなるの」
その言葉に、吉法師は少しだけ苛立った顔をした。
「では、見ておれと?」
「まずは見なさい」
小夜は低く言う。
「昨日の続きよ。あなた、まだ何も分かってない」
吉法師はむっとしたが、押し返さなかった。
二人は少し離れた場所から様子を見た。
百姓たちは自分たちで何とかしようとしている。肩を入れ、牛を叱り、ぬかるみへ板を差し込む。苦労している。だが、誰かに助けを求める様子はない。
「何故頼まぬ」
「頼めば借りになるから」
「借り?」
「それに、武士へ手を貸してもらったって話が広がれば、また何を言われるか分からない」
「面倒だな」
「そうよ。世の中は面倒なの」
やがて百姓たちは、何とか車をぬかるみから引き上げた。汗だくになりながらも、互いに短く言葉を交わし、そのまままた歩き出す。
吉法師は、その背をじっと見ていた。
「……武士は米を作らぬ」
今度は、自分からその言葉を口にする。
小夜はちらりと吉法師を見た。
「それ、ずいぶん気に入ったのね」
「気に入ったわけではない」
「じゃあ、刺さった?」
吉法師は、少し考えた。
「刺さった、のかもしれぬ」
その答えに、小夜は少しだけ意外そうな顔をした。
吉法師が、自分でそう言うとは思わなかったのだろう。
二人はしばらく無言で歩いた。
やがて町を少し外れたところで、小さな田が目に入る。まだ水は浅く、空を鈍く映している。その脇で、腰の曲がった老人が鍬を持って立っていた。昨日見た村とは別の家らしい。
老人は、二人の姿を見ると目を細めた。
「見ない顔だな」
「通りすがりだ」
吉法師が言うと、老人は苦笑した。
「通りすがりにしちゃ、ずいぶん上等な着物だ」
小夜が横で吹きそうになる。
吉法師は老人の鍬に目をやった。
「田を見るのか」
「見りゃ分かるだろう」
「皆そう言うな」
「そりゃ、見れば分かることだからな」
老人は肩を揺らして笑った。
その笑い方は、昨日の百姓たちの怒鳴り声とは違っていた。長く土に向き合ってきた者の、乾いた柔らかさがある。
吉法師は少しだけためらったあと、訊いた。
「米を作るのは、大変か」
老人は鍬を地面へ立て、吉法師を見た。
「変なことを聞く」
「そうか」
「大変に決まってる」
当たり前のように返される。
「雨が多けりゃ腐る。雨がなけりゃ枯れる。虫がつく。鳥も食う。人手が足りねえと手が回らねえ。できたと思えば年貢で持ってかれる」
そこまで言って、老人は少しだけ目を細めた。
「お前さん、武士か」
吉法師は答えない。
だが老人は、それだけで察したらしい。
「なら知っとけ」
老人の声は怒ってはいなかった。
怒ってはいないが、そのぶんだけ重かった。
「武士は米を作らねえ」
吉法師は、今度こそ真正面からその言葉を受けた。
昨夜のような怒鳴り声ではない。
静かな声だ。
だからこそ、逃げ場がなかった。
老人は続ける。
「だが武士が悪いとまでは言わねえ。田を守るにも、戦を止めるにも、上に立つ者は要る」
吉法師が少し顔を上げる。
「なら」
「でもな」
老人は言った。
「米を作らぬ者が、米の重みを知らねえまま上に立つと、下はたまらん」
風が吹いた。
水面が細かく揺れて、田に映った空が崩れる。
吉法師は反論できなかった。
反論する言葉はいくつか浮かんだ。
武士にも役目がある。
戦がなければ国は守れぬ。
上に立つ者が皆、米を作るわけにはいかぬ。
どれも正しいのだろう。
だが、それを今ここで口にしても、薄い気がした。
自分は実際には米を作っていない。
昨日初めて粟の飯を食い、城の飯とは違うと思ったばかりだ。
その程度の武士が「武士の役目」を語っても、老人の前では軽く聞こえるだけだと思ってしまった。
「……そうだな」
結局、吉法師はそれしか言えなかった。
老人は少しだけ目を丸くした。
もっと言い返してくるかと思ったのだろう。
「変な若造だな」
「よく言われる」
そう答えると、老人はまた笑った。
小夜はそのやり取りを、少し離れて見ていた。
昨夜までなら、吉法師はもっとすぐに言い返したはずだ。
だが今は違う。
分からぬものの前で、無理に分かったふりをしていない。
それが、少しだけ面白かった。
帰り道、吉法師はほとんど黙っていた。
城の中では、武士は上にある。
城下では、武士は金を払う客にもなる。
だが村では、武士は米を作らぬ者だ。
同じ武士でも、見る場所によってこんなに違う。
「小夜」
やがて吉法師が口を開いた。
「なに」
「米の重みを知るには、どうすればよい」
小夜は、少しだけ考えるような顔をした。
「自分で田に入れば?」
「それで分かるか」
「少しは」
「少しか」
「全部分かるなんて、無理よ」
その答えが妙に本当らしくて、吉法師は小さく頷いた。
全部は分からぬ。
だが、分からぬままでは駄目なのだろう。
そんなことを思い始めている自分に、吉法師は少しだけ驚いていた。




