第37話 平手政秀激怒
「吉法師様が、お部屋におられませぬ!」
その一声で、那古野城の夜は静かであることをやめた。
寝所の前で膝をついていた小姓は、顔を真っ青にしたまま廊下へ転がるように飛び出してきた。
行灯の灯りが揺れ、近くにいた女中が思わず盆を抱え直す。別の小姓が「何事だ」と駆け寄るが、最初の小姓はうまく答えられない。
ただ唇をわななかせ、震える声で同じことを繰り返すばかりだった。
「おられませぬ! どこにも……!」
その言葉は、夜の廊下をあっという間に走った。
那古野城では、吉法師が勝手にふらりと姿を消すこと自体は、まったく前例がないわけではない。
庭へ出ていることもあれば、蔵の裏で木刀を振っていることもあるし、時には台所へ紛れ込んで小言を食っていることもある。
だが今夜は違った。探している小姓の顔が、いつもの「またか」という困り顔ではなく、明らかに血の気の引いたものだったからだ。
「平手様を! 平手様をお呼びしろ!」
誰かがそう叫んだ。
その時点で、半ば勝負は決していた。
吉法師がいなくなった時、それを一番怖れる男の名は城の中で誰もが知っている。
それから間もなく、廊下の向こうからどたどたと勢いのある足音が迫ってきた。
平手政秀である。
夜着の上から羽織を引っ掛けただけのような格好だが、顔つきはもう完全に戦の時のそれだった。
白髪混じりの髪は少し乱れているのに、目だけが妙に冴えている。
寝起きであろうが、吉法師失踪の報が入れば、教育係の頭は一瞬で覚めるらしい。
「どういうことです!」
政秀の声が廊下へ響いた瞬間、小姓たちは一斉に背筋を伸ばした。
最初に報告した小姓が、ほとんど泣きそうな顔で頭を擦りつける。
「は、はい……先ほど寝所の灯りが消えましたので、お休みかと……ですが、夜更けの見回りでお部屋をのぞきましたところ、寝具はそのままで……」
「もぬけの殻か!」
「は、はい!」
政秀は深く息を吸い、それをそのままため息に変えず、鋭い声へ変えた。
「庭は見ましたか!」
「み、見ました!」
「蔵の裏は!」
「い、今!」
「台所は!」
「ま、まだです!」
「なぜまだなのです!」
小姓はひいっと肩を震わせる。
政秀は本気で怒っていた。
だが怒りの底にあるのは呆れだけではない。
焦りだ。信秀の病が城を冷やし、家中が次を意識し始めているこの時期に、嫡男が夜中に姿を消す。
それがどれほど危ういことか、政秀だけが骨身に染みて知っていた。
「吉法師様は、ただの悪戯小僧ではないのですぞ!」
政秀が怒鳴る。
「城中の目がどれだけ若殿に向いていると思っておるのです! 見失ったでは済まぬ!」
その声に、廊下の向こうから別の若侍たちも集まり始めた。
何事かと顔を出した者、最初から捜索に加わろうと駆けてきた者、単に政秀の怒声に呼び寄せられた者。
皆一様に緊張した顔をしている。
政秀は、その場にいる者たちを一瞥した。
「聞け!」
それだけで空気が締まる。
「城内を手分けして探せ。庭、蔵、兵具部屋、台所、厩、裏門の周り、すべてだ!」
「はっ!」
「門番も叩き起こせ! 今夜、誰が出入りしたか一人残らず確認するのです!」
若侍たちが一斉に走り出す。
政秀はさらに声を張る。
「見つけたらすぐに連れてこい! ただし怪我をさせるな! あのお方は逃げ足だけは妙に速い、無駄に追い立てるな!」
最後の一言に、何人かの侍がほんの少しだけ顔を歪めた。
その通りだからだ。
「平手様」
若侍の一人が戻ってくる。
「厩にはおりませぬ!」
「馬は?」
「そのままです!」
「なら遠くへは行っておらぬか……」
政秀は眉間を押さえた。
馬を使っていないなら、せいぜい城下までだろう。
だが徒歩で城下へ出たとしても十分に厄介だ。夜の町は昼とは違う。賭場もあれば酔客もいるし、城内では見えぬ者たちも動く。
よりにもよって今この時期に、そんなところへ若殿が一人で紛れ込んだとしたら。
「門は」
政秀が低く問う。
別の侍が答える。
「正門に動きはなかったとのことです」
「当然だ」
政秀は吐き捨てるように言った。
「正門から堂々と出るほど、吉法師様は素直ではありませぬ」
その言い方に、長く仕えている者たちは内心で頷いた。
確かにそうだ。
正門を通るくらいなら、塀を越える。
政秀は一瞬だけ目を閉じた。
嫌な予感しかしない。
しかもそれが、何度も当たってきた種類の嫌な予感だ。
「裏の塀を見ろ!」
政秀が即座に命じる。
「低くなっている箇所、木が張り出している箇所、よじ登れそうなところを重点的に調べるのです!」
「はっ!」
再び人が散る。
廊下を駆ける足音、庭を渡る足音、呼び交わす小声。
那古野城の夜は完全に目を覚ましていた。
ただし、それは静かな覚め方ではない。若殿一人に振り回される、いつものあの騒がしい覚め方だった。
だが今夜は、いつも以上に重かった。
政秀は廊下の角に立ったまま、深く息を吐いた。
そしてすぐに、その息を怒りに変えて横の小姓へぶつける。
「何をしている! 奥向きにはまだ知らせるな! 母君に伝われば余計に騒ぎになる!」
「は、はい!」
「ただし、勘十郎様の周りにはそれとなく人を増やせ! この夜に片方だけおらぬとなれば、余計な勘ぐりを呼ぶ!」
そこまで考えているのが、いかにも平手政秀だった。
若殿が失踪した。
それだけでも大問題だ。
だが今の那古野城では、それがただの夜遊びでは済まない。
誰かが「家督争いの始まりだ」と勝手に意味づけるかもしれない。
誰かが「吉法師様が何か企んでいる」と囁くかもしれない。
そういう城なのだ、今は。
政秀は、もう一度だけ心の中で強く念じる。
頼むから、ただの夜遊びであってくれ。
その願いのむなしさを、自分でも半ば知っていた。
やがて、裏庭へ走っていた若侍の一人が戻ってきた。
「平手様!」
「どうした!」
「塀の外側に、新しい足跡が!」
政秀の目が鋭くなる。
「どこだ」
「南の松の裏手にございます。塀の上にも土がついておりますゆえ、おそらくは――」
「越えましたな」
政秀はもう疑わなかった。
「この……っ」
さすがに言葉の途中で飲み込んだが、その先に何が続くかは皆分かる。
あの若殿である。
やったに違いない。
「城下だ」
政秀は即座に言った。
「人を出せ。ただし大勢でぞろぞろ行くな。かえって目立つ。口の堅い者を選べ!」
「はっ!」
「酒場、賭場、夜店、橋のたもと、裏道、普段吉法師様が面白がりそうなところを洗え!」
その基準があまりにも的確で、若侍たちの方が苦い顔になる。
やはり、よく分かっているのだ。
「平手様」
別の家臣が、少し言いにくそうに口を開く。
「若殿は……なぜこのような折に」
政秀は、問い返さなかった。
なぜ、と言われれば答えはいくつも浮かぶ。
城の中が息苦しかったのかもしれぬ。
家臣たちの視線が嫌になったのかもしれぬ。
ただ面白そうだから夜の町へ出たのかもしれぬ。
どれもあり得る。どれも吉法師らしい。
だが今、理由を考えている暇はない。
「見つけてから聞きます」
それだけ言うと、政秀は自ら廊下を歩き出した。
年は重ねていても、足取りはまだ速い。
止まって指図するだけでは気が済まないらしい。
城の奥では、まだほとんどの者が眠っている。
だが一方で、起きている者たちの間にはもう小さな波が立ち始めていた。
「若殿がまた消えたらしい」
「今夜は妙に人が走っている」
「信秀様のご容体もあるのに……」
囁きは、火より早く広がる。
政秀はその気配を感じながら、さらに顔を険しくした。
今夜の騒ぎが、ただの笑い話で終わるならまだよい。
だが城の空気がこれだけ尖っている今は、どんな小さなことでも、すぐに別の意味を持ち始める。
若殿の夜遊び。
嫡男の奔放。
家督前夜の不穏。
そんなふうに、人は勝手に繋げてしまう。
「……吉法師様」
政秀は歩きながら、半ば呻くようにその名を呼んだ。
「どうして、このような時に限って」
言いながらも、答えは分かっていた。
あのお方は、こういう時だからこそ出て行くのだ。
城が重くなればなるほど、外の風を吸いたくなる。
人が内へ籠もるほど、あの若殿は外へ向く。
それが吉法師という人間なのだろう。
だが教育係としては、たまったものではない。
庭では松が風に鳴っている。
夜の空気は冷たい。
その冷たさの中で、那古野城はまるで巨大な蟻塚のようにざわつき始めていた。
若殿一人を探すために。
そして同時に、若殿一人がいないことで、城全体がどれほど落ち着きを失うかを、誰もが改めて思い知らされるために。




