第36話 百姓の飯
「泊まる?」
小夜が本気で言っているのか分からない顔でそう言うと、吉法師は当たり前のように頷いた。
「うむ」
「……うむ、じゃないのよ」
夜道を並んで歩きながら、小夜は呆れたように額へ手を当てた。
さっきの百姓同士の争いがようやく収まったばかりだというのに、この若殿はもう次のことを考えている。
「どこに」
「さっきの家だ」
「断られるわよ」
「そうか?」
「そうよ。あんなふうに『武士が口を出すな』って言われたばかりでしょうが」
吉法師は少しだけ考えた。
「では、おぬしが言え」
「何で私が」
「見張り役なのだろう」
「便利に使わないで」
そう言いながらも、小夜は歩みを止めなかった。
城下の外れは、夜になると音が減る。酒場の騒ぎも遠く、賭場の熱気もここまでは流れてこない。
ただ土の匂いと、刈り取った草の青い残り香と、どこかの家の竈から漂う薄い煙の匂いだけがある。
城の中の夜とは、匂いそのものが違った。
二人がさっき喧嘩のあった家の前まで戻ると、戸の隙間からまだ灯りが漏れていた。
小夜が先に声をかける。
「……さっきの、通りすがりです」
中で気配が止まった。
それから、ぎし、と戸が少しだけ開く。顔を出したのは、先ほど子を抱いていた女だった。
月明かりの下で見ると、まだ若いが疲れが深く刻まれている。
吉法師の顔を見た瞬間、女の眉がぴくりと動いた。
「あんたたち……」
警戒は消えていない。
当然だと吉法師も思った。
小夜が先に頭を下げる。
「さっきは、余計な口を挟んだわ」
女は少し驚いたような顔をした。まさか、こんな時間に戻ってきて詫びるとは思わなかったのだろう。
吉法師も小さく言う。
「すまぬ」
その一言に、女はますます戸惑った顔になった。
武士の子らしい着物を着た少年が、素直に謝る。
それはあまり見慣れぬものだったらしい。
「……何の用だい」
ようやく絞り出すように女が言う。
吉法師は躊躇なく答えた。
「泊めてくれ」
小夜が横で目を閉じた。
やっぱりそう言う、という顔である。
女も当然、すぐには意味が飲み込めなかった。
「は?」
「一晩でよい」
「何でうちなんだい!」
それはもっともな反応だった。
吉法師は真顔のまま言う。
「百姓の暮らしを見たい」
「見世物じゃないんだよ!」
戸の向こうから、今度は男の怒鳴り声がした。先ほどの痩せた男である。
「誰だ!」
「さっきの若造だ」
女が振り返って答えると、男が戸口まで出てきた。そして吉法師の顔を見るなり、露骨に顔をしかめる。
「まだいたのか」
「うむ」
「うむ、じゃねえ!」
「泊めてくれ」
男は本気で言葉を失った。
小夜はもう、笑うのを堪えるのも諦めて少し横を向いている。
「何なんだ、お前は本当に」
男が呻くように言うと、吉法師は少しだけ肩をすくめた。
「わしもまだ、よく分からぬ」
その答えが妙に本音っぽくて、女の方が先に吹き出しそうになった。
だがすぐに口を押さえ、咳払いで誤魔化す。
男はしばらく吉法師を睨んでいたが、やがて深く深く息を吐いた。
「……変なガキだな」
「よく言われる」
「だろうよ」
それから、男は妻と顔を見合わせた。
子供は母の後ろから半分だけ顔を出して、吉法師をじっと見ている。
断ることもできたはずだ。
だが、先ほど喧嘩の最中に入ってきたこの若造が、今度は本気で一晩泊まろうとしているのが、どうにも気になったのだろう。
「何もねえぞ」
男がぶっきらぼうに言った。
「分かっておる」
「飯もたいしたもんはねえ」
「それでよい」
「寝るところだって藁だ」
「それもよい」
男はとうとう呆れたように頭を掻いた。
「好きにしろ」
それが許しだった。
家の中は狭かった。
城の部屋と比べるまでもない。土間があり、その奥に板の間と小さな囲炉裏、さらに奥に藁を敷いた寝場所がある。壁は薄く、風が少し入る。
だが人の体温があるせいか、外よりはずっと暖かい。
子供は吉法師を珍しい獣でも見るような目で見ており、女はまだ警戒を解いていないが、露骨な敵意はもうなかった。
「そこ、座んな」
男が囲炉裏のそばを顎で示す。
吉法師は素直に腰を下ろした。
小夜も、その少し後ろに静かに座る。
女が鍋の蓋を開けると、湯気がふわりと立った。
良い匂いとは言いにくい。だが空腹を思い出させる匂いだった。
やがて出されたのは、粟を混ぜた飯と、青菜を煮た汁、それに少しの漬け物だけだった。
吉法師は膳を見て、しばらく黙った。
城では、飯が出る。
米もある。汁にも具が入り、魚が添えられることもある。
腹が減ったなどと口に出せば、小姓がすぐ何か持ってくる。
そんな暮らしが当たり前ではないことを、頭では分かっていたつもりだった。
だが、実際にこうして目の前へ出されると、その違いは言葉よりずっと重かった。
「どうした」
男が訊く。
「食わねえのか」
「いや」
吉法師は箸を取った。
まず、粟の飯をひと口。
ぼそぼそする。米だけの飯とは全く違う。
だが、まずいわけではない。よく噛めば甘みが出る。ただ、城で食うものとは別の食べ物のように感じる。
次に汁を飲む。
青菜だけだ。出汁はない。だが、温かい。
吉法師は思わず言った。
「……城の飯とは別の国だな」
女がきょとんとした顔をし、男が眉をひそめる。
「何だそりゃ」
「いや」
吉法師は正直に続けた。
「同じ尾張なのに、食うものがここまで違うのかと思ってな」
男は鼻を鳴らした。
「そりゃ違うだろうさ」
「米は作っておるのに、米だけではないのだな」
「作った米を全部食ってりゃ、年貢が出せねえ」
その一言はあまりにも当たり前で、だからこそ重かった。
吉法師は飯を噛みしめながら、黙った。
自分が昼間に見た田から、この夜の飯まで、すべてが一本でつながっている。
だが城の中では、それが途切れて見えていた。
米は年貢であり、兵糧であり、帳面の数字だ。
ここでは違う。
飯そのものだ。
腹に入るものだ。
足りぬと困るものだ。
「坊ちゃん」
子供が急に言った。
吉法師が顔を上げる。
「何だ」
「お前、本当に武士なのか」
小夜が吹きそうになるのを堪えている。
吉法師は真顔で答えた。
「たぶんそうだ」
「たぶん、って何だよ」
子供は笑った。
その笑いにつられて、女も少しだけ口元を緩める。
男だけはまだぶっきらぼうだったが、それでも先ほどまでの刺は薄れていた。
「変な武士だな」
子供が言うと、吉法師は少しだけ笑う。
「変なのは知っておる」
「城じゃ、もっとすごいもの食ってるんだろ」
「うむ」
「いいなあ」
「そうだな」
そこで、吉法師は言葉に詰まった。
「そうだな」としか返せなかった。
自慢する気にはなれない。
だが嘘もつけない。
小夜が横からじっとその顔を見ていた。
普段ならもっと軽口を返すはずの吉法師が、今夜はちゃんと考えている。
それが少し珍しかった。
しばらくして、男が低い声で言った。
「さっきは悪かったな」
吉法師は顔を上げる。
男は飯をかき込みながら続けた。
「……いや、悪かったのはこっちだけじゃねえか。けど、ああでも言わねえとやりきれねえ時もある」
「分かる」
吉法師はすぐに言った。
男が少し驚いた顔をする。
「分かるのか」
「全部ではない」
吉法師は正直に答えた。
「だが、城の中で聞く話と、ここで食う飯では、ずいぶん違う」
男はしばらく吉法師を見ていたが、やがて小さく鼻を鳴らした。
「変なガキだよ、お前は」
「うむ」
それで会話は切れた。
だがその切れ方は、さっきまでの拒絶ではなかった。
囲炉裏の火が小さくはぜる。
夜は深く、外では風が吹いている。
狭い農家の家の中で、吉法師は粟の飯を食べながら、同じ尾張に自分の知らぬ世界がまだいくらでもあるのだと、改めて思い知っていた。




