第35話 うつけの仲裁
「待て」
吉法師が一歩前へ出ると、二人の百姓は同時にこちらを振り向いた。
さきほどの怒鳴り合いは、まだ終わっていない。
空き地の真ん中には米俵がひとつ置かれ、その脇で二人の男が荒い息をついている。
片方は日に焼けた顔を怒りで赤くし、もう片方は痩せた頬を引きつらせていた。どちらも引くに引けぬ顔である。
月は高いが、雲がかかっているせいで光は鈍い。
その鈍い月明かりの下、吉法師の着物だけが場に不似合いなほど目立っていた。
小夜は一歩後ろへ下がり、黙って様子を見ている。
止めるでもなく、煽るでもなく、ただ吉法師がどう出るのかを見ていた。
「待てと言った」
吉法師がもう一度言う。
肩の広い男が、苛立ちを隠そうともせず吐き捨てた。
「何だ、さっきの若旦那か」
痩せた男の方も、険しい目で睨みつけてくる。
「引っ込んでろ。これは俺らの話だ」
吉法師は二人の前まで進んだ。
土の上に草履の跡が残る。相手は大人だ。体つきも、自分よりはるかに大きい。だが吉法師はそれをまるで気にしていない。
「だから止めに来たのだ」
「止める?」
肩の広い男が笑った。笑ったが、その笑いに温かさはない。
「何を分かったようなことを言う」
「分からぬから聞いておる」
「聞いてどうする!」
痩せた男が怒鳴る。
「お前みたいな、きれいな着物着た奴に、俺たちの何が分かる!」
その声に、周りで見ていた女たちが小さく肩をすくめた。
子供は黙って母の裾にしがみついている。
誰も味方もしないし、庇いもしない。
夜の百姓の喧嘩とは、そういうものなのだろう。
吉法師は少しだけ眉を寄せた。
「年貢のことだろう」
「だったら何だ!」
肩の広い男が一歩踏み出す。
「お前が米を出してくれるのか! 兵を返してくれるのか! 出せない家の分まで、うちが背負えって言われる身にもなってみろ!」
痩せた男も負けじと叫ぶ。
「こっちは好きで足りねえんじゃねえ! 戦で働き手を取られて、田が回らねえんだよ!」
「そんなのは言い訳だ!」
「言い訳で済めば苦労しねえ!」
また声がぶつかる。
吉法師は思わず声を張った。
「だから、怒鳴っても――」
その時だった。
「武士が口を出すな」
痩せた男が、吉法師の言葉を真正面から叩き切った。
場が、しんと静まる。
小夜の目がわずかに細くなった。
吉法師も、その一言にはすぐ返せなかった。
男は息を荒げたまま続ける。
「お前、武士だろう」
吉法師は黙っていた。
否定はしない。
それで十分だった。
肩の広い男が、今度は低く、だがはっきりした声で言う。
「だったら引っ込んでろ」
その言い方には、怒りだけではないものが混じっていた。
軽蔑。
諦め。
そして長く積もった苦さ。
「俺たちが何で揉めてると思ってる」
男は吉法師を睨んだ。
「誰が戦を始める。誰が兵を取る。誰が年貢を決める。みんな武士じゃねえか」
吉法師は、胸のどこかを殴られたような気がした。
男は止まらない。
「戦があるたび、村から若いのを取る。戻ってきても半分は傷だらけだ。戻らねえ奴もいる。田は荒れる。米は減る。けど上からは米を出せと言われる。足りねえ分は村の中でどうにかしろと言われる」
痩せた男が、その横から吐き捨てるように言う。
「それで喧嘩してる俺たちを見て、武士が止めに入る? 笑わせるな」
「……」
「お前らが始めた面倒だろうが」
その言葉は、夜の空気より冷たかった。
吉法師は何か言おうとした。
だが喉のあたりで言葉が引っかかる。
自分はこの喧嘩を止めようとした。
それは本心だった。
怒鳴り合っても米は増えぬし、殴り合えば余計に村が荒れる。それくらいは分かった。
だが、今、目の前の百姓が言ったこともまた本心なのだ。
武士が戦を起こす。
武士が兵を取る。
武士が年貢を決める。
その末に苦しむのは、こういう者たちだ。
その現実の前で、「止めてやろう」と思った自分の立ち位置が、急にひどく軽く見えた。
「黙ったな」
肩の広い男が言う。
「図星だからか」
吉法師は唇を引き結んだ。
図星、と言われればそうだった。
自分が戦を起こしたわけではない。
年貢を決めたわけでもない。
だが武士である以上、その側に立っている。
その事実を、今までこんなふうに真正面から叩きつけられたことはなかった。
城の中では、武士は当たり前に上にいる。
町へ出れば、変わり者の若殿として笑われることはあっても、ここまで露骨に拒まれたことはない。
だが今、目の前の百姓たちは、自分をただ「武士」として見ている。
それだけで、こちらの言葉を拒む理由になっている。
小夜が後ろで小さく息を吐いた。
「言ったでしょう」
その声は責めるでもなく、ただ事実を確かめるようだった。
吉法師は振り返らない。
「……うるさい」
だが声には、いつもの強さが少し欠けていた。
痩せた男が、俵を抱え直す。
「もういい。帰れ」
肩の広い男も木桶を起こしながら言う。
「お前さんがここにいても、俺たちの腹はふくれねえ」
それは乱暴な言葉だった。
だが、乱暴だからこそ本音だった。
吉法師はしばらくその場に立っていた。
何か言い返したい気持ちはある。
けれど、何を言っても今は薄っぺらく響くだけだと分かってしまった。
やがて、二人の男は互いに睨み合いながらも、それ以上は手を出さず、それぞれの家の方へ引いていった。
喧嘩そのものは止まったが、解決したわけではない。
ただ今夜の怒鳴り合いが終わっただけだ。
女たちも、子供を連れて無言で後を追う。
誰も吉法師へ礼を言わない。
誰も期待もしない。
通りすがりの武士の子が、気まぐれに口を挟んだだけ。
それが彼らにとっての吉法師だった。
空き地に残ったのは、倒れた桶の跡と、俵が引きずられた土の線だけだった。
しばらくして、小夜が吉法師の隣へ来た。
「帰る?」
吉法師はすぐには答えなかった。
「……百姓は、武士が嫌いなのだな」
ぽつりとそう言うと、小夜は少しだけ首を傾げた。
「嫌い、だけじゃないわ」
「では何だ」
「怖いのよ」
吉法師は小夜を見る。
小夜は月を見上げたまま続けた。
「武士は、急に村へ来る。兵を出せと言う。米を出せと言う。逆らえば処罰される。なのに困った時だけ、分かった顔で止めに来る。そりゃ嫌われるし、怖がられるわ」
その言い方には妙な実感があった。
忍びとして各地を見てきたからか、それとも小夜自身にもそういう覚えがあるのか、吉法師には分からない。
「全部の武士がそうではない」
思わず言うと、小夜はようやくこちらを見た。
「ええ。でも百姓から見れば、同じよ」
その一言が、また胸に刺さった。
同じ。
城の中で誰が礼を知るか、誰が夢を語るか、誰が家中を思うか。そんな違いは、百姓から見ればほとんど意味がない。武士は武士なのだ。上から兵を取る者。米を取る者。そういうものとして見られている。
吉法師は、その事実を初めて実感した。
「……面倒だな」
「今ごろ?」
小夜は少し笑う。
「でも、知れてよかったんじゃない」
「よかった、か」
「あなた、知らなかったでしょう」
それには、反論できなかった。
知らなかった。
少なくとも、ここまで生々しくは。
戦で苦しむ民はいる。
年貢で困る家もある。
そんなことは頭では分かっていた。
だが、目の前で「武士が口を出すな」と言われるのは、まるで別の話だった。
吉法師は土を見た。
そこにはまだ、さっきまで男たちが立っていた足跡が残っている。
「城の中におるだけでは、分からぬな」
「でしょうね」
「……狭い」
小夜が目を瞬いた。
「何が」
「城の中だ」
吉法師ははっきりと言った。
「城の中では、武士の顔しか見えぬ。武士の理屈しか聞こえぬ。だが外に出れば、武士が嫌われる理由が転がっておる」
小夜はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「それを見に来たんでしょう?」
「そうかもしれぬ」
吉法師はそう言って、ようやく歩き出した。
足取りは、来た時より少し重かった。
小夜も隣に並ぶ。
今度は何も軽口を叩かなかった。
吉法師が今、少しだけ本気で考え込んでいるのが分かったからだ。
夜の城下は相変わらず静かだった。
だが吉法師の胸の中では、先ほどの百姓の言葉が何度も繰り返されていた。
――武士が口を出すな。
それは、初めて民から向けられた、はっきりした拒絶だった。
そして同時に、武士である自分が何者として見られているのかを、初めて思い知らされた瞬間でもあった。




