第34話 百姓の争い
「止まって」
小夜が急に袖を引いたので、吉法師は一歩手前で足を止めた。
さっきまで笑い声や酒の匂いに満ちていた夜の町とは違い、ここは少し外れた暗い道だった。
城下の端へ近いのか、人家の間隔もまばらで、道の脇には積まれた薪と、雨除けの筵が黒い影になっている。月は高いが、雲が薄くかかっていて、地面の輪郭はぼんやりとしか見えない。
その闇の向こうから、怒鳴り声が響いていた。
「こっちだって好きで出さねえんじゃねえ!」
男の声だった。
すぐに別の男が怒鳴り返す。
「ならどうする! うちだけで穴埋めしろってのか!」
がしゃん、と何か木の道具が倒れる音がする。
吉法師は眉をひそめた。
「喧嘩か」
「喧嘩ね」
小夜は低く答えた。
「行くのか」
「見に来たんだろう?」
そう言って小夜は先に路地の角へ寄り、壁の陰から向こうを窺う。吉法師もその隣へ並んだ。
小さな空き地のような場所だった。昼には荷を積んだり、農具を置いたりするのだろう。
今は月明かりの下で、二人の男が向かい合っていた。
どちらも百姓らしい粗末な着物姿で、土にまみれた脚絆を巻いている。
年は三十過ぎといったところか。
片方は肩が広く、もう片方は痩せて頬がこけていた。
間には米俵が一つ、倒れた木桶が一つ、そしてそれをどうするかで揉めているらしい空気がある。
少し離れたところには、それぞれの家の者らしき女たちや子供が立っていた。
止めに入るでもなく、ただ固い顔で見ている。
止めたくても止められぬ喧嘩なのだと、それだけで分かった。
「だから言ってるだろうが!」
痩せた男が、俵を指差して叫んだ。
「今年はこれ以上出せねえ! 人手が足りねえんだ!」
「足りねえのはこっちだって同じだ!」
肩の広い男が怒鳴り返す。
「お前んとこが出さねえなら、その分はうちへ回る! 米を出せないと庄屋から叱られるのはうちなんだぞ!」
吉法師は小さく息を吐いた。
「年貢か」
小夜が頷く。
「そうみたいね」
話の筋はすぐに見えた。
村ごと、あるいは組ごとに納める米の量が決まっていて、片方の家が出せなければ、別の家へしわ寄せが来るのだろう。
出せぬ方は困っている。
だが押しつけられる方もまた困る。
どちらも悪いわけではないのに、喧嘩だけが大きくなる、いかにも尾張の百姓らしい揉め方だった。
「戦で取られたんだよ!」
痩せた男が、今度は半ば泣きそうな声で叫んだ。
「弟も、倅もだ! 去年の戦で駆り出されて、戻ってきたのは弟だけだ! 倅はまだ寝込んでる! 田を見られる手が足りねえんだよ!」
その声に、背後にいた女が顔を伏せた。妻か、あるいは母か。
隣にいた小さな子が、その袖をぎゅっと掴む。
肩の広い男の方も、負けじと怒鳴る。
「そんなもん、うちだって楽じゃねえ! でも出さなきゃならねえんだよ! 米を出せねえ家があるなら、こっちまで巻き添えで処罰される! 庄屋だって役人だって、待ってくれはしねえ!」
そこで吉法師は、小夜の顔をちらりと見た。
小夜は何も言わず、ただじっと喧嘩を見ている。
止める気はなさそうだった。
「行かぬのか」
「あなたが行くんでしょう?」
「おぬしはどうする」
「私は見てる」
そのあっさりした答えに、吉法師は少しだけ鼻を鳴らした。
「忍びは冷たいな」
「忍びじゃなくても、ああいうのに下手に首を突っ込むと拗れるわ」
たしかにそうかもしれぬ。
だが吉法師は、もう足を踏み出していた。
「おい」
声を張ったわけでもないのに、二人の男は同時にこちらを振り向いた。
月明かりの中から突然、若い男――しかも着物の質だけ見れば町人ではない者が現れたのだ。
二人とも一瞬だけ言葉を失う。
「誰だ」
肩の広い男が、荒い息のまま言う。
「通りすがりだ」
吉法師は平然と答えた。
その返事が余計に怪しい。
背後で小夜が小さく息を吐いたのが分かった。
「通りすがりがこんな時間に何の用だ!」
「うるさいから見に来た」
吉法師がそう言うと、今度は痩せた男の顔が険しくなる。
「笑いものに来たのか!」
「違う」
「なら引っ込んでろ! これは村の話だ!」
その声には怒りだけでなく、追い詰められた者の荒さがあった。
吉法師にもそれは分かった。
だから一度は黙った。
黙ったが、すぐには引かなかった。
空き地の真ん中にある俵を見る。
男たちの荒い息を見る。
背後で子を庇う女の手を見る。
「おぬしら、喧嘩したいのではあるまい」
吉法師が言うと、二人とも一瞬だけ口をつぐんだ。
そこを見逃さず、吉法師は続けた。
「片方は出せぬ。片方は出さねばならぬ。だから揉めておる。殴り合ってどちらが勝っても、米は増えぬぞ」
「分かってる!」
肩の広い男が怒鳴る。
「分かってるが、どうにもならねえんだよ!」
痩せた男も叫ぶ。
「こっちは人手がねえんだ! 戦で働き手を取られて、田の面倒を見きれねえ! 米が減るのは当たり前だろうが!」
「なら村全体で埋めろって言われるのはこっちなんだ!」
「それを俺にどうしろってんだ!」
また怒鳴り合いになりそうな空気が膨らむ。
吉法師は舌打ちしそうになるのを堪えた。
どちらも困っている。
どちらも間違っていない。
だから余計に面倒だった。
小夜が後ろから小さく言う。
「言ったでしょう。拗れるって」
吉法師は振り返らずに答える。
「うるさい」
「ほら、そういうところ」
だが、その軽口のおかげか、少しだけ頭が冷えた。
吉法師は改めて二人を見た。
「村の庄屋はおるのか」
男たちは怪訝な顔をした。
「いるが……」
「今ここにおらぬのか」
「夜だぞ」
「だから何だ」
「何だ、って……」
吉法師は肩をすくめた。
「おぬしら二人がここで怒鳴り合うより、庄屋を起こして来た方が早いだろう」
二人とも、今度は別の意味で黙った。
たしかにそうだ。
だが、それができるなら最初からしている。
その顔を見て、吉法師はすぐに気づく。
「庄屋もあてにならぬのか」
痩せた男が、苦い顔をした。
「庄屋は、上から言われた分を集めるだけだ」
肩の広い男も低く続ける。
「足りねえなら、村の中で何とかしろって言うだけだ」
吉法師は少し黙った。
つまり、上からの重みは下へ落ちる。
その下にいる者同士で奪い合うしかなくなる。
城の中では「年貢」とひとくくりにするが、その一言の下に、こういう喧嘩がいくらでもあるのだろう。
背後で子供が小さく泣いた。
女が慌てて抱き寄せる。
その音で、空き地の空気が少しだけ冷えた。
怒鳴り合っていた二人の男も、一瞬だけそちらを見た。
本当はもう、叫ぶ力も惜しいのかもしれぬ。
吉法師はゆっくり息を吐いた。
「今日は引け」
男たちが顔を上げる。
「……何だと」
「今日殴っても、明日また困るだけだ」
吉法師は俵を指差した。
「それはまだある。全部ではないにせよ、無ではない」
「だから足りねえんだろうが!」
「足りぬなら、足りぬ分を今夜決めるな」
二人は黙った。
吉法師はさらに言う。
「明日、村の者を全部集めろ。働き手を取られた家がどこで、余裕のある家がどこか、ちゃんと見ろ。そのうえで庄屋へ言え。村で足りぬなら村の上へ言うしかない」
その言葉に、肩の広い男が吐き捨てるように言う。
「そんなこと、言ったって聞くもんか」
「聞かせろ」
吉法師は即答した。
「一人で怒鳴るより、十人で言った方がまだましだ」
その返しに、痩せた男がじっと吉法師を見た。
この若い男は、何者なのだろう。
着ている物は上等だが、言葉は妙に率直で、武士とも町人ともつかぬ。
それに、怒鳴られても引かぬ。
「お前、誰なんだ」
やはりその問いが出た。
吉法師は一瞬だけ考えたが、正直に名乗れば余計にややこしくなる気がした。
すると後ろから小夜がすっと前へ出る。
「通りすがりの、口うるさい若旦那よ」
吉法師が横目で睨む。
小夜は平然としていた。
男たちはそれ以上深く追及しなかった。
何者であれ、今はその方が都合がよかったのだろう。
やがて肩の広い男が、深く息を吐いた。
「……今日は、引く」
痩せた男も、悔しそうに唇を噛んだあと、小さく頷く。
「俺もだ」
それで喧嘩は収まった。
解決したわけではない。
ただ、今夜の怒鳴り合いが止まっただけだ。
男たちはそれぞれ俵と桶を起こし、家の者を連れて散っていく。
背中は重く、何ひとつ軽くなってはいないことが分かる。
空き地に静けさが戻ると、小夜が言った。
「珍しく、ちゃんと止めたわね」
「珍しくとは何だ」
「だいたい余計に揉めるかと思った」
「わしも思った」
その答えに、小夜は吹き出した。
「何それ」
「だが、怒鳴り合いをしておっても米は増えぬ」
吉法師は俵が置かれていた場所を見た。
そこにはまだ、土のへこみだけが残っている。
「戦で働き手を取られた、か」
ぽつりと呟く。
小夜はそれを聞いて、少し真面目な顔になった。
「よくある話よ」
「よくあるのか」
「戦があればね。兵は武士だけじゃ足りないもの。荷運び、道案内、雑用、何だって人手がいる」
吉法師は黙った。
城の中では、戦は武士がするもののように語られる。
だが実際には、戦のたびに田から人が消え、その穴を誰かが埋め、埋めきれぬ分だけ実りが減る。
今日の喧嘩は、その小さな傷口が表へ出ただけなのだろう。
「城の中では見えぬな」
吉法師が言う。
「城の中では見せないのよ」
小夜の声は静かだった。
「見せたって、偉い人たちは面倒がるだけだもの」
「皆がそうではない」
「あなたはそうじゃないって言いたいの?」
吉法師はすぐには答えなかった。
言えるほど、自分はまだ何もしていない。
見ただけだ。
聞いただけだ。
止めただけで、喧嘩の元そのものは何も変わっていない。
「……分からぬ」
やがてそう答えると、小夜は少しだけ目を丸くした。
「素直ね」
「分からぬものを分かったと言う方が阿呆だ」
「そうだけど」
小夜は少し笑った。
夜風が吹き抜ける。
怒鳴り声の消えた空き地は、さっきまでよりずっと広く見えた。
吉法師はその空を見上げた。
戦は、戦場だけで終わらぬ。
城の中で決まることが、こんな場所で喧嘩になる。
そう考えると、城の中の広間で交わされる言葉も、急に別の重さを持ち始める気がした。
「面倒だな」
思わず漏れた言葉に、小夜が笑う。
「今ごろ気づいたの?」
吉法師は鼻を鳴らした。
「城の中も面倒だが、外も面倒だ」
「だから世の中って言うのよ」
小夜はそう言って、先へ歩き出した。
吉法師はその後を追いながら、もう一度だけ振り返った。
空き地には誰もいない。
だが、今夜聞いた怒鳴り声は、しばらく耳に残りそうだった。




