第33話 城下町の夜
「こっち」
小夜がそう言って細い路地へ入ると、吉法師も何のためらいもなく後に続いた。
昼の城下町なら何度も歩いている。団子屋も、鍛冶屋も、薬売りも、表通りの賑わいも知っている。
だが夜の町は、同じ場所でありながらまるで別の顔をしていた。
店先の戸は半ば閉じられ、昼には大声で客を呼んでいた商人たちも姿を消し、その代わりに低い声と、灯りを絞った気配と、人の欲が湿った土の上を這うような匂いが漂っている。
「昼とは違うな」
吉法師が言うと、小夜は前を向いたまま答えた。
「違うわよ。夜は、昼に出せないものが出てくるから」
「人か、物か」
「どっちも」
その答え方がいかにも小夜らしく、吉法師は少し笑った。
路地は次第に細くなっていく。
左右の家々は肩を寄せ合うように建ち、その隙間を縫うように二人は進んだ。
屋根から垂れた水がぽたりと落ち、土の匂いが濃くなる。遠くで犬が吠えたかと思うと、すぐ近くの家の障子の向こうから、酒に酔った男の笑い声が響いた。
小夜がふいに立ち止まる。
「見て」
顎で示した先、半ば崩れた土塀の向こうに、小さな灯りがいくつも揺れていた。
吉法師が目を凝らすと、人が輪を作って座っている。
酒を飲んでいるような騒がしさではない。もっと低く、息を潜めるような熱があった。
男たちは膝を寄せ合い、手元を覗き込み、ときおり短く声を上げる。
銭の触れ合う音が、夜気を擦るようにかすかに聞こえた。
「賭場よ」
小夜が小声で言った。
「賭場」
「見たことない?」
「ない」
「お殿様だものね」
「その言い方、まだやめぬのか」
「やめない」
小夜は悪びれもせずに言う。
吉法師は塀の影から中を覗いた。
紙札、木札、銭、さいころ。勝った負けたで顔色を変える男たち。
昼間に見た商人たちとも、農民たちとも違う顔だった。
そこには飯のためでも、戦のためでもない、もっとむき出しの欲が出ていた。
「面白いな」
ぽつりと吉法師が言うと、小夜は横目で見る。
「面白い?」
「昼は皆、表の顔をしておる」
「夜は裏の顔って言いたいの?」
「裏というより……本音かもしれぬ」
賭場の男たちは、礼も体裁もない顔をしていた。
負ければ舌打ちし、勝てば笑う。
そこには城の広間にあるような取り繕いがない。
汚いと言えば汚い。
だが、その汚さの方がむしろ分かりやすいように吉法師には感じられた。
「長居すると見つかるわ」
小夜が袖を引いた。
「見つかるとまずいのか」
「私はまずい」
「おぬしだけか」
「あなたは逃げれば済むでしょうけど、私は後が面倒なの」
「なるほど」
吉法師は素直に頷いた。
二人はさらに路地を進む。
賭場の熱気が背後へ遠ざかると、今度は別の匂いが流れてきた。
酒だ。米を煮て発つ甘い香りと、人の体温と、酔いの熱が混じった空気である。
小夜が次に足を止めたのは、低い暖簾のかかった小さな店の前だった。
戸は半分開いており、中からは赤ら顔の男たちの笑い声と、女の甲高い笑い声が交じり合って聞こえてくる。
「酒場」
「これは分かる」
「でも昼間の店とは違う」
吉法師が覗くと、そこには武士もいた。町人もいた。
荷を担ぐような男もいれば、着流しの浪人らしき者もいる。
皆、同じ酒の匂いの中で肩を並べ、声を荒げ、笑い、時には睨み合っていた。
「身分が混じっておるな」
「酒の席では少し薄れるのよ」
「少し、か」
「少しだけね」
その“少し”が妙に現実的で、吉法師はまた小さく笑った。
城の中では、誰がどこへ座るか、誰が誰へどう口を利くか、きちんと線が引かれている。
だが夜の酒場では、その線が少しにじむ。完全には消えないが、昼よりは曖昧になる。
そういう場所が城下にはあるのだと、吉法師は初めて知った。
「戦の話も聞こえる」
吉法師が言った。
「そりゃそうよ。酒が入れば皆しゃべるもの」
実際、中からは「どこそこの侍大将がどうした」だの、「美濃では今こうらしい」だの、「信秀様の咳が深いらしい」だの、断片的な言葉が漏れていた。
最後の一言に、吉法師の目が少し細くなる。
小夜も気づいたらしいが、何も言わない。
「城の中だけでは、こういうふうには聞こえぬな」
吉法師が低く言うと、小夜は少しだけ真面目な顔になった。
「だから見に来たんでしょう」
「うむ」
城の中では、父の病に触れる言葉は慎重に隠される。だが城下では違う。
確かなことかどうかも分からぬまま、人の口から口へ渡っていく。
そしてその噂が、また人を動かしていく。
城を守るのは槍だけではないのだと、吉法師はなんとなく感じた。
酒場を離れると、町はさらに暗い方へ沈んでいった。
灯りの数は減り、道もさらに細くなる。
表通りの賑わいはもう遠い。
小夜の足取りも、ここへ来てますます慎重になっていた。
「次は何だ」
「静かにして」
そう言われたので、吉法師は珍しく素直に口を閉じた。
小夜は角を一つ曲がり、古びた蔵の陰へ身を寄せる。
吉法師もその隣にしゃがみ込んだ。
土壁は夜気で冷たく、どこか黴の匂いがした。
しばらくすると、向こうの暗がりから荷車が一台、音を殺すようにゆっくり現れた。
引いているのは荷運びの男にしか見えない。
だが、その荷車には布が深く被せられ、昼間の商いよりも明らかに隠す気配が濃い。
さらに、その荷を受け取る男がいた。
着物は地味だが、指先だけ妙に白く、商人というより、城の中へも出入りしそうな顔つきだ。
「闇商人」
小夜がほとんど息だけで言う。
「何を売る」
「物による」
「答えになっておらぬ」
「塩、鉄、薬、時には盗品。時には人に知られたくない文だって動く」
吉法師は目を見開いた。
「文もか」
「ええ。戦国ってそういう世の中よ」
荷車の男が周囲を窺い、布の下から何か小さな包みを渡す。
受け取った男は懐から銭袋を出し、手早く中身を改める。誰一人大声を出さず、話す声もほとんど聞こえない。
ただ慣れた手つきだけが、月の薄い光の下で動いていた。
「城の中から見える世とは、ずいぶん違うな」
吉法師の声は、今度は本当に独り言のようだった。
小夜は横目でその顔を見た。
昼間なら何を見ても面白がって口を開く若殿が、今はちゃんと黙って見ている。それが少しだけ意外だった。
「違うでしょう」
「うむ」
「だから私は、城の中の人間は信用しすぎない」
「城の外の人間は信用するのか」
「しないわ」
「では、誰を信用する」
小夜は少しだけ考えたように見えたが、結局答えなかった。
その沈黙を、吉法師は無理に破らない。
答えぬ時は答えたくない時だと、もう分かり始めている。
荷車が去り、受け取った男も暗がりへ消えると、小夜はようやく立ち上がった。
「もう十分見たでしょう」
「まだだ」
「まだ?」
「城の中では見えぬものが多すぎる」
吉法師は土を払いながら、空を見上げた。
月は同じなのに、城の中と外では見え方が違う気がした。
城の中の月は、整えられた庭や白い障子の向こうに収まっている。
だが城下の月は、賭場の上にも、酒場の笑いの上にも、闇商人の荷車の上にも、同じように落ちている。
そしてその下には、城の中で考えているよりずっと広く、ずっと雑多な世界がある。
「城の中は狭いな」
吉法師がぽつりと言った。
小夜は歩き出しかけた足を止める。
「急に何」
「城の中におると、武士の顔ばかり見る」
吉法師は続けた。
「誰が礼を知る、誰が当主向き、誰が家中を乱す、そんなことばかりだ。だが外へ出ると、賭ける者がおる。酔う者がおる。夜に物を売る者がおる。噂で父上の病を語る者までおる」
小夜は黙って聞いていた。
「国は、城の中だけではないのだな」
その言葉には、いつものような大仰さがなかった。
ただ初めて実感したことを、そのまま口にしているだけの声だった。
小夜は少しだけ目を細めた。
「今さら?」
「今さらだ」
「殿様って、本当に面白いわね」
「またそれか」
「だって、普通の殿様はこんなこと思わないもの」
「普通の殿様を知らぬ」
「私は少し知ってる」
「なら、やはりわしの方が面白いのだろう」
その言い方がいかにも吉法師らしく、小夜はつい吹き出した。
「何それ」
「そういうことではないのか」
「違わないけど、そう堂々と言うのが変なのよ」
笑いながら言う小夜の横顔は、前より少しだけ柔らかかった。
夜の城下町はまだ眠らない。
遠くでまた笑い声が起こり、どこかで犬が吠え、風が軒先の縄を揺らした。
吉法師はその音を聞きながら、しばらく黙っていた。
城の中の声。
城の外の声。
どちらも同じ尾張の中にある。
なのに、まるで別の国のようだった。
「もっと見たい」
やがて吉法師が言うと、小夜は呆れたように肩を落とした。
「今夜だけで足りないの?」
「足りぬ」
「私は見張り役なんだけど」
「なら好都合だ」
「どこが」
「また堂々とついてこい」
小夜は、とうとう声を立てて笑った。
その笑いは夜の路地に小さく弾み、すぐに闇へ溶けた。
吉法師はその顔を見て、ほんの少しだけ目を細めた。
城の中より、ずっと息がしやすい。
それがどうしてなのかは、まだうまく言葉にならなかったが、吉法師の胸の中では確かに何かが動き始めていた。




