第32話 忍び少女
「ついて来い」
吉法師がそう言うと、少女は呆れたように目を細めた。
「……殿様って、見張られてる相手にそんな口を利くのね」
「見張られておるからだ」
吉法師は足を止めずに言った。
夜の道は暗い。だが城下町の方にはまだ灯が点っており、細い路地の向こうからは酒の匂いと、遅くまで起きている人々の話し声が微かに流れてくる。城の中の息苦しい静けさとは違う、生きた音だった。
少女は数歩遅れてついてきながら、肩をすくめた。
「普通は怖がるか、怒るか、どっちかでしょう」
「おぬしが怖い顔をしておらぬからな」
「そう見せてるだけかもよ」
「なら、もっと上手く見せろ」
その返しに、少女は一瞬だけ言葉を失った。
だがすぐに、ふっと鼻で笑う。
「やっぱり変な殿様」
吉法師はちらりと横目で少女を見た。
月明かりの中で見ると、やはり町娘には見えなかった。小柄で細い。見た目だけなら、どこにでもいる年頃の娘だ。だが、足音がない。夜道を歩いているのに裾さばきが乱れず、視線も一か所に止まらず、常に周囲を拾っている。人を見ている目だ。前に城下で会った時から、そこだけは変わらない。
「おぬし」
吉法師が言う。
「なんでございましょう、殿様」
「その言い方、嫌いだ」
「じゃあ何て呼べばいいの」
「吉法師でよい」
少女は少しだけ眉を上げた。
「殿様を呼び捨て?」
「殿様と言うな」
「面倒くさいのね、あなた」
「そうかもしれぬ」
吉法師は平然と答えた。
しばらく二人は黙って歩いた。
夜風が吹き、路地の端に吊るされた布がかすかに揺れる。どこかの家の中から赤子の泣き声が聞こえ、またすぐ止んだ。城の中では聞こえぬ音ばかりだ、と吉法師は思う。
やがて、吉法師は何でもないように口を開いた。
「名は」
少女はすぐには答えなかった。
その沈黙は、ただのためらいではなく、相手にどこまで明かすかを測る間のように見えた。吉法師は急かさない。ただ前を見たまま歩く。
「……望月小夜」
ややあって、少女はそう言った。
「望月」
吉法師はその名を口の中で転がした。
「月を見る名だな」
「別に、自分でつけたわけじゃないわ」
「小夜」
「そっちは夜のこと」
「似合っておる」
小夜は横目で吉法師を見た。
「口説いてるの?」
「なんだそれは」
「……知らないならいい」
小夜は少しだけ笑った。
その笑い方は、城下で見せたものより自然だった。忍びとしてではなく、ただ年頃の娘として不意に出た表情に近い。
だが次の瞬間には、またいつもの静かな顔へ戻っていた。
「それで」
吉法師が訊く。
「おぬしは何者だ」
「忍び」
「それは見れば分かる」
「じゃあ聞かないで」
「誰の忍びだ」
小夜は口元を少しだけ引き結んだ。
そこは簡単には言わぬらしい。
吉法師はそれも予想していたので、無理に追わない。
「では何のために見張っておる」
今度は、小夜があっさり答えた。
「見張り役だから」
「そのままだな」
「そのままよ」
小夜は月明かりの下で肩をすくめる。
「あなたを見て、聞いて、どんな人間か確かめる。そういう役目」
吉法師は少しだけ笑った。
「そんなことを本人に言うのか」
「隠したところで、あなたは気づいてるでしょう」
「うむ」
「なら、言った方が早いわ」
それは理屈としては正しかった。
そしてそういうところが、やはり普通の町娘ではない。
「見張り役、か」
吉法師は足を止めた。
小夜も同時に立ち止まる。呼吸が妙に合うのが、少し可笑しかった。
「なら、堂々と見張れ」
小夜が目を瞬かせた。
「……は?」
「こそこそ屋根の上におるから怪しいのだ」
「忍びなんだから怪しくていいのよ」
「見えぬように見張るより、見えるところで見張っておればよい」
小夜はしばらく吉法師の顔を見ていた。
この男は、本当に分からない。
見張られて腹を立てるでもなく、怯えるでもなく、堂々と見張れと言う。普通なら、逃げるか、怒るか、探るか、どれかだろう。だが吉法師はどれでもない。むしろ自分を見張るという事実そのものを面白がっているようだった。
「あなた、本当に変」
「さっきからそればかりだな」
「だって本当にそうなんだもの」
小夜は少しだけ息を吐いた。
「見張り役に堂々と見張れなんて言う人、初めて見た」
「なら、おぬしも初めてのことを覚えたな」
「うれしくないわ」
そう言いながらも、小夜の声には少し笑いが混じっていた。
吉法師は再び歩き出した。
今度は小夜も、ためらわずその隣へ並ぶ。
「どこまで行くの」
「城下だ」
「知ってる」
「なら聞くな」
「夜の城下に何しに行くのよ」
「城の中がつまらぬからだ」
その答えに、小夜は一瞬だけ真顔になった。
「……何かあったの」
吉法師は少し黙った。
先ほど廊下の向こうで聞いた家臣たちの声が、まだ耳の奥に残っている。
吉法師様では家中が割れる。
勘十郎様の方が――
それを小夜へ話す気にはなれなかった。
いや、話したところでどうなるものでもない。
「何でもない」
結局、そう答える。
小夜はそれ以上追及しなかった。
だが、その横顔をちらりと見て、小さく言う。
「何でもない顔じゃない」
「そうか」
「そうよ」
しばらく沈黙が流れた。
夜の城下町へ近づくにつれ、人の気配が増えてくる。遅くまで火を焚く店、酔って笑う男たち、犬の吠える声、どこかの家から漂う煮物の匂い。生きている匂いがした。
吉法師はようやく少し肩の力を抜いた。
「城の中より、こっちの方が息がしやすい」
その言葉は、小夜には少し意外だった。
「殿様って、城の中の方が楽なんじゃないの」
「楽ではある」
「じゃあ何で」
「楽すぎる」
吉法師は言った。
「皆、同じ顔をしておる」
小夜はその意味をすぐには掴めなかったが、聞き返しはしなかった。
この若殿が、城の中で息苦しさを感じている。
それだけは分かった。
そしてそのことが、少しだけ不思議だった。
殿様なら、城の中こそ自分の場所のはずだ。
それなのに、城の外へ出て、見張り役の忍びと並んで歩いている。
「……本当に、変な人」
小夜がまた言うと、吉法師は笑った。
「おぬしも、さっきからそればかりだ」
「だって他に言いようがないもの」
「なら、もう少し考えろ」
「そういうところよ」
小夜は呆れたように言った。
だが、その呆れの中に、先ほどまでの警戒だけではない色が少し混じっていることに、吉法師は気づいていなかった。
あるいは気づいていて、気にしていないのかもしれない。
月は高く、尾張の夜はまだ深い。
城の外には、城の中では聞こえぬ音がいくらでもあった。
そしてその夜、吉法師の隣には、見張り役だと言いながら、もう半分は奇妙な道連れのようになっている忍び少女・望月小夜がいた。




