第31話 城抜け
那古野城の夜は、昼の城とはまるで別物だった。
昼は人の声がある。武士の怒鳴り声、小姓の駆ける足音、女中たちの衣擦れ、庭先で交わされる低い挨拶。
城とはそういう音で生きている。
だが夜になると、それらは一つずつ闇へ沈み、広い廊下には行灯の灯りだけが細く残る。
風が庭の松を揺らし、遠くで見張りの足軽が槍の石突きを床へ軽く打つ音だけが、妙に大きく響いていた。
吉法師は、その静かな廊下をひとり歩いていた。
裸足の裏に板の冷たさが伝わる。
夜の木は昼よりも冷たく、固い。
廊下の角を曲がるたびに、行灯の明かりが伸びたり縮んだりして、まるで城そのものが息を潜めているように見えた。
寝つけなかったわけではない。
眠る気になれなかったのだ。
近ごろ、城の空気がおかしい。
父・信秀の咳は日に日に深くなり、家中の者たちはそれを口にこそしないが、誰もが何かを待つような顔をしている。
吉法師は、そういう顔を見るのが嫌だった。
何も言わぬくせに、胸の内だけであれこれ測っている顔だ。
その夜も、廊下の先の小部屋から、抑えた声が漏れていた。
襖はきちんと閉じられている。だが、夜の城では小さな声ほどよく響く。
「……このままでは、いずれ決めねばならぬ」
低い男の声だった。
吉法師は自然と足を止めた。
聞くつもりはなかった。
だが、自分のことに関わる気配は、聞く前から肌で分かる。
「吉法師様は才がある」
別の声が言う。
「だが、あまりに人の道から外れておられる」
「勘十郎様の方が、家臣は安心いたします」
わずかな沈黙。
それから、さらに低い声が続いた。
「信秀様のご病気が深まれば……家督の話は避けられぬ」
家督。
その一言が、夜の冷気よりも鋭く胸へ刺さった。
吉法師は柱の陰へ身を寄せたまま、じっと黙っていた。
障子一枚の向こうにいる家臣たちは、自分がそこにいるとは思っていないのだろう。
だからこそ本音が漏れる。礼も、体裁も、取り繕いもない、本当の声だ。
「吉法師様では家中が割れる」
「勘十郎様なら……」
そこまで聞いたところで、吉法師は小さく息を吐いた。
腹が立たぬと言えば嘘になる。
だが、それ以上に、妙に息苦しかった。
城の中は、狭い。
誰が誰に頭を下げるか。
誰が誰に好かれるか。
誰が家中を乱し、誰が家中を丸く収めるか。
そんなことばかりを、皆がこそこそと話している。
「……つまらぬ」
ぽつりと呟いた声は、自分でも驚くほど静かだった。
怒鳴り込んでいってもよかった。
「なら面と向かって言え」と言ってやってもよかった。
だが、そうしたところで何が変わる。
家臣たちは平伏して、口では取り繕うだけだ。
本音はもう聞いてしまった。
吉法師は、ゆっくりと踵を返した。
今はあの部屋の近くにいるだけで息が詰まる。
行灯の光も、磨かれた廊下も、整いすぎた城の空気も、すべてが窮屈だった。
向かったのは城門ではない。
そんな正面から出て行けば、すぐに見張りへ見つかる。
吉法師は庭へ降りた。
白砂を踏む音を殺し、松の影に身を沿わせる。
昼ならば手入れの行き届いた美しい庭だが、夜の庭は別だった。
石も枝も黒い影となり、人の足元を惑わせる。だが吉法師はこういう場所を歩くのに慣れていた。
那古野城の抜け道など、だいたい頭へ入っている。
塀の低い場所へ辿り着くと、吉法師は軽く身をかがめた。
草履も履いていない。着物の裾も夜歩きには邪魔だ。だが、それでもためらわない。
「よっと」
小さく息を入れ、塀へ手をかけ、一気に体を引き上げる。
幼いとはいえ、庭を走り回り、木へ登り、廊下を抜けて叱られてきた体だ。こういう動きに迷いはない。塀の上へ立つと、城の外の空気がふっと流れ込んできた。
自由の匂いがした。
城下町の方には、まだわずかに灯りが残っている。酒を出す店、遅くまで火を焚く商家、夜半まで働く職人の家。城の中とは違う、人の暮らしの気配だ。
「さて」
吉法師はそう言って、塀の向こうへ飛び降りた。
地面へ着地した、その瞬間だった。
背筋に、ぴり、と小さな違和感が走った。
誰かに見られている。
吉法師は顔を上げた。
月は高く、薄い雲の隙間から青白い光を落としている。その光に照らされた屋根の上に、細い影がひとつ立っていた。
人影だった。
城の瓦の上。
風に揺れる髪。
細い体つき。
だが立ち方に隙がない。屋根の上など普通の者なら足を滑らせる高さだというのに、まるで地面に立つような軽さでそこにいる。
吉法師は目を細めた。
「……おぬしか」
影は答えない。
だが、次の瞬間、屋根の端からひらりと飛び降りた。
音がしない。
普通の娘なら足をくじく高さだ。だがその影は、猫のように軽く着地し、そのまま何事もなかったように立った。
月明かりが、顔を照らす。
少女だった。
城下で何度か見かけた、あの奇妙な娘。
町娘のように見えて、どうにも町娘らしくない目をした娘である。
吉法師は、口元を少しだけ上げた。
「また会ったな」
少女は肩をすくめる。
「殿がまた面倒なことを始めたから」
「面倒か」
「夜中に城を抜け出す若殿など、見張る方は面倒よ」
その言い方に、吉法師は笑った。
「やはり見張っておったのだな」
少女は、しまったという顔もしない。
むしろ、当然だと言わんばかりに答えた。
「ええ」
「なぜだ」
「それが役目だから」
「役目、か」
少女は少しだけ顎を引く。
「私は殿を見張っている」
はっきり言い切った。
吉法師はその返事を面白がるように、しばらく少女の顔を見ていた。
隠し立てしない。
だが本当のことを全部言っている顔でもない。相変わらず妙な娘だ。
「そうか」
吉法師は城下町の灯りの方へ目を向けた。
「なら、ちょうどよい」
少女が眉をひそめる。
「何が」
「城下へ行く」
「見れば分かる」
「案内しろ」
少女は一瞬、言葉を失ったような顔になった。
「……は?」
「どうせ見張るのだろう。ならついでに案内もできる」
「私は忍びよ」
「知っておる」
「案内役ではないわ」
「似たようなものだ」
そのあまりに勝手な理屈に、少女は呆れたように息を吐いた。
「殿、本当に変な人」
「よく言われる」
吉法師は平然としている。
そしてもう振り返らず、城下町へ続く暗い道を歩き出した。ためらいがない。止まれば城へ引き戻されるとでも思っているのか、あるいは単に立ち止まるのが嫌いなのか、その足取りは妙に軽かった。
少女はしばらくその背を見ていたが、やがて小さく舌打ちにも似た息を漏らし、後を追った。
那古野城の夜は静かだった。
だがその静けさの外で、尾張のうつけはまた一歩、城の外の世界へ踏み出していた。
そしてその背を、ひとりの忍びの少女が、月の下で静かに追っていた。




