第30話 うつけの覚悟
那古野城の夜は、昼の城とはまるで別の生き物のようだった。
昼のあいだは、人の声が絶えない。
武士が行き交い、小姓が走り、女中が膳を運び、どこかで誰かが言葉を交わしている。
怒鳴り声すら城の営みの一つに見える。
だが夜になると、それらはひとつずつ奥へ引いていき、廊下には行灯の灯りだけが細く残り、庭には月の光が静かに落ちる。そうなると、昼には見えなかったものが見えてくる。
人の胸の内も、城のひびも、まだ名のつかぬ不穏も、夜の方がよく姿を現す。
その夜、吉法師は一人で廊下を歩いていた。
後ろに小姓はいない。平手政秀もいない。誰にも告げず、ただ何となく寝所を抜け出し、月の出ている方へ足を向けただけだった。
板張りの廊下はひやりとしており、裸足の裏に夜気を含んだ冷たさが伝わってくる。
庭では松が風に鳴り、遠くで虫が細く鳴いていた。
昼の広間で、自分は大きなことを言った。
この国を一つにする、と。
あの場にいた家臣たちは、呆れ、怒り、黙り込んだ。
政秀だけは、反発しながらもどこか別の顔をしていた。
勝家は勝家で、何かを測るような目をしていた。皆、理解したわけではない。むしろ理解できぬからこそ、ああいう顔になるのだろう。
だが吉法師には、それがどうにも小さく思えた。
尾張の内輪。
家中の顔色。
兄弟の評判。
家臣の好き嫌い。
もちろん、無視してよいわけではない。
そんなことくらいは分かっている。
分かっているが、そればかりを見ていると息が詰まるのだった。
城の中の人間は、すぐに内側だけで物を測る。
誰が礼を知るか、誰が人に好かれるか、誰の言い方が柔らかいか。
そういうことも大事なのだろう。だが、それだけで家が保てるのなら、戦国の世はもっと楽だったはずだ。
吉法師は廊下の先で足を止めた。
目の前には庭が広がっている。白砂の上に月の光が薄くのり、石と松の影がくっきり落ちていた。
昼は人の手で整えられている庭も、夜に見るとまるで別物のように見える。
静かで、冷たくて、だがどこか底のない深さがある。
その深さの向こうに、吉法師は父の寝所の方角を思った。
信秀の病は、もはや隠しきれるほど軽いものではない。誰も「重い」とは言わぬ。だが、誰も本当に軽いとも思っていない。城全体がそれを知っていて、知っていることを口に出さぬまま、ただ少しずつ“次”を意識し始めている。
“次”。
その言葉を頭の中で転がすと、妙に腹の底が熱くなった。
次が誰か。
それをまだ誰も正面から言わない。
言わないが、皆もう測っている。
兄か、弟か。
吉法師か、勘十郎か。
その視線の意味は、吉法師にも分かっていた。
弟の方が整っている。
弟の方が安心できる。
弟の方が人に好かれる。
そんな囁きが、城のあちこちで形を持ちはじめていることくらい、気づかぬ吉法師ではない。
ただ、それを怖れて自分を変える気にもなれなかった。
礼を覚え、言葉を丸くし、誰の機嫌も損ねぬように生きる。
そうすれば当主向きと呼ばれるのかもしれない。だが、それでは自分でなくなる気がした。
「……くだらぬ」
小さく呟いた声は、夜気に吸われてすぐ消えた。
くだらぬ、と言い切るには本当は重すぎる話だ。
父が弱り、家が揺らぎ、家臣が割れようとしている。
それをくだらぬで済ませられるほど、子供でもない。
だが、それでもなお、吉法師にははっきりしていることが一つだけあった。
誰が何を言おうと、織田家は自分が継ぐ。
それは、父に命じられたからではない。
家中が望むからでもない。
弟に負けたくないからだけでもない。
自分が継がねば、この家は小さくまとまって終わる。
そういう確信が、いつからか胸の中に根を張っていた。
吉法師は月を見上げた。
雲は薄く、月は明るい。
尾張の夜空は広いはずなのに、それでもまだ狭く感じる。
美濃も、近江も、京も、その先もあるというのに、皆が尾張の中ばかり見ている。
ならば、自分が広い方を見るしかない。
やがて、誰に聞かせるでもなく、ぽつりと口にした。
「織田家は俺が継ぐ」
それは大声ではなかった。
誓いというにはあまりに静かな声だった。
だが、その静かさの方が、かえって揺るがなかった。
昼間のように大きなことを言ったのではない。
日の本を一つにするという夢よりも、もっと近く、もっと重い現実の言葉だった。
織田家は俺が継ぐ。
その一言で、吉法師の中にあった曖昧な熱が、初めて輪郭を持った。
今まではただ「いずれは」と思っていたものが、その瞬間にはっきりと形になったのだ。
父が弱っていることも、家中が割れかけていることも、弟が人に好かれていることも、全部知った上で、それでもなお、自分が継ぐ。
吉法師はしばらくその場に立っていた。
風が吹き、松の枝が揺れた。どこかで夜番の足軽が槍の石突きを軽く鳴らす音がした。城は静かだったが、その静けさの底で、何かが決まったような気がした。
同じ頃、城の奥にある別の一室では、勘十郎もまた母の前に座していた。
行灯の灯りは控えめで、部屋には薄い香の匂いが漂っている。
母は昼間と変わらぬ穏やかな顔をしていたが、その穏やかさがかえって勘十郎の胸を落ち着かなくさせた。
こういう時の母は、何か大事なことを言う。
「勘十郎」
「はい」
「よく聞きなさい」
勘十郎は自然と背筋を伸ばした。
母はしばらく息子の顔を見つめてから、静かに言った。
「あなたが家を支えるのです」
その一言は、思っていたよりもずっと重かった。
勘十郎はすぐには返事ができなかった。
支える。
継ぐ、ではない。
だが、その言葉の中には明らかに“次”の匂いがあった。
父が弱り、兄が城の中で賛否を集め、家臣たちの目が揺れ始めている。
その中で、母は自分に「支えよ」と言ったのだ。
「母上」
ようやく声を絞り出す。
「兄上が……」
その先が続かない。
母はその言葉を遮らなかったが、慰めるような顔もしなかった。
「兄は兄です」
そう言って、扇の端を静かに撫でる。
「ですが家というものは、正しさだけでも、勢いだけでも保てません。誰かが支えねばなりません」
勘十郎は目を伏せた。
兄は強い。
自由だ。
人の目を怖れず、思ったことを真っ直ぐ言い、時に人を怒らせ、時に人を惹きつける。
勘十郎は、そんな兄を嫌ってはいない。むしろ、尊敬しているところさえある。
だが、その兄が家中で孤立しかけていることも知っている。
そして、自分が礼を尽くすたび、場を丸くするたび、兄と比べられていることも知っている。
それが苦しかった。
「私は……」
勘十郎は膝の上で手を握った。
「兄上と争いたくはありませぬ」
それは本心だった。
兄が憎いわけではない。
蹴落としたいわけでもない。
だが周りは、そういう気持ちとは別のところで動いている。母の言葉も、まさにその動きの一つだった。
母はしばらく黙っていたが、やがて静かに答えた。
「争いたいかどうかで、争わずに済むなら良いのです」
勘十郎は顔を上げた。
その言葉は、優しくもあり、ひどく残酷でもあった。
望もうが望むまいが、時は来る。
その時に、立っていられる者でいなさい。
母はそう言っているのだ。
勘十郎は何も言えなくなった。
兄を思う気持ちと、家を思う気持ちと、母の期待と、自分の未熟さとが、胸の中でひどく絡み合う。
まだ何も起きていない。まだ父もいる。まだ兄弟で争ったこともない。
だが、起きていないからこそ怖かった。人は、起きる前にすでにその形を作り始める。
やがて勘十郎は、深く頭を下げた。
「……承知しました」
その声は、自分でも驚くほど静かだった。
夜はさらに深くなる。
吉法師は月の下で、一人、自分の覚悟を固めていた。
勘十郎は母の言葉の前で、別の覚悟を胸へ沈めていた。
兄は家を継ぐと決める。
弟は家を支えると言い聞かされる。
そのどちらにも、まだ明確な敵意はない。
憎しみも、裏切りも、露骨な欲も、今はまだ形になっていない。
だが周囲はもう待ってはくれない。
家臣は比べる。
母たちは案じる。
女中たちは噂する。
父の咳は、日に日に城を冷やしていく。
まだ争っていない。
それでも、争いは避けられぬ方へ少しずつ動いている。
那古野城の夜は静かだった。
だが、その静けさの下では、まだ誰も口にしない未来が、確かに息をし始めていた。




