第2話 幼き日の織田吉法師
尾張国、那古野城。
朝の空気にはまだ夜の冷えがわずかに残っており、城の屋根瓦の上には薄い霧が名残のように漂っていた。庭の松は朝露を含んで静かに枝を垂れ、白砂の上には、まだ誰の足跡も深く刻まれていない。いつもなら、城の朝はもう少し落ち着いたものだ。小姓が水を運び、女中が廊下を拭き、侍たちが低い声で挨拶を交わしながら持ち場へ散っていく。武家の屋敷らしい、張りつめてはいるが整った静けさがそこにはある。
だが、その朝の那古野城に限って言えば、その静けさはずいぶん早い時間から木っ端みじんに打ち砕かれていた。
「てぇぇいっ!」
乾いた裂帛の気合いとともに、竹で作られた木刀が勢いよく振り下ろされる。ぱしん、と中庭に高い音が響き、構えていた若侍の手元が大きくぶれた。次の瞬間には、彼が握っていた竹刀が宙へ跳ね上がり、くるりと不格好に回って白砂の上へ落ちている。
「うおっ!」
若侍が情けない声を上げると、それを見た少年は、朝日を受けてきらりと目を輝かせながら、いかにも得意げに胸を張った。
「どうだ! 今のは見事だっただろう!」
少年の名は吉法師。
まだ八つになったばかりの、織田家嫡男である。
年端もいかぬ顔立ちには、少年らしい丸みがまだ残っている。だが、その目だけはやたらと生き生きとしており、何か面白いものを見つけた時には獣の子のように鋭く光った。今もまたその目は爛々としていて、朝の冷気などどこ吹く風である。
対する若侍は、苦笑とも困惑ともつかぬ顔で落ちた竹刀を拾い上げた。
「吉法師様……いくらなんでも強すぎます」
「当然だ!」
吉法師は少しも謙遜せず、木刀を肩に担いで言った。
「戦の稽古をしておるのだ。弱くてどうする」
「はあ……」
若侍は頭を掻いた。
この少年は昔からこうだった。刀や弓の話になると目の色が変わる。庭に出せば猿のように駆け回り、木刀を持たせれば年上の侍相手にも平気で向かっていく。だが、ひとたび座敷へ上がらせ、じっと正座して人の話を聞けと言われると、とたんに魂が抜けたような顔になる。およそ武家の嫡男らしからぬところばかりが目立つのだが、それでも剣筋や身のこなしだけは妙に勘が良いから、余計に周囲も扱いに困る。
若侍は、木刀を構え直しながら恐る恐る口を開いた。
「ところで吉法師様」
「なんだ」
「今日は、京からお招きした和尚様が城へ来ておられまして」
それを聞いた途端、吉法師の顔が見る見る曇った。
「……和尚?」
「はい。広間で説法をなさると」
「知らぬ」
即答だった。
若侍は苦い顔になる。
「ですが平手様が、ぜひお聞きするようにと――」
「知らぬと言った!」
吉法師は木刀を肩へ担ぎ直し、実に不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「坊主の話など長いだけだ。戦の役にも立たぬ」
「それを平手様の前で申すと、間違いなく怒られます」
若侍が小声で言った、その時だった。
廊下の奥から、実に聞き覚えのある雷鳴のような声が響いた。
「吉法師様ぁぁぁ!!」
若侍は肩をすくめる。
「ああ……」
吉法師も顔をしかめた。
「来たか」
どたどた、と遠慮のない足音が近づき、廊下の角から勢いよく姿を現したのは、平手政秀である。
白髪の混じった髪をきちんと結い、厳格そのものといった顔立ちをした織田家の重臣であり、吉法師の教育係でもある。武張った体つきではないが、その代わり目の鋭さと声の通り具合がただ者ではなく、那古野城の中で彼に怒鳴られて平然としていられる者はそう多くなかった。
「吉法師様!」
政秀は中庭へ下りるなり、びしりと少年を指差した。
「和尚様の説法が始まっておりますぞ!」
吉法師は露骨にそっぽを向く。
「聞いておらぬ」
「先ほど申しました!」
「覚えておらぬ」
その返しに、政秀の眉がぴくりと動いた。
「また抜け出しましたな!」
「抜け出してはおらぬ!」
吉法師は木刀をひゅんと振り回した。
「戦の稽古をしておるのだ!」
政秀は深く、そして長いため息をついた。あまりにも長いため息だったので、聞いている若侍の方が気の毒になるほどだった。
「和尚様は、わざわざ京から来てくださったのですぞ」
「だから何だ」
「ありがたい説法を聞くのも、武士の子として大切な務めでございます」
吉法師は鼻で笑う。
「戦に勝つのに説法がいるか?」
「必要です!」
「いらぬ!」
二人は真正面からにらみ合った。
周りにいた侍や小姓たちは、これは長くなる、と察したのか、自然と少しずつ距離を取る。那古野城ではわりと見慣れた光景である。政秀が正論で追い詰め、吉法師がそれを平気で飛び越える。たいていはその繰り返しだった。
政秀は少し声を落としたが、その分だけ語気は強くなった。
「吉法師様は尾張の嫡男なのです」
「だから何だ」
「将来、国を治めるお方ですぞ」
吉法師は腕を組む。
「なら、なおさら戦が強い方がよい」
「それも大事ですが!」
政秀の声がまた一段高くなる。
「それだけでは国は治まりませぬ。人の道理を知り、仏の教えに耳を傾け、広く物を学ぶことも必要です」
吉法師はそこで少しだけ考えた。
それから、いかにも「よいことを思いついた」という顔になる。
「では聞く」
政秀は嫌な予感を覚えながらも答えた。
「……何でございましょう」
「もし敵が攻めてきたらどうする」
「戦います」
「そのとき和尚を呼ぶのか?」
一瞬、政秀は言葉に詰まった。
その隙を逃さず、吉法師はにやりと笑う。
「な?」
周囲の若侍の一人が思わず吹き出しそうになり、慌てて咳払いに変えた。政秀は額を押さえながら、半ば呆れ、半ば本気で頭痛をこらえるように目を閉じる。
「……吉法師様」
「なんだ」
「屁理屈でございます」
吉法師は肩をすくめた。
「尾張弁で言えばこうだ」
そう言って、いかにも悪びれもせず笑う。
「細かいことは、ええがや」
それを聞いた侍たちはまた顔を見合わせた。あまりにも若殿らしからぬ物言いだが、妙に板についているから困る。政秀は空を仰ぎ、静かに息を吐いた。
「……信秀様が頭を抱える理由が、よう分かります」
「父上は頭を抱えておるのか?」
「大いに抱えておられます」
「なら、もう少し丈夫な頭に生まれるべきであったな」
「吉法師様!」
政秀が声を張り上げると、吉法師はまるで気にする様子もなく木刀をぶんと振った。
「尾張など小さい国だ」
その言葉に、その場にいた侍たちの空気がぴたりと止まる。
「小さい……?」
「うむ」
吉法師は当然のようにうなずいた。
「尾張の中だけを見ておるから窮屈なのだ。もっと外を見ればよい」
政秀が眉をひそめる。
「また、そのようなことを」
「いずれ天下を取るのだ」
吉法師は言った。
それも、まるで「昼には飯を食う」くらいの自然さで。
「天下なんて、ちょろいがや」
その一言に、場は完全に静まり返った。
中庭を渡る風の音まで聞こえる気がした。若侍たちは互いに顔を見合わせ、小姓は目を白黒させ、政秀はしばらく口を開いたまま言葉を失っていた。
やがて彼は、ほとんど天を仰ぐようにして心の中で呟く。
――この御方は、本当に大丈夫なのであろうか。
だが、その困惑の中に、ごくわずかな戦慄めいたものが混じるのを、政秀は否定できなかった。八つの子供が、尾張を小さいと言う。天下を取ると、冗談でもなく口にする。その目に一片のためらいもない。普通なら笑い飛ばせるはずなのに、なぜか笑いきれないのだ。
その時だった。
吉法師が、何かを思い出したようにぱっと身を翻した。
「おい、どこへ!」
政秀が叫ぶ。
吉法師は走り出しながら振り向き、実に楽しそうな顔で答えた。
「城下だ!」
「また町へ!?」
「うむ!」
「何をしに行くのです!」
吉法師は走る勢いのまま、大きな声で言い放つ。
「面白いものを探しに行く!」
政秀が「吉法師様ぁぁぁ!」と声を張り上げるのと、少年が門の方へ駆けていくのはほとんど同時だった。若侍たちも慌てて後を追う。白砂を蹴り、廊下を渡り、朝の静けさをすっかり置き去りにして、吉法師は一目散に城の外を目指していく。
那古野城の朝は、今日もやはり騒がしい。
政秀は額に手を当てたまま、その背を見送った。叱らねばならぬ。捕まえねばならぬ。説法も聞かせねばならぬ。やるべきことはいくらでもある。
だがその一方で、先ほどの少年の横顔が、妙に頭から離れなかった。
尾張など小さい、と言った時の目。
天下を取る、と言った時の声。
それは子供の与太話にしては、あまりにも真っ直ぐだった。
「……困ったお方だ」
政秀はそう呟き、すぐにその後を追う。
朝の光は少しずつ強くなり、城門の向こうでは、すでに城下町のざわめきが始まっていた。
そして吉法師は、そのざわめきの中へ、何の迷いもなく飛び込んでいく。




