第29話 天下の夢
那古野城の一角にある小広間は、もともと大勢を集めて軍議をするための場所ではなかった。
広間と呼ぶには少し狭く、かといって私語を交わすには広すぎる。壁際に置かれた行灯の灯りは昼の名残を受けてまだ弱く、障子の向こうには夕方へ傾き始めた庭が見えていた。松の影は長く伸び、白砂の上に細く黒い筋を落としている。こういう部屋はたいてい、口に出すには早い話や、あまり多くの耳へ入れたくない話をする時に使われる。
その日、そこへ集められていたのは、信秀の近臣のうちでもごく限られた者たちだった。
平手政秀。
柴田勝家。
古くから織田家へ仕える譜代の家臣が数名。
そして、その中央に吉法師がいた。
勘十郎は呼ばれていない。
それだけで、この場が兄弟を並べて比べるためのものではなく、もっと別の意図を持つことは明らかだった。もっとも、その“別の意図”が何なのかを、ここにいる者たちはまだ完全には掴めていない。ただ、近頃の吉法師が戦の話、商いの話、民の話、忍びの話と、次々に城の中へ持ち込んでくる以上、また何か妙なことを言い出すのだろうという予感だけは皆にあった。
その予感は、すぐに当たった。
吉法師は、何の前置きもなく言った。
「この国を一つにする」
広間の空気が止まった。
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
あまりにも大きすぎる。
あまりにも唐突すぎる。
そして何より、今それを言うのか、という思いが全員の胸に同時に浮かんだ。
尾張一国すら、まだ綺麗にまとまってはいない。織田家の内には家中の綻びがあり、外には他家の圧があり、城の中では信秀の病が密やかに広がり、誰もが“その時”を意識し始めている。そういう時に、「この国を一つにする」と口にする。それは、ただ大きな夢を語るというより、今ここにいる者たちの現実を一息に飛び越えるような言葉だった。
最初に口を開いたのは、年長の家臣だった。
「……この国、とは」
その問いは、半ば時間稼ぎでもあった。
吉法師は、そんなことも気にせず答える。
「日の本だ」
今度こそ、広間の空気は完全に凍った。
行灯の火がわずかに揺れた音まで聞こえそうだった。勝家は腕を組んだまま顔を動かさず、政秀はわずかに目を伏せる。年配の家臣の中には、あからさまに眉をひそめる者もいた。
日の本。
つまり、この国すべて。
尾張でもなければ、美濃でもない。
織田の周辺でもない。
国一つをまとめる。
子供の大言壮語として笑い飛ばすには、あまりにも真っ直ぐな声だった。だが、真っ直ぐであるからこそ、かえって笑えない。
「吉法師様」
平手政秀が、慎重に口を開いた。
「今、そのようなことを申されるのは、いささか早いかと」
「早いか」
「はい」
政秀は続ける。
「尾張はまだ内にも火種を抱えております。国の外を論じる前に、まず足元を」
「足元ばかり見ておるから狭いのだ」
吉法師は、政秀の言葉を最後まで聞かぬうちにそう返した。
その場の何人かが、あからさまに顔をしかめた。
「尾張の内輪揉めも片付いておりませぬぞ」
今度は別の家臣が、やや強い口調で言う。
これは諫言であると同時に、吉法師への苛立ちでもあった。
「家中も割れかけております。支城の者どもも皆が同じ向きではございませぬ。そこへ日の本を一つにするなどと……」
「内輪しか見ぬから狭いのだ」
吉法師は、先ほどと同じ言葉を繰り返した。
だが今度は、よりはっきりと相手を見て言った。
「尾張の中だけを見ておれば、尾張のことで頭がいっぱいになる。だが外を見れば、尾張がどれほど小さいか分かる」
「小さいことを恥じよと?」
「違う」
吉法師は首を振る。
「小さいなら、広げればよい」
その理屈は単純だった。
単純すぎるほどに。
だが、単純だからこそ厄介でもあった。
「広げると申されても」
老臣の一人が、半ば呆れたように言う。
「それがいかに大事業か、お分かりですか」
「分かる」
「分かっておられぬから、そのような」
「分かるから言うておる」
その返しに、老臣はとうとう黙り込んだ。
吉法師は立ち上がった。
それだけで、広間の空気にまた別の緊張が走る。彼は歩き回りながら話す時の方が、むしろ考えが鋭くなる癖があった。畳の上をゆっくりと行きつ戻りつし、障子の向こうの庭へ目をやりながら言葉を続ける。
「国が割れておるから、皆が苦しむ」
誰も口を挟まない。
「尾張と美濃が争う。美濃と近江が争う。近江と京が揉める。そうして兵が動くたび、田が荒れ、商いが止まり、人が死ぬ」
その目は庭ではなく、もっと遠くを見ていた。
「ならば、最初から一つならよい」
その発想に、若い家臣の一人が思わず呟いた。
「それは、あまりに……」
「夢のようか」
吉法師が振り返る。
若い家臣は言葉を失う。
吉法師は少しだけ笑った。
「夢でもよい。だが、皆が小さい諍いに慣れきっておるだけかもしれぬぞ」
その言い方が、また人を苛立たせた。
古参の武士にとって、目の前の諍いは小さくなどない。尾張一国をまとめることすらどれだけ難しいか、戦場を見てきた者ほど知っている。城を一つ落とすこと、国人衆を一つまとめること、婚姻で一つ縁を結ぶこと、そのどれ一つ取っても血と金と忍耐がいる。そこへ、日の本を一つにするなどと言われれば、現実を知らぬ夢想家としか聞こえぬ者もいるだろう。
「吉法師様」
勝家が、低い声で初めて口を開いた。
広間の空気が少し締まる。
「おぬしは、本当にそれができると思うておるのか」
吉法師は、勝家の方を見た。
「思う」
「なぜだ」
「できぬと思う理由が、今はまだ少ない」
勝家の眉がわずかに動く。
「少ない、だと」
「うむ。難しいのは知っておる」
吉法師は言う。
「だが、皆が無理だと思っておるだけでは、何も変わらぬ。無理だと言う者は、今見えておる範囲でしか物を考えぬ。だから内輪で揉めて終わる」
広間の端で、誰かが不快そうに息を吐いた。
「夢想家め」
小さな声だったが、聞こえぬほどではなかった。
吉法師は、その声の方を向く。
「そうかもしれぬな」
あっさりと認めたので、逆に相手が言葉を失った。
「だが、夢も持たずに何を広げる。今あるものを守るだけなら、いずれ削られて終わるだけだ」
その言葉には、若さゆえの青さもあった。だが同時に、妙に切実でもあった。ただ大きなことを言いたいだけではない。この狭い内輪の揉め事を、本気でつまらぬと思っているのだと分かるからだ。
政秀は、その横顔を見ていた。
周りから見れば、現実知らずの夢物語だろう。
尾張一国すら危うい時に、日の本を一つにするなど、あまりにも早すぎる。
早すぎて、ほとんど狂気に近い。
だが、政秀には分かってしまう。
この少年は、ただ大きいことを言っているのではない。
本気でそう見ているのだ。
尾張を越え、美濃を越え、近江を越え、その先まで、まるで初めから地続きに見えているかのように口にする。そこが恐ろしかった。
「吉法師様」
政秀は慎重に言葉を選びながら口を開く。
「お志が大きいことは分かります」
何人かが、政秀の方を見た。
教育係がここでどう言うかを、皆が気にしている。
「ですが、あまりに先を語れば、足元を見ぬと受け取る者もおります」
「受け取るだろうな」
「では」
「だが、足元だけ見ておれば転ばぬ代わりに進まぬ」
またしても正面から返される。
そのたびに、広間の一部は反発し、一部は沈黙し、一部は妙な引力を感じ始めていた。
吉法師は続けた。
「民も、商いも、戦も、全部つながっておる。国が細かく割れておるから、そのたびに人が苦しむ。なら、一つにしてしまえばよい。面倒は増えるだろうが、細かい面倒は減る」
理屈としては乱暴だった。
だが完全に無茶でもない。
そこが、また人を困らせる。
「日の本を一つにする、か」
老臣の一人が、半ば呆れ、半ば冷ややかに言った。
「それで殿は、何と呼ばれたいのです。王か、帝か」
その問いには、露骨な嘲りが混じっていた。
吉法師は少しだけ目を細める。
「呼び名などどうでもよい」
「ほう」
「飢えぬ国、揉めぬ国、余計な戦を減らせる国になるなら、それでよい」
その言葉に、広間の中で何人かがまた黙り込んだ。
本当にそう思っているのか。
それともただ、大きな夢で人を煙に巻いているのか。
だが政秀には、前者だと分かってしまう。
この少年は、本気で言っている。
そして本気であるからこそ、今の時代の者たちには届きにくい。
「夢想家」
もう一人、今度ははっきりそう口にした。
「現実知らずにもほどがある」
その言葉に、吉法師は怒らなかった。
怒る代わりに、少しだけ笑った。
「現実を知っておるから、狭いと思うのだ」
その笑みが、かえって何人かを苛立たせた。
現実を知らぬ子供の大言壮語ではなく、現実そのものを狭いと切り捨てているように聞こえたからだ。そうなると、今ここで日々苦心している家臣たちの努力までも軽んじられた気がする。
広間の空気は、またしてもきしみ始めていた。
政秀は、それをはっきり感じる。
この発言は、さらに誤解を生む。
「吉法師は夢想家だ」
「現実を見ぬ」
「大きなことばかり言う」
そうした評価は、今この場で確かに強まった。
だが、その一方で。
政秀は胸の奥に、ぞっとするような感覚も抱いていた。
尾張一国を越えた言葉。
家中の争いすら小さく見える目。
戦、商い、民、国、その全部を一つのものとして掴もうとする発想。
その夢の大きさは、ただの夢では済まぬかもしれない。
時代を知らぬ夢想家ではない。
時代の先を見すぎたがゆえに、今の者たちからは夢想家に見えるだけなのではないか。
政秀は、そこで初めてはっきりと寒気に似たものを覚えた。
この少年は、もし本当に育ちきれば、尾張の器には収まらぬ。
収まらぬどころか、尾張という器そのものを狭いと言って壊しかねない。
「……恐ろしい」
その呟きは、ほとんど声になっていなかった。
だが、政秀自身の耳には確かに届いた。
吉法師は最後に、障子の向こうの空を見た。
夕方の光はもう薄くなり始めている。
尾張の空は広く、だが彼の目には、その広ささえまだ足りぬようだった。
「いずれ分かる」
ぽつりと、誰にともなく言う。
「この国は、もっと大きく見た方が面白い」
それだけ言うと、吉法師はくるりと踵を返し、そのまま広間を出ていった。
後には、重い沈黙だけが残る。
呆れた者。
怒った者。
何も言えずにいる者。
そして、わずかに心を掴まれた者。
それぞれの顔が、行灯の光の中で少しずつ違って見えた。
勝家が腕を組んだまま、低く息を吐く。
「尾張一国も危ういのに、日の本を一つにする、か」
誰もそれに答えなかった。
答えられないのではない。
今はまだ、答えが出せぬのだ。
政秀だけは、広間の入口を見つめたまま動かなかった。
夢が大きい。
大きすぎる。
だから笑われる。
だが、笑いきれぬ。
そのことこそが、もっとも恐ろしかった。
那古野城の夕暮れは静かだった。
だが、その静けさの下では、誰にもまだ収めきれぬほど大きな夢が、確かに形を持ちはじめていた。




