第28話 忍びの報告
那古野城に夜が落ちると、昼のあいだ表へ出ていたものとは別の気配が、城の内外を静かに行き来し始める。
昼は人の目が多い。
武士の顔、女中の足音、小姓の走る気配、庭を渡る視線、廊下の角ごとの礼。
何もかもが表にある。だが夜は違う。灯りが減るぶんだけ、隠れていたものが輪郭を持つ。
人は声を落とし、足音を殺し、口に出せぬことほど胸の内で大きくなる。
戦国の城というものは、昼より夜の方が本性を現すのかもしれなかった。
その夜、美濃から来た姫のために整えられた一室にも、表向きの静けさとは別の緊張が漂っていた。
帰蝶は、灯りをひとつだけ残した部屋の中で、膝を崩さずに座っていた。
昼間の顔合わせの時よりも衣は軽くなっていたが、姿勢は少しも緩まない。
目の前には手をつけかけた茶がある。だが、もうぬるくなっているのに、それを飲みきる様子もない。
障子の外では、夜風が松の枝を揺らしていた。
那古野城の夜は、美濃の城の夜と似ているところもあれば、違うところもある。
似ているのは、誰もが何かを隠していること。
違うのは、その隠し方がまだ揃っていないことだった。
尾張の家中は今、ひとつの城に見えて、内側ではいくつもに割れかけている。帰蝶は昼のあいだに、それをかなりはっきり感じ取っていた。
兄を見る視線。
弟を見る視線。
病を伏せる当主の寝所へ向く気配。
教育係の苦い顔。
そして、誰も口にしない“次”の重さ。
そこへ、障子の向こうで、ほんのかすかな気配が動いた。
帰蝶は顔を上げない。
「入りなさい」
それだけ言う。
音もなく障子が開いた。
入ってきたのは、昼間は町娘にしか見えなかったあの少女だった。
今夜も装いは地味だが、昼とは違い、隠す必要がないぶんだけ身のこなしの鋭さがはっきりしている。
音を立てぬ足、周囲を一息で読む目、そして立った瞬間にすでに逃げ道まで測っているような気配。
やはり忍びである。
少女は帰蝶の前まで来ると、片膝をついて頭を垂れた。
「お戻りになったのね」
帰蝶が静かに言う。
「はい」
「尾張のうつけは、どうだった?」
少女は一瞬だけ顔を上げた。
その目には、昼間の軽口の名残ではなく、もっとはっきりした警戒がある。
帰蝶はそれを見て、少しだけ口元を緩めた。面白い。
あの少年を見たあとで、こういう目になるのは悪くない。
「……うつけではありません」
少女は言った。
声は低かったが、迷いはなかった。
「ほう」
帰蝶はその返答を待っていたように頷く。
「では?」
少女は少しだけ言葉を選んだ。
「むしろ危険です」
その一言で、部屋の空気が少しだけ締まった。
帰蝶は、やはりな、という顔をした。
驚きはない。だが、ただの好奇心ではなく、その危険がどういう種類のものかを知ろうとする目になる。
「危険、ね」
「はい」
「刀が速い?」
「それもあるかもしれません」
「では、血の気が多い?」
「……それとも違います」
少女は視線を落とし、昼の出来事を反芻するように言葉を継いだ。
「人を見ています」
帰蝶の目がわずかに細くなる。
「見ておりました。こちらが隠しているつもりのことを、思った以上に早く拾います。しかも、それを怖れません」
「怖れない」
「はい。見破っても騒がず、試し、確かめ、面白がるのです」
その言い方に、帰蝶は小さく笑った。
「面白がる、か」
「普通ではありません」
少女は少しだけ顔を上げる。
「町を見ても、商いを見ても、民を見ても、戦の話に変えます。戦の話をしているようでいて、戦だけを見ているわけでもない。兵より先に、道や人の流れを見る」
帰蝶は、昼間に吉法師と交わした言葉を思い出した。
たしかにあの少年は、ただ武勇に憧れる武家の子ではなかった。
人の視線に鈍いのではなく、むしろ敏いくせに、そこへ従わない。
礼を知らぬのではなく、礼の外側にあるものを先に見ている。そういう危うさがある。
「なおさら面白いわ」
帰蝶は、あっさりそう言った。
少女は少しだけ眉を寄せた。
「姫様」
「何」
「面白いで済ませてよい相手ではありません」
「それはそうでしょうね」
帰蝶は平然としている。
「つまらぬ男が危険でも価値はないけれど、面白い男が危険なら、なおさら目を離せないでしょう」
少女は返す言葉に詰まった。
帰蝶は茶碗へ手を伸ばし、ぬるくなった茶を一口だけ含む。それから、少しだけ声を低くした。
「尾張の家中はどう見えた?」
問われて、少女の顔つきがまた報告のものへ戻った。
「割れかけています」
「やはり」
「まだ表立ってではありません。ですが、吉法師様を見る目と、勘十郎様を見る目が、はっきり違います」
「どう違うの」
「吉法師様には、怖れと戸惑いがあります。勘十郎様には、安心と期待があります」
帰蝶は頷いた。
その言い方は分かりやすい。
「兄は怖く、弟は安心できる」
「はい」
「ありがちな話ね」
「ですが、単純でもありません」
少女は続ける。
「吉法師様を嫌う者ばかりではありません。あのお方の異才に気づいている者もおります。ですが、その才が早すぎて、ついていけないのです」
帰蝶はそこで、ほんの少しだけ目を伏せた。
早すぎる。
その言い方は、妙に腑に落ちた。
父・道三にも、似たところがあった。
人より先に動く者は、人より先に怖れられる。まして城の中で“次”を意識せねばならぬ時に、理解の及ばぬ才は不安の種にしかならない。
「勘十郎は?」
「人に好かれる器です。礼があり、場を乱さず、誰の顔も潰さぬ」
「……整っているのね」
「はい」
帰蝶は小さく息をついた。
その“整い”こそが家中の安心を呼ぶのだろう。
だが同時に、それだけでは乱世を押し切れぬのではないかという感覚も、帰蝶の中ではもう芽生えていた。
「信秀殿の病は」
少女の声がさらに低くなる。
「軽いものとして伏せられています。ですが、近臣は悟っております。平手政秀も、柴田勝家も、皆」
帰蝶は茶碗を置いた。
「咳かしら」
「はい。血も」
その一言で、部屋の空気がぐっと重くなる。
帰蝶は驚かなかった。
昼の広間で見た家臣たちの揺れ、奥向きの女たちの視線、信秀の顔色、政秀の張りつめ方。
あれだけ材料があれば、病の深さはある程度見えていた。
ただ、“血”という言葉で一気に現実味が増しただけだ。
「平手はどう動いている」
「苦しんでおります」
少女ははっきり言った。
「吉法師様の才を信じております。ですが、家臣たちの不安も理解しております。どちらも見えているからこそ、最も苦しい位置におります」
帰蝶は少しだけ笑った。
「真面目なのね」
「はい。真面目すぎるほどに」
「だからこそ、吉法師に振り回されているのか」
少女は答えなかったが、その沈黙だけで十分だった。
帰蝶はしばらく黙っていた。
障子の向こうで、風がまた枝を鳴らす。
夜の城は静かだが、その静けさは、何も起きていない静けさではない。誰もが息を潜め、次の一手を待っている盤のような静けさだ。
やがて帰蝶は、ゆっくりと言った。
「これは、ただの縁談ではないわね」
少女が顔を上げる。
「姫様」
「父は最初から、ただ娘を嫁がせる気などなかったでしょうけれど」
帰蝶は、自分の膝の上へそっと手を置いた。
「尾張は今、揺れている。信秀殿は長くないかもしれない。家中は兄弟で割れかけている。そこへ、美濃の娘が入る」
その言葉は、まるで自分自身を盤上の石として数えるように冷静だった。
「婚姻は縁ではなく、手だわ」
少女は静かに頭を下げた。
帰蝶はさらに続ける。
「父がここへ私を差し向けたのは、相手を見ろという意味でもある。吉法師がただのうつけなら、縁をつなぐ価値は薄い。勘十郎が家を継ぐなら、また話は変わる。信秀殿が倒れる前に、尾張の盤がどう割れるか見ておけ――そういうことね」
言い終えてから、帰蝶はふっと笑った。
「まったく、父上は娘に面倒な役ばかり与える」
その笑いは、愚痴でありながら、どこか楽しそうでもあった。
少女はためらいがちに言った。
「……姫様は、お嫌ではないのですか」
帰蝶は目を細めた。
「何が」
「その、盤の上の一手として扱われることが」
帰蝶は少しだけ考え、それから肩をすくめた。
「戦国の娘が、それを嫌だと言ってどうなるの」
答えはあまりにあっさりしていた。だが、そのあっさりさの裏には諦めだけでなく、もっと別の強さがある。
「どうせ盤の上へ置かれるなら、盤をよく見てやるだけよ」
少女は、その言葉に何も返せなかった。
帰蝶はただ流されてここにいるのではない。自分が駒として置かれることを知った上で、その盤そのものを見ようとしている。そこが、美濃の蝮の娘らしいところだった。
しばらくして、帰蝶はふと口元を緩めた。
「それに」
「はい」
「相手がつまらぬ男なら、本当に退屈だったもの」
少女は、それを聞いてようやく少しだけ表情を和らげた。
「では……」
「ええ」
帰蝶はうなずく。
「なおさら面白いわ」
その声は、昼間よりも少し低く、そしてはっきりしていた。
吉法師は危険だ。
尾張は揺れている。
信秀の病は深い。
平手は苦しんでいる。
家臣たちは兄弟の間へ勝手に線を引き始めている。
それらすべてを知った上で、帰蝶の興味はむしろ深まっていた。
危うい男。
危うい家。
危うい時。
そういうものほど、見届ける価値がある。
「引き続き見なさい」
帰蝶が静かに命じる。
「吉法師も、勘十郎も、平手も。尾張の空気そのものを」
「は」
「そして次は、報告だけでなく……あなた自身がどう感じたかも持ってきなさい」
少女の肩が、ごくわずかに揺れた。
忍びにとって、自分の感情はたいてい邪魔だ。だが帰蝶は、それもまた見たいと言っている。
「承知しました」
少女は深く頭を垂れた。
やがて音もなく障子が開き、彼女は来た時と同じように静かに消えていく。
部屋に一人残った帰蝶は、しばらく動かなかった。
那古野城の夜は深い。
その深さの下で、人の欲、怖れ、期待、打算が少しずつ絡み始めている。
そしてその中心に、あの変な男がいる。
帰蝶は、障子の向こうの闇を見つめながら、小さく呟いた。
「尾張のうつけ、ね」
その声には、もはや嘲りはほとんど残っていなかった。
ただ、試してみたくなるような響きだけが、そこにあった。




