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第27話 面白い男

尾張の城は、美濃の城とは空気の質が違う。


帰蝶は那古野城へ入った時から、それを肌で感じていた。


美濃にも城はある。父の周りには腹に一物も二物も抱えた男たちがうろつき、笑っていても目の奥では別のことを考えている者ばかりだ。だが、それはそれで統一の取れた濁り方をしている。

皆が皆、どこかで「斎藤道三の下にある」という一点で張りつめており、その緊張が城の壁にも、廊下にも、女たちの囁きにまで染みついている。


尾張は違った。


表向きは整っている。

廊下は磨かれ、女中たちの動きにも乱れは少なく、家臣たちも礼を欠いてはいない。

けれど、その整い方の奥に、微かなズレがあった。

誰もが何かを気にしているのに、その「何か」が一つではない。

視線が散っている。

気配が割れている。

城そのものが、ひとつの意志で締まっているというより、いくつもの思惑が薄く重なり、その上へ形だけ静かに布をかけたような印象だった。


帰蝶はそういうものに敏かった。


敏くならざるを得ない場所で育った、と言い換えてもよい。


父・道三は、言葉で教え込む男ではない。

むしろ多くを語らぬ。だが娘が見て学ぶことを止めるような父でもなかった。

誰が笑いながら敵意を隠しているか、誰が黙ったまま主を裏切るか、誰の礼が本心で、誰の礼が保身であるか。

そういうことを、帰蝶は幼い頃から見てきた。


だから、尾張の家臣たちのぎこちなさも、広間に流れる一瞬の沈黙も、すぐに分かった。


あの場で自分が吉法師へ「噂通りのうつけね」と言った時、凍りついたのはただ無礼だったからではない。皆、あの若殿にどう触れてよいか分からぬのだ。

恐れている者もいる。

呆れている者もいる。

期待している者すらいる。

だが、その期待の仕方も恐れ方も、人によって違う。

だから一つの反応にならない。


面白い城だ、と帰蝶は思った。


いや、面白いというより、危うい城だった。


客として通された一室は、決して粗末ではないが、美濃の基準で言えば華美さを避けた整え方だった。

障子の向こうには庭があり、風が吹くと松の枝が静かに揺れる。

女中たちは丁寧に湯と菓子を運び、言葉も礼も整っている。

だが、その目がときおり、控えめすぎるほど控えめにこちらを窺うのを帰蝶は見逃さなかった。


美濃から来た姫。

蝮の娘。

そして、おそらくは織田家の嫡男へ繋がる縁談の相手。


見られぬ方がおかしい。


だがその視線の中に、単なる好奇心ではない色が混じっている。

値踏み。

不安。

探り。

そういうものが確かにあった。


帰蝶は、運ばれてきた茶に口をつけるふりをしながら、女中たちのわずかな目配せを見た。自分に向く視線と、それとは別に、廊下の向こうへ一瞬流れる視線。あれは兄弟のどちらへ向いているのか。少なくとも、家の中が一枚岩ではないことだけはよく分かる。


「姫様」


侍女の一人が小さく声をかけた。


「お疲れではございませぬか」


「いいえ」


帰蝶は答えた。


疲れてはいない。むしろ目が冴えている。


那古野城へ来る前、吉法師という少年について、話はいくらでも聞かされていた。尾張のうつけ。

礼を知らぬ。

町をうろつく。

奇妙な格好をする。

思いつきで騒ぎを起こす。

織田家嫡男としては頼りなく、弟の方がよほど整っている――そういう噂ばかりが、まるで油の上に浮く泡のように次から次へと耳へ入ってきた。


だから帰蝶は、ある程度の覚悟をしていた。


話の通じぬ馬鹿なら、どう扱うかは簡単だ。

見下すだけで済む。

あるいは、適当に転がせばよい。


だが実際に会ってみると、そうではなかった。


礼を欠いているのは確かだった。

振る舞いも奇妙だった。

言葉も無遠慮だった。


だが、あの少年は人の視線をまるで恐れていない。


そこが何より異様だった。


普通なら、人は誰かの目を気にする。家臣の目、父の目、母の目、城中の噂、敵国の評価、そういうものを恐れて少しは形を整える。まして自分のような相手と顔を合わせる場であれば、なおさらだ。


だが吉法師は違った。


周りがどう受け取るかを知らぬのではない。

むしろ、分かったうえで気にしていないように見える。


帰蝶は、あの視線を思い出す。


自分が「うつけ」と言った時、吉法師は怒りもしなかった。ひるみもしなかった。ただこちらを見て、「蝮の娘か」と返した。反射のように早かったが、ただの売り言葉ではない。こちらが何を試そうとしているかを察した上で、その試しに乗ってきたのだ。


「変な男」


帰蝶は誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟いた。


侍女が少しだけ首を傾げたが、すぐに何も聞かなかったふりをした。


変だ。

本当に変だ。


だが、嫌な変さではない。


いや、嫌と言えば嫌だ。礼はないし、物言いは刺々しいし、いきなりこちらの父を蝮呼ばわりする。

普通の姫なら腹を立ててもおかしくない。

帰蝶自身も、腹が立っていないわけではなかった。


だがそれ以上に、あの少年の中に妙な危うさを見た。


父・道三に似ている、と帰蝶は思った。


顔立ちではない。

物腰でもない。

もっと深いところだ。


父もまた、人と同じ顔をしていて、人と同じ道を歩かぬ男だった。

周りが当然と思うものを当然と思わず、皆が怖れて避ける場所へ平気で足を踏み入れ、しかもその先で何かを掴んで戻ってくる。そういう男だった。


吉法師にも、それに似た匂いがある。


今はまだ幼い。

体も小さく、礼の形も整っていない。

だが、あの目。


人の顔の奥を見る目。

相手の言葉だけでなく、その裏の気配を拾う目。

自分がどう見られるかより、相手が何者かを見極めようとする目。


あれは危うい。


そして、面白い。


帰蝶はそこで、勘十郎の顔も思い浮かべた。


弟の方は整っていた。

実によく整っている。


言葉は柔らかく、礼を失せず、場を乱さぬ。女中にも小姓にも感じが良く、家臣たちを安心させる声を持っている。

ああいう少年は人に好かれるだろう。少なくとも、敵を無闇に作ることは少ない。


だが――


整いすぎている。


帰蝶はそこに、わずかな物足りなさを感じていた。


整っていることは悪くない。

むしろ良い。

家を保つという意味では、ああいう者の方が向いているのかもしれない。

だが、整っている者というのは、ときに周りの期待通りに整いすぎる。

何を言うべきか、何を言ってはならぬか、何を見せ、何を隠すべきか。

その線を早くから身につけすぎると、人間はきれいにまとまりすぎてしまう。


勘十郎には誠実さがあった。

だが、帰蝶の心を揺らすような引っかかりは薄い。


それに比べて吉法師はどうだ。


引っかかりしかない。


噂の通りのうつけなのかと思えば、視線が鋭い。

無礼なのかと思えば、むしろ礼の外側を見ている。

子供なのかと思えば、時々ぞっとするほど年寄りじみた目をする。


「……嫌な男ね」


今度は少しだけ本音が混じった。


侍女がまた気づいたようだったが、やはり何も言わなかった。

帰蝶は、こうして一人でいる時ほどよく考える。

言葉に出しているのは半分だけで、残り半分は胸の内でゆっくり煮えていく。


那古野城の家臣たちが、吉法師を遠巻きに見ているのも分かる気がした。


近づきにくいのだ。


何を言い出すか分からぬ。

どこまで見ているか分からぬ。

扱いを誤れば、自分の方が浅く見える。


そういう相手は、自然と遠巻きになる。


帰蝶はそれを、ただ家臣たちの狭量として切り捨てる気にはなれなかった。

むしろ城の中で生きる者としては自然な反応だと思う。

だからこそ、吉法師という存在がこの家の中でどれほど浮いているかも、よく分かる。


その浮き方が、少し危うい。


もし信秀が健やかで、家中が強くまとまっているなら、ああいう若殿も一つの個性で済む。だが今の尾張は違う。

城の空気は割れかけている。

誰も口にせぬ“次”を、皆が胸のどこかで意識している。そういう時に、ああいう男は必要とされると同時に、怖れられる。


父・道三もまた、そうやって人を惹きつけ、同時に怖れられてきた。


帰蝶は、そこでようやく小さく笑った。


「似ているわけだわ」


誰に、とは言わぬ。

だが自分には分かる。


父に似た危うさを持つ男。

そして、その危うさを、本人だけがまるで危ういと思っていないところまで似ている。


しばらくして、侍女がそっと障子の外を窺い、戻ってきた。


「姫様」


「なに」


「先ほど、廊下をお通りになった若侍たちが……」


侍女は少し言いにくそうに口を濁した。


「弟君の方が、やはり穏やかでよい、などと」


帰蝶は目を伏せた。


やはりそうか、と思う。


家臣たちは勘十郎を「よい」と言うだろう。あれは誰にとっても分かりやすい良さだ。

礼があり、柔らかく、安心できる。

家を継ぐ者に求められる美徳として、あまりにも素直に美しい。


けれど、面白くはない。


帰蝶は自分でその言葉を思い、少しだけ眉を寄せた。


面白さで夫を選ぶわけではない。

戦国の姫に、そんな自由はない。

だが、どうせ盤の上へ置かれるのなら、盤そのものをひっくり返すような駒の方がまだましだ、と彼女は思う。


「姫様?」


侍女が不安そうに顔を覗き込む。


帰蝶はそこで表情を戻した。


「何でもないわ」


そう答えてから、ほんの少しだけ口元を緩める。


「ただ、尾張は思ったより退屈ではなさそう」


侍女はきょとんとした。


だが帰蝶の胸の内では、すでに何かが静かに動き始めていた。


吉法師は変な男だ。

無礼で、奇妙で、扱いづらい。

だが、底が見えぬ。


一方で勘十郎は、良い。

良いが、良すぎる。

整いすぎていて、少しも揺れない。


その差が、帰蝶の興味を少しずつ、だが確かに兄の方へ傾けていた。


庭の向こうで、風が松を揺らした。


那古野城の空気は、まだどこかぎこちない。家臣たちは美濃から来た姫の一挙手一投足を気にし、その一方で、あの吉法師がまた何を言い出すかと警戒している。

その視線の流れを眺めているだけでも、この城の中で誰が誰をどう見ているかが少しずつ見えてくる。


帰蝶は障子の向こうの光を見つめながら、静かに息を吐いた。


「変な男」


もう一度そう呟く。


だが今度のそれは、ただの呆れではなかった。


むしろ、そこにはわずかな期待に似たものが混じっていた。

噂より深い男。

見た目より危うい男。

そして、おそらくこの尾張という家の中で、誰よりも異物である男。


帰蝶は、そういうものを嫌いではなかった。

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