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第26話 帰蝶登場

那古野城の朝は、その日ばかりはいつもより幾分きれいに見えた。


廊下は普段以上に磨かれ、庭の白砂も朝早くから丁寧に均されている。

女中たちは衣の乱れがないか何度も互いを見合い、小姓たちは余計な物が見える場所へ出ていないかと慌ただしく走り回っていた。

武士たちもまた、鎧姿ではないにせよ、どこか肩に力の入った顔をしている。


理由は明らかだった。


美濃から客が来る。


しかも、ただの使者ではない。

斎藤家の姫君――帰蝶が、那古野城へ顔を見せるというのである。


正式な婚儀の場ではない。あくまで顔合わせ、あるいは双方の様子を見るための、まだ固まり切っていない段階の訪問だ。

だが、それがかえって城の者たちを落ち着かなくさせていた。

婚姻は家と家の話であり、戦と同じく言葉の裏にいくつもの意味が重なる。

まして相手は、美濃の蝮と呼ばれる斎藤道三の娘である。


那古野城の者にとって、それは縁談というより、刃の薄いところを互いに指でなぞり合うようなものだった。


平手政秀は、朝からずっと眉間に皺を寄せていた。


広間の準備、出迎えの段取り、家臣の並び順、言葉遣い、若殿たちの装い、そのすべてに目を配っている。


信秀は表向き平静を保っていたが、政秀には分かっていた。

殿もまた、この顔合わせを軽くは見ていない。


何より問題は、吉法師だった。


勘十郎であれば心配は少ない。言葉も礼も整っている。だが吉法師は違う。


こちらが一つ整えれば、二つ外す。それが悪意でないだけに、なお厄介なのだった。


政秀は本人を見つけると、開口一番に言った。


「吉法師様、くれぐれも本日は無礼のないよう」


吉法師は縁側に腰をかけたまま、庭の鯉を見ていた。


「無礼とは何だ」


「余計なことを申されぬことです」


「余計かどうかは、言ってみねば分からぬ」


「吉法師様」


政秀の声には、もはや願いが混じっていた。


吉法師はそこでようやく顔を上げ、少しだけ笑った。


「分かった。今日は平手の頭が割れぬ程度にはおとなしくしておく」


「それでは全く安心できませぬ」


そのやり取りを少し離れたところで聞いていた勘十郎は、控えめに苦笑した。

だがその顔にも、やはりわずかな緊張がある。

兄とは違う意味で、この日の重さを感じているのだろう。


やがて、美濃からの一行が到着したという知らせが入った。


城の空気がひとつ変わる。


出迎えのために広間へ通じる廊下に家臣たちが整然と並び、その向こうから女たちの衣擦れと、供の者たちの足音が近づいてきた。


最初に見えたのは、姫君を囲むように歩く侍女たちだった。

派手すぎぬが質の良い装いをしており、さすが美濃の名家の空気を感じさせる。

続いて、護衛と思しき者たちの姿が見える。城の中だというのに、彼らの目は少しも緩んでいない。


そして、その中央にいた。


帰蝶。


年の頃は吉法師とそう違わぬ。だが、その姿を一目見た瞬間、広間にいた者たちは内心で同じことを思ったに違いない。


ただの姫ではない。


顔立ちは端正だった。美しいと呼ぶ者も多いだろう。

だが、その美しさは柔らかさより先に、刃のような冴えを感じさせる。目元は涼しく、唇にはかすかな笑みがあるのに、その奥に気の強さが隠されてもいない。

小柄ではあるが、そこに立っているだけで周りの空気へすっと線を引くような存在感があった。


帰蝶は広間へ入ると、まず信秀へ礼を尽くした。

所作は美しく、言葉も整っている。

だが、その一つひとつがただの従順から来るものではないことは、見ていれば分かる。自分がどう見られるかを知ったうえで、それを選んでいる動きだった。


信秀もまた、面白そうにその姫を見ていた。


「よう来られた、帰蝶殿」


「お招き、恐れ入ります」


声まで落ち着いている。


広間にいる者たちは、まずは胸を撫で下ろしかけた。

少なくとも、礼を欠いた姫ではない。

いや、それどころか、噂よりずっと整っていると感じた者すらいただろう。


だが、その安堵は長くは続かなかった。


帰蝶の目が、ゆっくりと横へ滑ったからだ。


そこにいたのは吉法師だった。


他の者たちのようにかしこまりすぎることもなく、だがだらしなくもなく、いつものように妙に真っ直ぐ立っている。

帰蝶はその顔を見ると、一瞬だけ目を細めた。

噂ばかりが先に届いていた相手を、ようやく自分の目で測るような視線だった。


その沈黙は、ほんの一瞬だった。


だが、その場にいた者にはずいぶん長く感じられた。


やがて帰蝶は、じろりと吉法師を見て、はっきりと言った。


「噂通りのうつけね」


広間の空気が凍った。


誰かが息を呑む音がした。

政秀は思わず目を閉じそうになり、勘十郎は小さく肩を強ばらせた。

信秀だけが、口元の笑みを消していなかった。


そして、もっと困ったことに、吉法師は一瞬も間を置かなかった。


「蝮の娘か」


今度こそ、広間全体が完全に固まった。


それは、戦場で矢が飛ぶよりも早い応酬だった。


帰蝶の眉がぴくりと動く。


「ご挨拶ね」


「そちらが先だ」


「事実を申したまでよ」


「こちらもだ」


政秀は、胃のあたりがきりきりと痛むのを感じた。

やはりこうなったか、としか言いようがない。しかも、周囲が止めに入れるような間がない。

二人とも、相手の言葉を受けてから返しているのではなく、互いに次の一手を最初から持っているような速さで会話を繋げている。


帰蝶は、ほんの少しだけ顎を上げた。


「うつけと聞いていたけれど、思ったより口が回るのね」


吉法師も負けていない。


「蝮の娘と聞いていたが、思ったより牙が見えておる」


「牙が見える方が親切でしょう? 笑っておいて腹の底が見えぬよりは」


「そうか。では今のおぬしは、親切なのだな」


「ええ、とても」


その言葉の応酬に、家臣たちは誰一人動けなかった。

止めれば火に油だと分かるし、黙っていればどう転ぶか分からない。

勘十郎などは、何度か口を開きかけては閉じている。


だがその一方で、信秀はどこか面白がるように二人を見比べていた。


そして、帰蝶も吉法師も、表向きの言葉とは裏腹に、内心では同じことを感じていた。


――噂ほど、底の浅い相手ではない。


帰蝶は、吉法師をもっと軽薄な変わり者だと思っていた。

礼も知らず、思いつきで騒ぎ、ただ周囲を引っかき回すだけの若殿だと。

だが目の前の少年は違う。無礼ではあるが、その無礼は鈍さから来るものではなかった。

相手の言葉を即座に受け、その裏まで嗅ぎ取り、怖れず返してくる。

しかも目が笑っていない。人を見る目をしている。


一方、吉法師もまた、帰蝶をただ気の強い姫だとは思わなくなっていた。


きつい言葉を口にしながらも、呼吸は乱れず、広間の空気を読み切っている。

父の名を背負うだけの娘なら、ここまで自然に牙を出しては引かぬだろう。

相手を試し、こちらの反応を見て、その場の者たちの気配まで拾っている。

やはり、ただの姫ではない。


「噂を半分に聞けと申すけれど」


帰蝶が言った。


「半分どころか、随分盛ってあったみたい」


「こちらもだ」


吉法師は言う。


「もっと冷たい娘かと思っていた」


「私は冷たいわよ」


「なら、そのわりにはよく喋る」


帰蝶の口元が、わずかに動いた。


笑ったわけではない。だが、怒ってばかりでもなかった。


「兄上」


勘十郎がようやく口を挟んだ。


「帰蝶殿も、ようこそお越しくださいました」


その声音は柔らかく、場を収めようとする気遣いがにじんでいた。

帰蝶は勘十郎へ視線を移し、一瞬だけその穏やかさを確かめるように見た。

なるほど、こちらが弟か、と分かる。礼儀正しく、角が立たず、人を安心させる声音だ。


「ご丁寧に」


帰蝶はきちんと応じる。


だが、そのあと再び目は吉法師へ戻った。


広間の者たちは、それを見逃さなかった。

姫君の興味が兄へ向いている。

そのこと自体がまた、新しい火種にもなり得るのだが、そこまで意識している者はまだ少ない。


信秀がようやく口を開いた。


「もうよい」


その声には笑いが混じっていた。


「顔を合わせてすぐ噛みつき合うとは、なかなか見事なものよ」


政秀は心の中で頭を抱えたが、信秀がそれを面白がっている以上、表には出せなかった。


帰蝶は信秀へ向き直り、静かに頭を下げる。


「ご無礼を」


「いや」


信秀は言う。


「美濃の姫が、ただ座ってにこにこしておるばかりでも困る」


帰蝶の目がわずかに和らいだ。


それを見て吉法師は、少しだけ眉を上げる。

父の前では、ちゃんと柔らかくもできるのか、と。


その視線に気づいたのか、帰蝶はちらりとこちらを見て、ほんの少しだけ口元を上げた。


まるで、「まだ終わっていないわよ」とでも言いたげな、小さな笑みだった。


吉法師も、それを見てわずかに笑う。


この場でこれ以上言葉を重ねれば、本当に広間が割れる。

だが、言葉を止めたところで、二人の間に生まれたものが消えるわけではなかった。


政秀は、その空気を感じ取りながら思う。


最悪の初対面であり、同時にこれ以上なく噛み合った初対面でもある。


勘十郎は、兄と帰蝶を交互に見ていた。兄が相手を面白がっていることも、帰蝶がまた兄へ興味を持ったことも、何となく分かってしまう。

胸の奥に小さな苦みが落ちたが、それが嫉妬なのか、不安なのか、自分でもまだ言葉にはできなかった。


やがて一同は席へ着き、形だけは穏やかな顔合わせの続きを始めることになる。


だが、広間に漂う空気は、初めに入ってきた時とはもう違っていた。

美濃から来た姫君は、ただの飾りではない。

尾張の嫡男も、ただのうつけではない。

そのことを、その場にいた者たちは皆、はっきり思い知らされたのである。


那古野城の庭では、午後の光が少しずつ傾き始めていた。

風が松の枝を揺らし、白砂の上の影を細く震わせる。

そして広間の中では、まだ始まったばかりの口喧嘩の残り火が、静かに燻り続けていた。

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