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第25話 信秀の病

その朝、信秀は血を吐いた。


最初にそれを見たのは、寝所へ薬湯を運んできた近習の小姓だった。

まだ年若いその小姓は、いつものように音を立てぬよう襖を開け、湯気の立つ椀を盆にのせたまま室内へ入ったのだが、次の瞬間、喉の奥で短い悲鳴を噛み殺すことになる。


信秀が、脇息にもたれたまま口元を押さえていた。


白い紙の上に、鮮やかすぎる赤が落ちている。

少量ではあったが、それでも見間違えようのない色だった。

畳の上には朝の光が斜めに差していたから、その赤はなおさらくっきりと目に刺さった。


「……との、」


小姓の声は震えていた。


信秀は顔を上げたが、その目にうろたえた色はなかった。

むしろ、見られたか、という程度の静かな諦めが浮かんでいた。

戦場で傷を負った時と変わらぬ目だったから、かえって小姓は何も言えなくなる。


信秀は口元の血を拭い、低く言った。


「騒ぐな」


その一言で、小姓は背筋を強ばらせた。


「……は、はい」


「平手を呼べ」


「は」


「他には言うな」


言いつけられた小姓は深々と頭を下げ、ほとんど転がるように部屋を出ていった。

だが、他には言うなと命じられたところで、人の顔色というものは隠しきれぬ。

若い小姓が青ざめたまま廊下を走れば、それだけで周りの者は胸騒ぎを覚える。

那古野城のような場所では、ひとつの異変が声になるより先に気配として広がっていくものだった。


平手政秀が呼ばれて寝所へ入った時には、信秀はもう何事もなかったような顔で座していた。

先ほどの紙は片づけられ、口元にも赤は残っていない。

だが、政秀は畳の匂いの奥に、わずかに鉄じみた生臭さが混じるのを感じ取った。


「殿」


信秀は、障子の外へ目を向けたまま言った。


「騒ぐほどではない」


その言葉が、かえって重かった。


政秀は近くまで進み、静かに座した。

長く仕えてきた男の変化は、細かな息づかいだけで分かる。

顔色は悪くない。声も通る。

だが、胸の奥に何かが引っかかっているような呼吸の浅さが、以前よりはっきりしていた。


「薬師を」


と政秀が口にすると、信秀はすぐに手を上げて制した。


「呼ぶなとは言わぬ。だが大げさにするな」


「承知しております」


「家中に余計な気を起こさせるな」


信秀はそう言って、ようやく政秀の方を見た。


その目には、病への怖れよりも、その先に起こるものへの警戒が宿っていた。己の身が弱っていくことより、それによって家中がどう動くかを先に見ている目である。

そこがこの男らしいところであり、政秀にとってはもっとも苦しいところでもあった。


「少し咳が深くなっただけだ」


信秀は言った。


「そういうことに、しておきますか」


政秀が答えると、信秀はふっと笑った。


「おぬしは、昔からそういうところだけは口が重いな」


「重くせねば、殿の家中は保てませぬ」


「違いない」


短いやり取りだったが、その中にあるものは軽くない。


表向きには軽い不調として伏せる。

だが、政秀も信秀も、それが“軽い”ものではないと知っている。

そして、知っている者は他にも少しずつ増えていく。


その日のうちに薬師が密かに呼ばれた。


表向きは「風邪が長引いておる」とされたが、医師が寝所へ出入りし、薬湯の匂いが濃くなり、近習の顔色が悪くなれば、さすがに何も起きていないとは思われない。

城の空気はゆっくりと変わり始めた。


まだ誰も口にはしない。


だが、皆が同じことを胸のどこかで意識し始める。


――その時が近いのではないか。


その“その時”という言葉の曖昧さが、かえって不気味だった。

誰も信秀死去とは口にしない。家督という言葉も出さない。

だが、出さぬままに、城全体が次を思い始めている。


昼を過ぎた頃、奥向きでは早くも女中たちの間で小さな囁きが交わされていた。


「殿のお咳、長うございますねえ」


「朝から薬師殿がお見えだったとか」


「声に出してはいけませんよ」


「分かっておりますよ。でも……」


でも、その先は言わぬ。言わぬのに、目だけが続きを語っていた。


女たちの世界では、男たちよりも早く空気が冷えることがある。

寝所の出入り、薬の量、食の細り方、衣の替えの頻度、そうしたものを日々見ているのは奥向きの者たちだからだ。

戦や政の表ではなく、体そのものの衰えを先に知るのは、たいてい女たちの方である。


そして、その冷えは母たちの胸へすぐに届く。


吉法師の母も、勘十郎の母も、表向きには何事もない顔をしていた。だが、子を持つ女の顔は、案じるものができた途端にわずかに変わる。

声の柔らかさ、視線の置き方、夜更けまで起きている時間の長さ、そうしたものが少しずつ違ってくる。


吉法師の母は、息子が相変わらず落ち着きなく城の内外を歩き回るのを見て、前にも増して複雑な顔をするようになった。


「あの子は……」


と呟いて、その先を飲み込む。


誇らしいと思う瞬間もある。

だが同時に、不安でもある。

この城の中で吉法師がどのように見られているか、まるで気づいていない母ではない。変わり者、うつけ、だが異様に勘の鋭い若殿。

その評判が家中を二つに割りかけていることくらい、奥向きにいても伝わってくる。


一方、勘十郎の母は、より静かに、しかし着実に息子の身の回りへ気を配り始めていた。衣を整え、会う者を選び、あまり遅くまで兄の後を追わぬよう、それとなく近習へ言いつける。

決して露骨ではない。

だが“もしも”に備える女の慎重さが、そこにははっきりあった。


城の中では、そうした細い動きが重なり、まだ誰も口にしない“次”が形を持ち始めていく。


その日の夕方、吉法師は父の異変について、平手政秀から直接聞かされたわけではなかった。

ただ、城の空気がいつもと違うことには気づいていた。


小姓の足音が軽くない。

廊下で人が声を落とす。

女中が目を合わせるとすぐに逸らす。

誰もが、何かを知っていて、それをまだ言葉にしていない。


吉法師はそういう気配に妙に敏い。


「平手」


夕暮れの庭先で、吉法師は不意に政秀を呼んだ。


「何でしょう」


「父上は、どこが悪い」


政秀は一瞬だけ息を止めた。


隠し通せるとは思っていなかった。だが、こうも早く問われるとは思わなかった。

吉法師は父の寝所を覗いたわけではないだろう。

ただ、人の顔と空気の変化から勘づいたのだ。


「……少し、お疲れが出ておられます」


政秀はまずそう答えた。


吉法師は黙って政秀を見た。


その目に、「それだけではあるまい」と書いてある。


政秀は視線を外さずに続けた。


「大事にはなっておりませぬ」


それもまた、嘘ではない。まだ、である。


だが吉法師は納得しない顔をした。


「大事でないのに、皆がああいう顔をするか」


政秀は答えなかった。


答えぬことが、答えになってしまうと知りながら、それでも今は言葉にできない。


吉法師はしばらく政秀を見ていたが、やがてそれ以上は問わなかった。

ただ、庭の向こうへ目をやり、低く言った。


「城が冷えておる」


その一言に、政秀は胸の奥が重くなった。


城が冷えている。

まさにその通りだった。


火を焚けば暖かくなるような冷えではない。

人の心が先に冬を知った時の冷たさである。

まだ死者も出ていない。誰も倒れていない。

だが、来るかもしれぬものに備えて、人はもう胸を閉じ始めている。


「吉法師様」


政秀は静かに言った。


「今は、軽々しく何も動かれませぬよう」


「動けばどうなる」


「余計な勘ぐりを呼びます」


「もう十分に呼んでおるだろう」


その返しは、ひどく吉法師らしかった。


政秀は否定できない。


実際、家督の話はまだ誰も口にしていない。

だが、していないだけで、意識は皆そこに向き始めている。

吉法師が動けば、吉法師派がいると思われる。

勘十郎が大人しくしていても、勘十郎派がそれを勝手に意味づける。


誰も何もしていないうちから、人の心だけが先に動いているのだ。


その夜、勘十郎もまた、母の部屋へ呼ばれていた。


部屋の中には控えめな香の匂いが漂い、灯りは必要以上に明るくない。

母は息子を前にしても、動揺を見せぬように穏やかな顔を保っていたが、その穏やかさが逆に勘十郎を不安にさせた。


「母上」


「勘十郎」


母は静かに言う。


「しばらくは、兄上を立てなさい」


勘十郎は少し目を見開いた。


「それは、いつもしております」


「そういう意味ではありません」


母は扇の端を指でなぞりながら続ける。


「余計なことを申さず、騒がず、目立たず、だが人には礼を失わず。そうしておいで」


勘十郎は、その言葉の意味を完全には理解しきれなかった。

だが、“その時”を見据えて言われていることだけは分かった。


「……父上のご容体は」


問うと、母は一瞬だけ目を伏せた。


その沈黙の短さが、逆に重かった。


「案じておいでなさい」


それだけだった。


一方、吉法師の寝所では、誰もそうした忠告をしなかった。

母も女中たちも、吉法師には何を言っても、そのまま真っ直ぐ返されることを知っている。

だからこそ、かえって言葉を選びすぎてしまう。


吉法師は夜更け、ひとりで廊下へ出た。


城は静まり返っている。遠くで夜番の足音が響き、庭の虫が鳴いている。

空には薄い雲がかかり、月の輪郭がぼんやりとにじんでいた。


父の寝所の方角を見る。


そこへ行ってよいのか、今は行くべきでないのか、その判断すら少し迷う。普段なら迷わぬことを迷うのは、やはり城全体の空気が違うからだった。


やがて吉法師は、その場で立ち尽くしたまま、小さく呟いた。


「まだ、早いだろう」


それが父へ向けた言葉なのか、自分へ向けた言葉なのか、本人にも分からなかったかもしれない。


那古野城の夜は深い。


だが、その深さより先に、城全体が同じものを意識し始めていた。

まだ誰も口にしない“次”。

まだ誰もはっきり言えない“その時”。


それは形のないまま、人の胸をじわじわと冷やしていく。


信秀はまだ生きている。

まだ倒れてはいない。

まだ織田家の主は揺らいでいない。


だが、城に生きる者たちの心だけは、すでに少しずつ、主のいない日を想像し始めていた。

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